ラヴィニアのおいしい魔法

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  02  

 リエトは眼前に広がる光景に苦笑する。
 見慣れた少女の代わりに食事を持ってきたのは、離宮に滞在している女性だった。
「ラヴィは?」
 隣に立つバルトロに問うたつもりだったが、先に唇を開いたのはディアナだった。
「あの子なら私に役目を譲って、何処かに行かれましたけれど。おいしい料理を殿下に食べていただきたい、と笑っていましたよ」
 すらすらと嘘をつく女を見つめながら、リエトは想像する。ラヴィニアは幼げな容貌どおり押しに弱いので、ディアナに丸め込まれたのかもしれない。
 ラヴィニアの実年齢は二十三歳なのだが、やはり魔獣であるため、精神的な成長が遅い。リエトが考えるに、あの娘の精神は十代半ばに達したか達していないかと言ったところだ。本人の気質を考えたら、もっと幼い可能性もある。
「困った子だな」
 大事な役目を人に譲るなんてひどい話だが、ラヴィニアの気持ちも分からなくはない。
 人間の傍で長く過ごしているため、彼女の価値観は人のものに近い。仮にも伯爵令嬢であるディアナに強く出て、リエトに迷惑をかけることを恐れたのだろう。
「本日の料理は……」
 料理を説明するディアナの声は、その気質が滲んでいるのか、何処となく硬さがある。ラヴィニアの甘ったれた声とは大違いである。
彩も盛り付けも申し分ない料理は、リエトも知らないものだった。
 北部を治める伯爵家は、閉鎖的なこの国にしては珍しく、諸外国に伝手を持っている。家を出たとはいえ実家の援助がなかったわけではないだろうから、その伝手を存分に使って各地を転々としながら修行していたのだろう。
 舌の肥えた弟は、ディアナの作る異国の料理に興味をそそられたのかもしれない。王宮という鳥籠から出られない彼は、いつも外の世界に焦がれていた。
 窮屈な王宮は、あの弟には似合わない。
 国王となってからはおとなしいが、本来の弟は、昔のリエトと同じだ。太陽の下を駆けまわっては臣下たちを困らせ、乳母に叱られるような、とにかく好奇心旺盛な少年だった。
「バルトロ」
 名を呼べば、良く心得た護衛はすぐさまテーブルの上に並べられた料理を見つめる。金を塗したような眼がしているのは、まさしく毒見であった。
「あの、何を……?」
「ああ、気にしないで。ただの慣例だから」
 王族として毒に慣らされたリエトの身体には、たいていの毒は意味をなさない。しかし、なかには例外も存在し、バルトロはその例外を判断できる稀有な魔獣だった。
「問題ありません」
「そう。なら良かった」
 リエトは料理に手をつける。いつもの食事と違うため気が進まないが、可愛い弟の我儘を叶えてやるためには多少の我慢も必要だ。
「ありがとう、わざわざ作ってくれて」
 食事を終えたリエトが口元を拭うと、ディアナは頬を赤らめて、落ち着かないように視線を泳がせる。照れた子どものような仕草だったが、彼女は大人びた外見に反して、年齢はリエトの弟とそう変わらないことを思い出す。
「これから、たくさんお作りしますね」
 リエトは苦笑した。当初願い出たとおり、離宮に居座るつもりらしい。
「すまないけど、これから少し立て込むから下がってもらえるかな」
 ディアナが出ていくのを見送ってから、リエトは渋面を作る。
「やっぱり厄介ごとだったね。叶うならば、穏便に陛下のところに送り出したいんだけど」
「……申し訳ありません。うちの主が」
「良いよ。弟の我儘くらい叶えてあげないとね。そのせいでラヴィが割りを食うのは腹立たしいけれど」
 リエトは執務机の引き出しから、硝子の小箱に入った飴細工を出す。数日前に渡された飴細工は、リエトの要望のとおり垂れ耳の兎を模している。
「見てよ、これ。私のために作ってくれたんだよ。あの子は本当に可愛いよね。食べるのがもったいなくて」
「惚気話なら余所でしてくださいよ。チビのことなんて俺には関係ないんですから」
「そんなこと言うけど、お前だってラヴィのこと嫌いではないだろ? 面倒見が良いのも考えものだなあ」
「……あなたからチビを取り上げたりしないので、安心してください」
 バルトロは付き合ってられないとばかりに肩を竦めた。
 可愛らしい兎の形をした飴細工を、リエトは口内に放り込む。
「毒見はどうしたんですか、毒見は」
「要らないよ、ラヴィが作ったものなんだから。ああ、ラヴィの料理が食べたいな」
 舌を撫ぜる彼女の味が恋しくて、リエトは不貞腐れたようにつぶやく。


 ラヴィニアは陰鬱とした表情で、庭園の隅で膝を抱えていた。
 ――あまりにも手際よく、厨房はディアナに占拠されてしまった。
 離宮の使用人たちは、主であるリエトにならって魔獣であるラヴィニアにも優しい。それを見越してか、ディアナは厨房に入らないのはラヴィニアの意志だと吹聴ふいちょうしたのだ。
 おいしい料理をリエトに食べてもらいたいから、ラヴィニアが自主的に役目を譲った。そう使用人たちは信じている。
「リエト、大丈夫かな」
 ラヴィニアは涙を堪えるために、きつく唇を噛む。
バルトロが毒見をしてくれているだろうが、リエトの負担を考えると、長期に渡って他人が作った料理を食べさせるのは望ましくない。
「チビ。こんなところで小さくなっていると蹴っ飛ばすぞ」
 むっとして、ラヴィニアは顔をあげる。近くの木に寄りかかって、バルトロが面倒くさそうに腕を組んでいた。
「護衛はどうしたの?」
「暇を出された。陛下が見舞いに来ているから、大丈夫だとさ」
 ラヴィニアは納得する。国王の護衛を突破できる存在はまずいない。彼と一緒ならばリエトの安全は保障されている。
「厨房から追い出されたのか? 何やってんだよ。料理できなかったら、お前、何の役にも立たないじゃねえか。大した特性もないのに」
 反論できず、ラヴィニアは口を噤んだ。
 魔獣は、種族ごとに異なる特性を持っている。
 人間が魔獣と契約するのは、この特性が主な理由だった。
 体内に特殊な毒を蓄えるもの、天候を操るもの、身体能力が際立っているもの、挙げたらきりがないほど、魔獣の持つ特性は多岐に渡る。
 たとえば、バルトロは魔力を操ることに秀でており、人間の魔力を糧に驚異的な身体能力を誇る。一瞬にして相手の首を刎ねることができる彼は、毒だろうが呪いだろうが主人を害するものを見破る目を持っている。並みの人間では契約を結べない高位の魔獣であり、国王がリエトを守るために遣わした強固な盾だった。
 一方、ラヴィニアには大して秀でた点がない。特性はあるにはあるのだが、かなり限定的なものであり、生まれてこの方使ったことはない。そもそも使う場面がない。
「どうしよう。役立たずになったら、リエトに捨てられちゃう!」
「いや、料理なんてできなくたって、リエト様はチビのこと大好きだから大丈夫なんじゃねえの。良いだろ、別に。愛玩用として傍にいれば」
「……っ、いや! バルトロ、嫌い。どうして、そんなひどいこと言うの!」
 ラヴィニアのように下位の魔獣は、愛玩用に密猟されることが多々ある。
 ラヴィニアがリエトのもとに身を寄せたのは、王立騎士団によって密猟者から救出されたことが理由だ。身寄りのない魔獣のあつかいに困った騎士団は、何の力も持たない安全な遊び道具として、ラヴィニアを当時王太子であったリエトに献上した。
 二人が十にも満たぬ頃の話だった。
「わたし、そんなことで、リエトの傍にいたくない」
 愛でられるため人によって狩られ、ラヴィニアは故郷も家族も失った。それにもかかわらず、その狩られた理由がリエトの傍にいる理由になるなど耐えられない。
 バルトロはばつが悪そうに頬を指でかいた。
「悪かった。お前たち、乱獲のせいで滅びる寸前だったな」
「……わたし、リエトと一緒にいたいの」
「分かっている。お前は、ずっとリエト様と一緒だったんだ。俺には良く分かんねえけど、人間みたいな情が湧くには十分過ぎる時間なんだろ」
 バルトロは成体になって百年以上、姿かたちのとおり身も心も成熟した魔獣だ。人生のほとんどを人間と過ごしたラヴィニアより、根本的な感覚が魔獣のものに近い。
 魔獣にとって、情より優先すべきは生きること、ひいては種の繁栄である。
 おそらく、ラヴィニアがリエトを慕う心の半分ですら、バルトロにとっては得体の知れない気持ちなのだ。
「リエト様が、お前の料理を恋しがっていた。夜中、厨房に忍び込んで作れよ。あの女も、それなら文句言えないだろ」
 バルトロの気遣いに、ラヴィニアは目を白黒させた。
 魔獣には身分など関係ないが、ラヴィニアの行動次第でリエトに迷惑がかかるため、ずっと厨房に入るのを我慢していた。
 しかし、ディアナがいない時間なら、こっそり厨房を使っても大丈夫だろう。
「今夜作ってみる。リエト、最近、夜更かししてばかりだから心配」
「あー、療養中に溜まった仕事だな。陛下も頑張っているんだが、まだ十七歳だから。本当は、リエト様はどっかの領地で穏やかに暮らした方が良いんだろうが、いま王宮を下がられると困る」
「分かっているよ、仕方ないことだって。陛下は良い子だから、リエトも可愛いって、助けてやりたいって言っているもの」
 他者に冷たいリエトが情を向ける数少ない相手が、実弟である国王だった。
 リエトは何も言わないが、負い目があるのだろう。本来ならば自分が背負わなければならなかった国王としての重圧を、六つ年下の弟に背負わせたことを気に病んでいる。
「可愛いか? くそ生意気なガキだぞ」
「その生意気なガキと契約したのは誰?」
 魔獣が契約を交わすのは、よほど入れ込んだ人間に対してだけだ。契約した魔獣は、契約相手からしか魔力を受け取ることができなくなるのだから。
 相手に命を預ける覚悟、相手と一緒に死ぬ覚悟がなければ、契約など交わせない。
「そうだ。リエトに作ってあげる料理、陛下にも分けてあげようかな」
「……やめろ。お前のはじめての料理が、あの人トラウマになってんだから」
 失礼な物言いに、ラヴィニアは頬を膨らませた。


 慣れ親しんだ厨房は、たった数日で様変わりしていた。
 ラヴィニアが使っていた一角は、すっかりディアナのものとなっている。道具を捨てられなかったことは幸いだが、収納場所を変えられてしまったため、探すのに苦労した。
 ラヴィニアは小さく歌を口ずさみながら、リエトの好物であるアマレッティの材料を手際よく捏ねて、釜のなかでじっくり焼きはじめる。
 アマレッティは、アーモンドの風味がする焼き菓子である。少し苦味のあるこの焼き菓子は、幾度も作ったことがあった。
 ようやく焼きあがったアマレッティを籠に入れたとき、厨房の扉が開かれる。黒髪をきっちりと結わえ、飾り気のない侍従のような恰好をしたディアナが立っていた。
「なんであんたがここにいるのよ」
「ディアナこそ、どうして」
「明日の仕込みに決まっているでしょ」
 こんな夜遅くから仕込みをするほど、彼女は仕事に誇りを持っている。思えば、年頃の娘にもかかわらず化粧気がないのも、料理人としての矜持からなのだろう。
「だいだい、魔獣がどうして料理なんかするのよ。味なんて分からないあんたみたいなのに、殿下の食事を用意させるなんてどうかしている」
 ディアナの言うとおり、魔獣に味覚は存在しない。魔力を糧とするため、人間や動物のような食事が必要ないからだ。
 ――《おいしい》は、どんな気持ちなのだろう。
 リエトが口にするその想いが、魔獣であるラヴィニアには分からない。おいしいと声をかけてもらえると胸が熱くなるが、同時に未知の感情に不安を覚えた。
「リエトは、おいしいって言ってくれるよ」
 苛立たしげにディアナは舌打ちした。
「そんなの嘘よ。お可哀想なリエト殿下。こんな獣にも優しい方だから、本当のことを言えないだけ」
「そんなことない! 違うもん」
「違うも何もないわ! はやく、ここから出て行ってよ。厨房は獣が入って良い場所じゃないのよ!」
「リエトの許可は取っているもの!」
「……っ、良いから出てけって言っているのよ! 愛玩用だからって、簡単に殿下の傍に置いてもらえて良いわね、魔獣って。とっても楽して生きられて! 良いご身分よ、人に仇名す害獣のくせに!」
 ラヴィニアが作った菓子を摘まんで、一口齧ったディアナは顔を歪めた。そのまま食べ切る頃には、今にも吐き出しそうなほど嫌悪感をあらわにする。
「こんなもの殿下に食べさせるつもり? やめてよ、下町の子どもの方がまだ上手に作るわよ」
 堪らず、ディアナから籠を奪い取った。
「ディアナに作ったものじゃない! リエトがおいしいって言えば、あなたがまずいって言っても関係ない!」
「だから、殿下はあんたに同情しているだけだって、言っているでしょ! ……ああっ、もう良いわ。なら、殿下に直接選んでもらいましょう!」
 苛立たしげに前髪をかき上げて、ディアナは声を張りあげた。
「選ぶ?」
「そうよ。リエト殿下に食べてもらって、選ばれた方が勝ちよ。ね、簡単でしょ?」
 ディアナの提案に、一瞬、ラヴィニアは返事をためらった。勝負事など、小さい頃に散々リエトに負かされたカードゲームが最後である。
「自信がないの?」
 弱気になったラヴィニアを見透かして、ディアナは唇を吊り上げた。
「……っ、ある!」
「そう、なら明日。殿下が選んだおいしい料理を作った方が、ここの料理人よ。あたしが勝ったら、あんたには出ていってもらうから、この獣!」
 背を押されて、無理やり厨房から追い出される。なんとか落とさずにいた籠を両手で抱えて、ラヴィニアは走り出した。
 悔しさが込みあげて、唇を強く噛みしめた。


 リエトの執務室に飛び込んだとき、ラヴィニアの視界は急速に狭まってしまった。掌から零れ落ちた籠は、幸いにも中身をひっくり返すことなく床に落ちる。
 執務室の天井がとても高く感じられた。視線が低くなって、纏っていた柔らかなエプロンドレスが敷布のように広がる。
「ラヴィ?」
 奥から現れたリエトは、ラヴィニアを見るなり苦笑する。
「お前は、落ち込むとすぐに獣の姿になってしまうね」
 リエトは垂れ耳の白兎になったラヴィニアを抱きあげた。
 魔獣は自然界では動物に擬態し、人間界では人を装うので、獣と人の二つの形を持っている。常人には区別がつかないが、リエトのように魔力のある人間は、感覚的に魔獣とそれ以外を見分けられた。
「ああ、私のために作ってくれたのかな。懐かしいね」
 リエトのまなざしが、床に投げ出された籠に向けられた。
「……気まぐれだもの」
 兎の姿をしたラヴィニアが渋々答えると、リエトは喉を震わせた。
「気まぐれでも嬉しいよ。憶えている? 十二のとき、お前ははじめての料理として、これを私に振る舞った」
 憶えている。忘れるはずがなかった。
 憔悴しきって寝台に横たわる、痩せこけて青白い顔をしたリエト。今にも死んでしまいそうな彼が可哀想で、あのときのラヴィニアは背筋が凍るほどの恐怖を味わっていた。
「おいしかったよ。私の人生で一番」
「嘘つき。ひどい味だったって、陛下があとでこっそり教えてくれたもの」
 ラヴィニアが見よう見まねでつくったアマレッティは、とても食べられるものではなかった、と国王はあとで教えてくれた。ラヴィニアのはじめての料理は国王陛下のトラウマである。
 そんな拙いものを、どんな御馳走よりもおいしい、とリエトは食べた。
涙で顔を濡らしながら咀嚼した少年を思うと、今でもラヴィニアの胸はつかえる。
「どんな味でも、一番おいしかったよ。お前が私を生かすために作ってくれたものだから。あのとき、お前だけは私を諦めずにいてくれた」
「リエト」
「ラヴィが傍にいてくれるから、私は生きていられる」
 それが甘い嘘ではなく、彼の本心なのだと知っていた。
 彼の食事を作る役目は、誰にも譲れない。この人の心にある一番柔らかくて脆い場所を守ると、十年以上も前にラヴィニアは誓ったのだ。
「なら、ずっと傍にいてあげる」
 ――だから、生きて。
 ラヴィニアは泣きそうな顔で、昔と変わらぬ願いを声に乗せた。


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