春告姫

モドル | ススム | モクジ

  六の章 20  

 夜の内裏に人気はなく、あいかわらず茫洋とした傀儡があちこちにいる。
 倒壊した局の近くに立って、美春はあたりを見渡す。美春にとって四年前、この世界にとって百五十年程前まで、この局は美しい場所だった。
 目を伏せれば思い出す。池端で花を摘んで、咲哉に差し出したあの日の美春が、今もここにいる気がした。
 美春の視線は、やがて朱塗りの鳥居――神域の門に向けられる。決して近づいてはいけない、と言い聞かせられたあの門の向こうに、咲哉は打ち捨てられている。
 ふと、美春は近づいてくる足音に振り返った。
「いらっしゃい」
 ぼろぼろの衣を着た荷葉が、立ち尽くしている。もう手持ちの傀儡はないのか、ただ独りきり彼女は立っていた。
「箏は、あなたの箏爪は、どちらに? 壊さないと」
 虚ろな目でつぶやく荷葉を、恐ろしいとは思わなかった。ただ、憐れみだけがあった。これほどまでに自らを痛めつけて、それでもなお春が来ることが赦せないのか。
 荷葉の願いを知ってから、疑問に思っていたことがある。
「聞きたいことがあるの。春が来ることが赦せないなら、どうしてわたしを殺さなかったの?」
「……? それは、あなたが帝に守られていたから」
「違う。殺そうと思えば、殺すことはできたはずだよ。爪や箏を奪うより、ずっとその方が簡単だったのに」
 春が欲しくないなら、春を呼ぶという異姫を殺せば良かった。
「殺そうとしました! 兄さまの家に、火をつけたのは私で」
「うん。私が起きているのを分かっていて、火をつけたんだよね。逃げているときも、首を絞めたくせに結局ためらった」
 柊の隠れ家に火をつけたと打ち明けられても、驚きはなかった。美春が起きているのを分かっていて、助かると確信していたからこそ、荷葉は火事を起こしたのだ。
 そして、逃亡している最中も、眠っていた美春の首に手をかけながら、踏み切ることができなかった。
 最初から、荷葉は誰かを殺そうとは思っていなかった。否、殺そうとしたかもしれないが、殺すことはできなかった。
 山荘で伯を裏切ったとき、一思いに彼を殺さなかったのも同じことだ。
「どんなに憎くても、あなたは誰も殺せない。死んでいった人たちを知っているから」
 冬に呑まれた人々を見て来た荷葉には、誰かの命を奪うことができなかった。
 死んでいった人たちに同情して、彼らのことを想い続けた彼女は優し過ぎた。優しかったが故に、憎い相手すらも殺せなかった。
「あなたに、何が分かるのですか」
 詰め寄ってきた荷葉が、美春の襟首をつかんだ。勢い任せに押し倒されたとき、細い指先が首元にかかる。
 息苦しさはない。首を絞めようとして、指に力が入らないのだろう。大粒の涙を流しながら、それでも殺意に身を任せることのできない姿が憐れだった。
「この国を捨てたあなたに、分かるはずがない! 救う術を持ちながら、あなたは私たちを選ばなかった。あなたが、私たちを、……っ、八重を殺した!」
 むせび泣きながら、荷葉は美春を責めたてる。苛烈なまなざしは、荷葉だけではなく、冬に苦しんできたすべての人々のものだ。
 桜が枯れるとき異姫が攫われてくるならば、百五十年前も同じだった。
 あのとき、美春は生まれ育った世界に戻った。無理やり戻されたわけではない。故郷を恋しがっていた美春のために、咲哉が背を押してくれただけだ。
 二つの世界を天秤にかけて、美春は故郷をとった。
 もしもの未来など想像したところで、不毛なだけだ。
 しかし、美春がこの国に残っていれば、誰も死なずに済んだかもしれない。荷葉のように苦しむ人も生まれなかったかもしれない。
「分かってあげるなんて言えないよ。そんなこと言っちゃいけない。……哀しかったことも、苦しかったことも消えないから。でも、少しでもそんな想いをする人がいなくなるよう、できることをしたい。そのための力があるなら、今度こそ」
 荷葉はしゃくりあげながら、浅い呼吸を繰り返す。
「だって、もう……。もう、戻らないのに」
「うん。もう取り返せない。でも、祈りたいよ。死んでいった人たちの幸せも、これからを生きる人の幸福も」
 荷葉の瞳から零れた涙が、雨のように降る。落ちてきた彼女の涙で、舌には塩辛さが滲んでいく。その味を、決して忘れてはいけない。
 身を起こした美春は、荷葉を押しのけた。彼女はもう抵抗しなかった。
 美春は痛みを堪えるように拳を握って、荷葉に背を向ける。
 雲間から射す月明かりが、倒壊した咲哉の局を照らしていた。
 腐り落ちた木材があちこちに折り重なって、青紫の土は病んでいる。草一本生えることのない惨憺たる光景の奥には、朱塗りの鳥居があった。
 御座に置かれた箏の隣で、帝は鳥居の奥を見つめていた。
 美春は箏爪をゆっくりと嵌めると、箏の前に正座する。姿勢を正したとき、一瞬だけ帝と視線が交差した。
 ――ひとつ絃を爪弾けば、きいん、と空間がひび割れていく。咲哉の局ごと鳥居を守っていた膜に亀裂が入って、やがて鏡のように粉々に砕け散った。
 広がっていくのは、夢のような光景だった。
 まるで春の到来のように、穢れて紫に染まっていた地面から草花が芽吹きはじめる。腐り落ちた土地を浄化して、新しい命を繋いでいく光景は、まさに春そのものだった。
 そうして、暗闇だった鳥居の向こうに、今までにはなかった景色が現れる。
 小高い丘に、一本の桜木がそびえている。花房ひとつ、葉ひとつをつけずに枝を広げているその樹こそ、この国を守っていた桜の神だ。
 演奏を終えた美春は、ゆっくりと立ちあがる。
「まさか生きているうちに、こんな光景を目にできるとは思いませんでした」
 離れたところに控えていた柊が、まるで独り言のように零した。
「長らく苦労をかけて、すまなかった」
「いいえ。帝、あなたがいなければ、俺は死んでいました。たった一人の妹を見捨てて、池に身を投げた俺は、あのまま溺れていたでしょう。だから、あなたの役に立てるならば、どんなことも苦労だなんて思わなかった」
 かつて池で溺れていたという幼子の顔で、柊は笑っていた。晴れやかな笑みは、長年の憑き物が落ちたかのようだ。
「あれは、お前を助けるためではないよ」
「知っています。けれども、俺は嬉しかった。たとえ、あなたが本当に助けたかったのは、その女だったとしても。――信じています。あなたが、今度こそ正しい道を選ぶことを。もう、俺たちみたいな子どもは生まれない。誰も冬に殺されない」
「何を、言って……」
 会話についていけない美春を、太い腕が引き寄せた。
「ようやく。ようやく、終わることができる」
 白髪が頬を掠めて、まるで蜘蛛の糸のように、美春を絡めとった。ささやいた声は、今まで接してきた帝からは想像がつかないほど、幼い響きを持っていた。
 今、美春を抱きしめている人は誰なのだろうか。
 ――帝か、それとも。
「異姫の、本当の役目って、何?」
 声は上擦って、情けないほど震えていた。
 神域で果たさなければならない役目とは何だ。疑問に思いながらも、問うことはできず、終ぞ答えを手に入れることはなかった。
「昔話をしよう。余所者の神に頼った末、どうしようもなく愚かな真似を繰り返してきた小さな国の物語を」
 ささやくと同時、帝は腕に力を込める。
「この国の神は、異なる世から現れた桜だ。桜は、冬枯れに冒されていた国に春を呼び、優しい四季を授けた。……だが、桜とて、永遠に咲き続けることなどできるはずもなく。まして、異なる世から現れた桜にとって、こちらの土は毒に等しかった。土が合わないなら、合う土を探さなければ」
 そうしなければ、桜は枯れてしまう。この国は冬に呑まれてしまう。
「合う、土」
 その言葉を、美春は知っていた。
『永遠に桜が咲いてくれるように。僕たちが土になるんだよ』
 根付かなかった桜の枝を見下ろして、咲哉はそう告げたのだ。
「そう、異世の桜に合う土は、異世のものでなければいけなかった。代を重ねるごとに血が薄まったとはいえ、皇子にならば神の、異世の血が流れている。桜の子孫ならば、桜にとって毒にはならない」
 嫌な予感がして、耳を塞ぎたくなった。
「……咲哉は」
「神域に埋めるための供物。あれが死んだあと、外戚から新しい帝を選ぶはずだった」
 ――だから、神祇庁の者たちは、冬枯れの呪いを春宮の祟りと言った。
 供物として捧げられてしまった咲哉は、国を恨んでいるのではないか。咲哉を犠牲にした人間たちを憎んでいるのではないか。
 故に、咲哉の魂を鎮めなければならない、慰めなければならない、と思いつめた。
「で、でも! 咲哉が、死んだなら。咲哉は、間違ってなんか! 過ちを犯してなんか、いない。裏切り者なんかじゃない!」
 咲哉が、桜のための供物だったと認めたくない。仮に、供物になってしまったというならば、どうして、春宮は過ちを犯したと責められる。
 彼は役目を果たしたではないか。
「察しの悪い娘。必要だったのは、神にとって毒にならない土だ。皇子がそうであるように、神の血を継ぐ存在なら他にもいた」
 美春は息を呑む。途方もない遣る瀬無さに襲われて、頭が真っ白になる。
「異姫」
 美春の祖先が桜と姫君ならば、まるきりこちらの皇子と同じなのだ。
「桜が咲くために必要なのは、祈りなどではなかったよ」
 帝の声が、かつての少年と重なっていく。
『桜が咲くために必要なのは、何だと思う?』
 何もできぬ美春を大事に囲っていた彼は、その言葉をどんな気持ちで口にしたのか。
「ぜんぶ、逆だったの? 死んだ咲哉の祟りが、桜を枯らそうとしたわけじゃない。桜が枯れるから、咲哉は死ななければならなかった。……桜が、神様が咲くために必要だったのは、祈りなんかじゃなくて」
 人間が何かを犠牲にすることでしか生きられぬように、神もまた、咲き誇るためには犠牲が必要だったのだ。
「お前も僕も、どちらも神の血筋。――尤も、血が薄くなった僕は、供物としてふさわしくなかったようだけど。中途半端に拒まれて、身体だけ神域に囚われてしまった。行き場をなくした僕の魂は、こんな人形のなかで長い時を過ごすしかなかったよ。お前にとっては、たった四年だっけ? でも、僕にとっては百五十年もの時間だ」
 喉の奥がからからになって、息をするほど痛みが走る。
「美春」
 彼は嬉しそうに美春を呼ぶ。かつてと同じように。
 傀儡に魂はない。
 傀儡子がいなければ、彼らは物言わぬ道具であり、隠れ家に吊るされていた虚ろな人形と変わらない。
 美春は帝の操り手を柊だと思っていたが、そうではなかった。美春が勘付くことができなかっただけで、違和感はあちこちにあったのだ。
 神祇庁で箏爪に触れたとき、傀儡でありながらも、帝は爪に拒絶された。
 拒まれたのは、他の傀儡と違って、帝は魂なき道具ではなかったからだ。
 異世に通じる魂を宿しながらも、異世の血肉を持たない人形の身体であるが故に、爪は帝を拒んだ。
 思い返せば、帝だけは、どんな傀儡とも違い、表情を持っていた。当たり前のように笑って、苦しんで、人間のようにふるまう。
 魂なき人形には心がない。
 ならば、心ある人形とは魂が宿っている証・・・・・・・・・・・・・・・ではないのだろうか。
 ――傀儡としての帝を望んだのは、咲哉だった。
 誰よりも帝を望んだのが彼だったならば、答えはひとつしかない。傀儡の帝を操り、百五十年もの時を過ごした人は、ずっとここにいたのだ。

「咲哉」

 この傀儡に宿った魂こそ、美春の会いたかった少年だ。
 ならば、咲哉を死に追い遣ったのは――。
「わたしが、桜姫? 咲哉を死に追い遣った」
 美春こそ、咲哉を殺し、役目を果たすことなく異世へ逃げた女。
「お前は変わらないね。あの頃のまま、無邪気に私の――僕の隣で笑っている。嬉しくて、同じくらい憎らしかった。僕は、こんなにも変わり果ててしまったのに、お前は変わらず笑っていたから」
 四年の歳月は、美春を変えるには短すぎた。
 だが、百五十年は、少年だった咲哉を変質させるには十分過ぎた。彼は美春と過ごした男の子には戻れない。戻ることなどできるはずもなかった。
「僕の春告げ鳥、どうして戻ってきたの。お前の幸せを願って、会えないからこそ僕は耐えられたのに」
 必ず帰ると言った美春に、待っている、と咲哉は返した。幼い約束だった。その約束が互いを縛りつけることになると二人とも理解していなかった。
 美春の約束は、幾度も咲哉の心を切り裂いただろう。叶うはずもないと諦めさせては、わずかな期待を抱かせたまま、彼をずっと絶望の淵に立たせた。
 二人が共有したのは一年だ。
 たった一年の日々で、百五十年の苦痛に耐えられるものか。
 変わることのできない傀儡の身で、変わることのできる魂をした彼は、永劫にも似た痛みに抱かれていたのだ。
「寒くて、痛くて堪らないんだ。独りは寂しかった」
 その寂しさを与えた美春を憎まずにはいられなかったのだろう。そうでなくては、彼の心は耐えられなかった。
 そうして、咲哉は、――傀儡に閉じ込められた少年は、美春を糾弾する。
「だから、帰ってきたお前を見たとき、赦せなかったよ。どうして、お前は笑っているの? 僕が苦しんだ分と同じだけ、傷ついてくれないと不公平だろう」
 思い返せば、いつだって、帝は美春の望む言葉をくれた。美春を知っていたからこそ、美春の心に寄り添えたのだ。
「あなたは、一度だって好きとは言ってくれなかった」
 美春に恋い焦がれる素振りと裏腹に、たしかな好意を口にしなかった。
「お前のことなど、好きではないから」
 かつて咲哉が与えてくれたものと同じでありながら、ずっと残酷に美春をなぶる響きだ。
 美春に優しくしていたのも、うつむく美春を何度も励ましていたのも、すべてはこんな風に美春を傷つけるための手段に過ぎなかった。
 美春が思い寄せる様はさぞかし滑稽で、愉快に映っただろう。
「……それでも、あなたが好き」
 だが、裏切られたとしても、すべて偽りだったとしても、想いまでは捨てられなかった。
 恋をした。潰えてしまった初恋とは違う、十六の美春はこの傀儡に焦がれたのだ。たとえ、すべて仕組まれたものだったとしても、この恋心までは消せない。
 美春はまなじりに力をこめて、零れそうな涙を堪えた。もう泣かないと決めたのだから涙を流すことだけはしない。
「ならば、その想いを抱いて、桜の下で眠ってくれ」
 美春を引き摺って、咲哉は神域に繋がる鳥居を潜った。



モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2019 東堂 燦 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-