幸いは罪の味
はじまり
その果実は甘く、あなたの血肉の味がした。
夜の帳が落ちて、あたりには激しい雨が降っていた。
分厚い雲に星明かりは遮られ、月の光もわずかにしか届かない。市壁にぶつかっては濁流を生み出す雨は、舗道にいくつものぬかるみをつくりだしていた。
眠っていた意識が、急速に引きあげられる。膚を濡らす雨の冷たさに、アティルはゆっくりと目を開いた。
気づけば、アティルは走っていた。
結わえた銀髪を揺らし、息を弾ませながら市内を駆けていた。
下衣のうえから被ったチュニックが水を吸って、十七歳の少女らしい丸みを帯びた身体に纏わりつく。白い靴を履いた両足は泥が跳ねて、ひどい有様だった。
――はやく、逃げなければ。遠くに行かなければ。
雨は足跡を消して、夜の闇はアティルを隠すだろう。されど、いずれ雲は流れて、まばゆいばかりの朝が訪れてしまう。
「ここは、何処?」
土地勘のないアティルは、いつのまにか見知らぬ建物に足を踏み入れていた。
暗がりに白い石柱が浮かんで、石造りの廊下が続いている。何処かの邸の外回廊だろう。この闇では、知らず知らず敷地内に迷い込んでも不思議ではない。
人気がなく、打ち捨てられた廃墟のような場所だった。
不意に、鼻先を甘い香りがくすぐった。奇妙なことに、その香りは雨に消されることなく、アティルのもとまで届いた。
香りに誘われるまま、アティルは外回廊から中庭に降り立った。
それは、砂原の庭だった。柘榴の木が寂しげに一本そびえている。雨で色濃くなった砂地は、もとは純白だったのか、雨の当たらぬ木陰ではさらさら風に流れていた。
甘い匂いは、柘榴の木から漂っていた。
赤い蕾はついているものの、花すら咲かせていない木から、どうして香りがするのだろうか。不思議に思いながら、アティルは柘榴に近寄った。
「何をしている」
鋭い声に、アティルは振り返った。深い闇が広がるばかりで、誰の姿も確認できない。
「誰?」
恐怖で声が引きつったが、アティルは気丈に振る舞おうとする。
突如、闇に灯りが浮かんだ。橙のランプに照らされて、声の主が浮き彫りになっていく。
外回廊に長身の男が立っている。鋭い、猛禽類のような眼をした男だ。短く切り揃えた髪は見事な銀色で、月明かりよりもよほど輝いている。
「……夢でも。見ているのか」
彼は目を見張って、それから苦しげに眉をひそめた。困ったような、あるいは疲れたような顔をして、彼は手招きする。
「そんなとこにいると風邪を引く。なかに入ると良い」
アティルは首を横に振った。
「わたし。逃げない、と」
「逃げる? 追われているなら、なおさら雨のなか逃げるのは止せ。体力を削られて、いざというとき力が出なくなる」
男の言葉は正論だった。疲れ果てた身体では、いずれ身動きがとれなくなるだろう。
「でも、逃げない、と」
アティルは
譫言のように繰り返した。きっと、逃げ続けなければ悪いことが起きてしまう。
「なら、匿ってやる。せめて雨が止むまで休め」
男は濡れることを厭わずアティルに歩み寄り、手を差し伸べた。
この人は、信頼できるのだろうか。
言い知れぬ不安が込みあげるが、男の顔が可愛いあの子と、弟のように可愛がっていた男の子と重なった。
あの子は、いつもアティルを案じてくれた。円らな瞳を揺らして、痛みを堪えるようにじっとアティルを見つめるのだ。
目の前にいる男と同じ表情で。
そう思うと同時、アティルは差し伸べられた手を取っていた。力強く掌を握られて、アティル男に抱き寄せられる。
逞しい腕に包まれたとき、アティルの意識は闇に落ちた。
ひとつめ 失くした記憶
アティルが生まれたのは、絢爛な
宮殿の奥に秘された離宮だった。
アラベスク模様の白壁が美しい離宮で、ともに暮らしていたのは、入れ代わり立ち代わり現れる世話係の宮女だけだった。
外界から隔絶された離宮には、時折、可愛らしい客人が現れた。アティルが弟のように思っていた少年だった。
「あねうえ」
幼い日の記憶が、鮮やかによみがえる。アティルは十歳を迎えたばかりで、三つ年下の彼はまだ七つだった。
「ロディ、どうしたの?」
アティルは屈み込んで、彼と視線を合わせる。丸い頬を朱色に染めて、ロディは無邪気に笑った。
「あねうえは、ぼくが守ってあげるね」
彼はアティルに抱きついて、恥ずかしそうに口にした。彼の言葉が嬉しくて、アティルも薄い背中に腕をまわした。
守るなんて、そんなことを言ってくれたのはロディだけだった。
「なら、ロディ。ずっと、あなたの傍にいるわ。あなたがわたしを守ってくれるように。わたしもあなたを守ってあげられるように」
アティルが秘密を囁くように誓うと、突然、視界が蜃気楼のように揺らいだ。場面が次々と移り変わって、走馬灯のように駆け巡って、やがてひとつの記憶に辿りつく。
幼かった男の子は、背の高い少年となっていた。絹の上衣に宝石の飾りをつけて、薄い唇をつり上げている。まるでアティルを嘲るように。
「嘘つき」
十四歳を迎えた美しい少年は、鋭い声でアティルを非難した。
「神殿になんて逃がさない。僕を置き去りにするなんて赦さないから」
アティルの肩を掴む手は、小さな彼のものと重ならない。耳に感じた吐息に、アティルは身を震わした。
「外になんて出してあげない」
冷たい、まるで蛇のような舌が耳朶を掠める。彼の持っていた杯が唇にあてられ、喉を焼く熱い液体を注がれたとき――。
「やめて、ロディ!」
絶叫して、アティルは目覚めを迎えた。
勢い良く上半身を起こした瞬間、額が何かと衝突する。頭蓋骨が揺さぶられて、目の前で火花が散った。
近くでかすかな悲鳴があがる。男の声だった。記憶のなかのロディよりも低く、とうの昔に少年期を過ぎた大人ものだ。
我に返って、アティルは周囲に視線を遣る。
殺風景で古びた部屋だ。アティルがいるのは岩のようにかたい寝台で、部屋の隅には埃を被った調度品が申し訳程度に置かれている。煌々としたランプの明かりだけが、寂れた部屋のなかで鮮やかだった。
「……目が覚めたのは良かったけれど。もう少しゆっくり起きてほしかった」
寝台の傍にいる男に、アティルは息を呑む。
とても綺麗な貌をしていた。ロディもそれは美しい少年だったが、この男は見ているだけで首を垂れたくなるような、跪きたくなるような暴力的な美しさを持っていた。
それはアティルたちの祀る女神のような、人ならざるものの美と似ていた。
男は赤くなった額を掌で押さえている。アティルが頭突きしたのは、彼の額だったらしい。
「あ。……ご、ごめんなさい!」
アティルは慌てて謝罪する。頭が揺れるほどの衝撃だったのだから、彼もひどい痛みを味わっただろう。
「気分はどうだ? あれだけ元気に起きあがったなら、大丈夫だと思うけれど」
男は苦笑して、アティルに問いかける。
そういえば、昨夜、男の腕で気を失ったのだ。もしかしたら、今まで看病してくれていたのかもしれない。
「大丈夫よ、ありがとう。あの、あなたは?」
「ああ、名乗りもしていなかったか。俺はファリード。ここの管理人みたいなものだな。雨季のときだけ住んでいる」
「なら、ここの御主人様? とても大きな邸ね。まるで宮殿みたい」
夜闇のせいで細部までは分からなかったが、立派な回廊を思えば、それは大きな邸なのだろう。
「あんたに御主人様、とか呼ばれると困るな。ファリードで良い」
「ファリード? ここは何処なのか、聞いても良いかしら。わたし、離きゅ……、東で暮らしているのだけど」
離宮、と言いかけて、咄嗟に誤魔化した。アティルは公式の記録では存在しない人間で、暮らしていた離宮も表向きには廃墟とされている。
「東? なんで、また東から。真逆だろうに。ここはシャカラの西だ」
西ということは、女神の祀られた神殿が治める土地だ。
アティルの生まれたシャカラ王国は、堅牢な市壁に守られた都市とわずかな周辺農村を支配する小国である。
王権が非常に弱く、ほとんど神殿に牛耳られているので、王国というより神聖国家とでも呼ぶべきなのかもしれない。西域は神殿の本拠地であり、王権の及ばぬ完全なる治外法権の場と化していた。
「なら、あなたは神殿の、人……っ!」
そこまで言ったアティルは、噎せて咳き込んでしまった。目を丸くしたファリードが、慌てて背中をさすってくれる。
「おい、大丈夫か。水でも飲んで落ち着け」
彼は水瓶から杯に透明な液体を注ぐと、アティルに差し出してきた。おそらく、飲み水なのだろう。
「……っ、いや!」
ほとんど無意識のうちに、アティルは寝台のうえで後ずさった。
喉が渇いて、アティルは再び咳き込んだ。ファリードが勧めるとおり、水を飲むべきなのだろう。されど、どうしても恐ろしかった。また、あのときのように喉が焼けるほどの痛みが待ち構えている気がした。
アティルのただならぬ様子に思うところがあったのか、ファリードは唇を開く。
「なら、これでどうだ?」
彼は杯に唇をつけると、ゆっくりと半分ほど呷った。
彼の喉が上下する光景を見つめていると、杯がアティルの薄い唇に押し当てられる。直後、無理やり口内に水が流し込まれた。
驚いて吐き出しそうになるが、杯が離れた途端、ファリードの大きな掌に口元を塞がれる。生温い水が喉奥に触れ、アティルはえづいた。耐えられずファリードの衣を握って拒否を示すが、彼は譲らなかった。
アティルは震えたまま、ゆっくりと水を飲み下すしかなかった。脂汗が背中に吹き出し、歯の根が合わず、まなじりに涙が滲む。
「大丈夫、安全な水だ。俺も、さっき飲んでいただろ?」
唇を噛んだアティルは、瞳を潤ませてファリードを見上げる。
アティルの目から涙が次々と溢れ出す。恐怖なのか、別の感情なのか、堰を切ったように涙が止まらなった。
「泣かないでくれ。泣かれると、どうすれば良いか、分からなくなる」
ファリードはためらいがちに、アティルのまなじりを指で拭う。不器用な仕草だったが、アティルを心配してくれているようだった。
「ごめんなさ、い。なんだか、涙が止まらなくて。お世話になって、申し訳ないのに。すぐに出ていくから」
「出て行くって、何処に? ……その、あんた訳ありだろ。しばらく、ここにいるか? 雨季が終わるまでなら匿ってやれるし、追われているなら、その方が良いだろ」
彼の提案は悪くないものだった。外はいまだに荒れているのか、激しい雨音が続いている。ひとまず天気が回復するまで匿ってもらい、それから逃げれば――。
アティルは大きく首を傾げた。
「わたし、どうして逃げていたのかしら」
思わず零れた疑問に、ファリードは眉根を寄せた。
「何も憶えていないのか?」
「いいえ。わたしが何であるのかは、憶えているの」
シャカラ王国、第一王女アティル。
宮殿の奥深くにある離宮で生まれ育ち、見捨てられた王女だったはずだ。神殿に属する神官を父に持つため、女王の唯一の子でありながら民から隠された。
これ以上、神殿の力を強めるわけにはいかず、アティルを王位に据えることに激しい反発があったのだ。そうして、アティルは存在しない王女となった。
アティルは眉間を押さえた。自らの立場や今まで蓄えてきた知識、そこに欠損はない。
「どうして、わたしは逃げていたの?」
何故、逃げなければならないのか。その理由だけが分からなくなっている。何かとても大事なことを忘れている気がした。
「あまり無理をしない方が良い。今は休め」
ファリードは労わるように、そっとアティルの髪を撫ぜた。アティルの視界の端に、銀糸のような自らの髪がちらつく。
「お揃いなのね」
ファリードは正確に意味を汲み取ったらしく、短く切り揃えた彼自身の銀髪に触れる。
アティルもファリードも同じ銀髪だ。そして、それは弟のように可愛がっていた男の子――ロディとも同じだった。
胸がざわめく。あの子は、ロディはいったい何処にいるのだろうか。
どうして、アティルの傍にいないのか。
「そうだな、お揃いだ。……銀髪の女は、やっぱり綺麗だな」
ファリードは首から下げたペンダントを握って、懐かしむように目を細めた。
アティルが彼にロディを重ねたように、彼もまたアティルの向こう側に誰かを見たのかもしれない。
ふたつめ 柘榴の葬送
ファリードに匿われて数日、穏やかに時は流れた。この邸には管理人である彼しかおらず、逃げているアティルにとっては都合も良かった。
「雨、止んだのね」
纏わりつくような湿気の多い朝だった。ずっと降り続いていた雨は、今しがた鳴りをひそめている。
外回廊をゆっくりと歩いていたアティルは、足を止めて、砂原の庭を眺める。
たった一本の柘榴が寂しげに佇んでいる。
どのようにして、この柘榴は不毛な砂に根を張り、花をつけたのだろうか。固く閉じていた蕾は、はじめて見たときと違って徐々に花開いていた。
懐かしいような、近寄りがたいような戸惑いがあった。砂庭の柘榴など知らぬはずだが、自然と目の奥が熱くなった。
アティルは柘榴に背を向けて、そのまま回廊伝いに歩いていく。
「ここから、入ってきたのかしら。やっぱり、とても大きな邸なのね」
やがて辿り着いた門を見上げて、アティルは目を白黒させた。
不自然に崩れかけているが、細やかな彫刻の施された立派な門だった。両隣には邸を囲うようにぐるりと壁が築かれている。
邸というより、やはり堅牢な砦に守られた宮殿に似ている。廃れてこそいるが、かつての栄華の名残が所々にあった。
ファリードは何者なのだろうか。もし彼が神官であるならば、何故、独りきりでここを管理しているのだろうか。
「アティル!」
名を呼ばれたとき、左の手首を強く握り込まれる。
「ファリード? どうかしたの」
彼は息を弾ませていた。痛いくらいに握られた手首に、アティルは不思議に思う。
「……部屋に、いなかった、から」
喉の奥から絞り出されたのは、子どものような言葉だった。まるで親とはぐれてしまった幼子のようだ。
「晴れていたから、外の様子が知りたくて。ごめんなさい、勝手をして」
「いや。俺の方こそ、すまない」
慌てて手を離したファリードは、青白い顔をしていた。アティルは彼の目元に薄らと隈があることに気づく。
「眠れて、いないの?」
「夢を見るんだ。悪い夢を」
縋るような眼差しだった。否、縋っているのは、アティルにではないのかもしれない。ファリードは別の誰かをアティルに重ねているのだ。
「おまじない。良く眠れるように」
不安げなファリードを見ていると、肋骨の奥が痛んだ。気づけば、アティルは彼の額に口づけていた。
――幼い頃、怖い夢に魘されるロディにしたように。
小さなロディと違い、彼の手を引いて、屈みこませなければ額に唇が届かなかった。それも、彼がうつむいていなければ叶わなかっただろう。
ファリードは、恐る恐る己の額に触れた。
アティルはできる限り優しく微笑む。
「大丈夫よ。助けてもらったのだもの。黙って、何処かに行ったりしないわ」
きっと、ファリードは誰かが何処かに消えてしまうことを恐れている。アティルを探したのは、過去に置き去りにされた記憶があるからなのかもしれない。
「あんたは、優しいんだな」
「まあ、優しいのはあなたよ。こんな得体の知れない人間を匿っているのだから」
アティルがくすくすと笑うと、ファリードは首を横に振った。
「優しいよ、あんたは。……街に出ようとしていたのか?」
ファリードが指差したのは、門の向こうにある街だ。この邸は高台に位置しているらしく、下方に広がる街の様子が一望できた。
「晴れているうちに、様子を見たいと思ったの。もしかしたら、どうして逃げていたのか分かるかもしれない」
アティルは逃亡者だ。しかし、どうして逃げているのか分からない。理由が分からなければ、これからのことも考えられない。
「なら、俺が案内しよう」
ファリードはそのまま歩き出して、アティルを手招きした。彼は門を潜って、建物と建物の間にある細い路地をくだっていく。アティルは小走りで彼の背中を追いかけた。
あの夜の闇では気づけなかったが、街にはいくつもの建物が立ち並んでいた。区画ごとに整備されているのか、舗装された道は綺麗な直線だ。
「あまり余所見をしているとはぐれる」
ファリードは苦笑し、あたりを見回すアティルの手を握った。
「ファリードの手は大きいのね」
繋がれた手の大きさに、ふとアティルは驚いた。
「あんたの手が小さいんだろ」
ファリードに手を引かれながら、アティルは不思議な気分になる。
ここはアティルの知らなかった、ロディが話してくれた外の世界なのだ。
叶うなら、あの可愛い男の子と歩きたかった街を、アティルは何処か彼と重なる男と歩いている。
やがて、人々が行き交う街の景色が視界に飛び込んできた。アティルは生まれてはじめて、自らの国で民がどのようにして生きているのかを知る。
「良かった。神殿は、ここをちゃんと治めているのね」
アティルは安堵の息をつく。王領であった東の土地さえ見たことのないアティルだが、神殿の治める西の地が潤っていることは感じ取れた。
雨季の曇り空に反して、人々は生き生きとしていた。ここは悪い場所ではないのだ。
「いや、神殿は……」
「ねえ、あれは?」
ファリードが何か言いかけたが、アティルは別のものに気を取られてしまった。
広場に数十人の人間が集まっていた。首を傾げていたアティルは、しばらくして、彼らが何のために集まっているのか気づいた。
「ああ。不幸があったのね」
広場には山盛りになった柘榴を抱えた女性がいる。泣いている彼女の隣にいた男が、柘榴を取って小刀で割り開いていく。
熟した果実から落ちた一粒一粒を、周囲の者たちが口にする。
泣き腫らした目をしている者や、青白い顔で眉間に皺を寄せる者、皆が悲しみに暮れていた。
シャカラ王国において、柘榴とは、葬送の儀礼のときのみ食べられる神聖な果実だ。
赤い実は死者の血肉、すなわち命の見立てである。亡き人とこれからの生を共にするために、その血肉に見立てた果実を遺された者たちは噛み砕く。
――あなたの血肉を糧として、あなたとともに生きるという誓いだった。
「あんなの何の意味もない。葬儀なんて、生きている人間の願望だ。死者を悼んでいるわけじゃない、自分たちを憐れんで慰めているだけ」
ファリードは苛立たしげに前髪をかきあげて、柘榴を食べる人々を睨んでいた。
ずいぶんと穿った見方だった。過去に何かあって、葬送という行為に思うところがあるのかもしれない。
「でも、食べることは命を繋ぐことよ。亡くなった人と一緒に生きることなの。それはとても素敵なことではないかしら」
アティルは想像する。この身が朽ちたあとも、誰かの――大事な人に寄り添うことができたならば、どんなに幸せだろうか。
「なら、あんたも。死んだときはああしてもらいたいのか?」
ファリードは問う。亡き人の命を分かち合う光景を見つめて、アティルは頷いた。
「ええ。わたしが死んだときは、一番大事な人に寄り添いたいわ」
そうして、この血肉を生きる力にしてほしいと切に願う。叶うならば、一番大事なあの子の――ロディに寄り添いたい。
「あんたの大事な人って、誰」
「可愛い、三つ年下の男の子。わたしの宝物。守ってあげる、と言ってくれたのよ。そんなことを言ってくれたのは、あの子だけだった」
アティルは自分が望まれない存在だったと知っている。幼い頃は理不尽に虐げられることが悲しくて、いつも泣いてばかりいた。
泣かなくなったのは、ロディが王宮に来てからだった。
小さな男の子、家族からの愛情をたっぷりと注がれて幸せに過ごしていた彼を孤独にしてしまったのは、アティルだった。
アティルが王位を継げないから、ロディは独り王宮に連れて来られ、不幸になった。
「わたしが、あの子から幸福を奪ったのに。いつだって、あの子はわたしを幸せにしてくれた」
アティルにとって、幸福とはロディを意味した。彼が笑ってくれるならば、それだけで満たされて、涙は自然と枯れていった。
「幸せにしてくれたなら、どうして、今のあんたは一人なんだよ。あんたは、そいつから逃げて来たんじゃないのか」
「え?」
思いもしなかった言葉に、アティルは目を丸くした。
「一緒にいないのは、そいつがあんたを不幸にしたからじゃないのか」
アティルは反論しようとして口籠った。ファリードの言うとおり、現在のアティルはロディと一緒ではない。
だが、それはアティルが不幸になったからではない。
「それは、わたしが。……わたしが」
アティルがロディを裏切ってしまったから、彼は――。
突然、大粒の滴が頬を打って、アティルはその冷たさにはっとする。
「降ってきたな」
ファリードは空を仰いだ。厚い雲から、いつのまにか透明な雨が降りはじめていた。
「帰るか。どうして逃げてんのか知らないけれど、何処かに行くのは、もう少し後にすると良い。あと数日もすれば雨季は終わる」
ファリードは強引にアティルを連れて、来た道を戻る。
アティルは釈然としないまま、名残惜しげに広場を振り返った。
割れた柘榴の赤を思い出す。
目の冴えるほど鮮やかな果実は、たしかに人の血肉に、命に似ていた。
◆◇◆◇◆
ファリードは砂原の庭にいた。
美しい白砂を鑑賞するためだけにつくられた、不毛の庭である。
ファリードにとって、大切な女性の眠る墓地でもあった。彼女の穏やかな眠りを願い、砂の下にその死体を埋めた。あらゆるしがらみを忘れて、安らかに眠ってほしかったのだ。
しかし、白砂の墓には、いつのまにか一本の柘榴の木が芽生えた。
毎年、雨季になってファリードが訪れる度、柘榴は育っていった。芽生えた木は背を伸ばし、葉を豊かにし、ついには花を咲かせてしまった。
そうして、もうすぐ実をつけるのだろう。
十数年間、ファリードは柘榴の成長を眺めていた。小高い木を罪の証のように思い、冷たく暗い水に心を沈めた。
この柘榴は、彼女の恨みなのだろうか。
葬送もしてやれなかった薄情な男を責めるよう、赤い花は鮮やかに咲く。
「伴も連れずにこちらに参るのはお止めください、と再三申し上げたはずですが」
背後から近づいてくる足音に、ファリードは溜息をついた。隣に並んだのは黒づくめの男だった。ファリードより十以上年嵩だが、鋭い雰囲気のせいか、妙な若々しさがあった。
「俺を連れ戻しに来たのか? ほんの短い雨季くらい好きに過ごさせろ。どうせ、俺はお飾りなのだから」
「お飾りなど。あなた様がいなければ、何もかもはじまりません」
「ああ、なるほど。お前の地位は俺の存在で成り立っているからな」
男が権威を揮えるのは、ファリードを傀儡としているからだ。
そのことに不満はなかった。ファリードにとって現在は何の意味もなさない。
ファリードの心はいつも過去にある。故に、犯してしまった罪を捨てられず、雨季になる度にシャカラの西――神殿の跡地を訪れるのだ。
「死者を偲ぶのは結構ですが、いい加減、目を覚ましてくださいませ。あの女はあなたを捨てて逃げようとしたのですよ」
ファリードは哄笑した。
「逃げた? 違う、お前がそう仕向けた。望む結果が得られて、さぞかし嬉しかっただろうな。邪魔な女は死んで、大事なお飾りだけがのうのうと生きているのだから!」
声を荒げると、黒衣の男は眉を吊り上げた。
「あの女は、あなた様に相応しくなかったのです」
「それを決めるのが、お前だと言うのか。傲慢もたいがいにしろよ! お前はいつだって俺の最善を謳いながら、俺の望まぬことばかりした」
ファリードは肩を震わせる。幼少期から変わらなかった。この男は、いつだってファリードのためと言いながら、ファリードの大切な者を奪っていく。
「なあ、今日、街で葬儀があったんだ。……俺は、あの人を見送ることもできなかった。お前が赦さなかったから、あの人は誰にも悼まれず朽ちてしまった」
白砂の下で、柔らかな肢体は崩れて、白い骨になってしまっただろう。見るも無残であろうその姿を確認する勇気を、ファリードは持てずにいる。
「あなた様に私を責める権利があると? 私は何もしていません」
「そう、実行したのは俺だった。ばかな言葉に騙されて、一番大事にしたかった人を、俺が死に追い遣った」
責めるように睨みつければ、男は耐えかねて俯いた。彼にも罪悪感があったのかと思うと、また笑いが零れそうだった。
そんな殊勝な感情があるならば、何故、あのような残酷な真似をしたのか。
「私は、正しいことをしました」
「そう、お前のした正しいことのおかげで、神殿は瓦解し、王権は力を取り戻した。お前の望みどおり、すべては終わったんだ。……っ、ならば、俺の望みも叶えろ!」
男は溜息をつく。
「うわさを、街で聞きました。銀髪の女性を連れていたそうですね。あの女も見事な銀髪でした。代わりで満足するなら、その程度の想いだったということでしょう」
だから、自分は悪くないと、男は主張する。何度も繰り返した、互いに譲らぬ堂々巡りの遣り取りに、ファリードはとうに疲れてしまっていた。
「帰れ。心配せずとも、雨季が終われば戻る」
男を追い払って、ファリードは砂の庭に崩れ落ちた。
――代わりなど、いるはずがない。
唯一無二だった。彼女を忘れて、未来を夢見ることなどできるはずもない。
やがて実りを迎える木から、甘い香りがした。
赤い柘榴の果実を想像しては、ファリードの胸は遣る瀬無さでいっぱいになる。
一番愛おしかった人の血肉、命の味を知らずに、ファリードは今日も過去に縋って息をしている。
みっつめ 夢まぼろし
眠れなかったアティルは、ランプを片手に邸を歩き回っていた。
自らが逃げていた理由は、いまだに思い出せないままだ。そのうえ、街に出たことで新たな疑問が生まれてしまった。
シャカラ王国の西は、神殿に支配された治外法権の場だ。離宮から一歩も出たことのないアティルとて、その意味は分かる。
つまり、神殿の影響力が最も強い場所。
「どうして、葬送の儀礼に神官がいなかったのかしら」
思い返してみると、先日、街で見た葬儀は奇妙だった。葬儀には女神の代理人たる神官がつきものだが、白い法衣を纏った彼らは見受けられなかった。
西は神殿の本拠地であるというのに、そのようなことあり得るのだろうか。
考え事に気を取られているうちに、アティルは奥まったところに足を踏み入れていた。
瓦礫の積み重なった広い空間だ。薄闇ではっきりとはしないが、天上には大きな絵が描かれているようだった。
「ファリード」
広間の片隅で膝を抱える男に、アティルは近寄る。
ランプを床に置くと、彼の美しい顔が照らされる。その表情はひどく苦しげで、眉間に寄った皺は痛々しいほどだった。
――悪夢を見るのだと、彼は言っていた。
アティルは、ファリードのことをほとんど知らない。彼の痛みも傷も分からなかったが、彼が苦しそうにしているのは嫌だと思った。
そっと手を伸ばして、短い銀髪に触れる。
突如、アティルは手首を掴まれ、そのままファリードに引き寄せられる。
瞬く間に起きた出来事に驚く暇もなく、きつく抱きしめられる。存在を確かめるように、彼の大きな掌がアティルの背を撫ぜた。
「悪い夢を、見たの?」
ファリードの顔を覗き込むように、アティルは上目づかいになる。
額に脂汗を滲ませた彼の唇は、血の気のない青紫に染まっている。アティルは身じろぎをして、彼の頬に片手を伸ばす。
「夢は、まぼろしよ。今のあなたには何の悪さもできないの」
ファリードは頬を引きつらせて、首を横に振った。
「まぼろしだから、苦しいんだ」
彼は吐露する。揺れる双眸には、どんな夢が、まぼろしが映っているのだろうか。
「ファリードは、少しも幸せそうじゃないのね。いつも苦しそうにしているわ」
彼はアティルが不幸になったのだと、街に出たとき言った。しかし、本当に不幸せなのは、アティルではなく彼だろう。
「それで良い。俺だけ幸せになるなんて、赦されないから」
彼は無意識のうちにか、首から下げたペンダントを握った。
「なかに、何か入っているの?」
はじめて逢った時から欠かさずつけているペンダントは、王国では一般的な意匠だ。なかに大事な物を仕舞うことができるよう、空洞のある造りとなっているのだ。
「遺髪だよ」
アティルは目を見張った。
遺髪。それはきっとファリードが大事にしたかった人のものだろう。
「誰よりも大事にしたかった人。三つ年上の優しい女で、優しかったからこそ不幸になった」
ファリードは笑う。泣いているのかと思ったが、涙はなかった。とうに枯れ果ててしまったのかもしれない。
「三つなら、わたしとロディと同じね」
「ロディ。……あんたが目覚めたとき、呼んでいた名前だ」
「弟みたいに思っていた、可愛い男の子よ。わたしの一番大切な人」
血の繋がりで言うならば、実の弟ではなく親戚にあたる。直系王族のアティルと違い、ロディは血の薄い傍系王族だった。
しかし、傍系であろうとも、神官を父に持ち、神殿の力を肥大させかねないアティルより玉座にふさわしかった。彼は親元から無理やり離されて、次代の王とされた。
「でも、あの子は、わたしを姉だなんて思っていなかったのかもしれない。だから、ロディは」
あねうえ、と呼ぶ声が、暗く恐ろしい声にかき消される。幼かった男の子は、いつしか美しい支配者となって、アティルを縛り付けようとした。
「ロディは、わたしに毒を飲ませたのかしら」
何処にもいかないで、と彼は懇願した。何処にも行かせないために、彼は嫌がるアティルの唇に毒を注いだ。
恨まれて当然だった。あの冷たく大きな宮殿に彼を置き去りにして、アティルは一人だけ逃げようとしたのだから。
「……それで。あんたは弟に毒を飲ませられて。だから、逃げて来たのか」
「違う!」
アティルは反射的に否定した。
「違う? 何が、違うんだ」
「違うの。もっと、別の、理由があったの」
「なら、なんであんたは憶えていないんだよ! 忘れたのは、あんたにとって辛い記憶だったからだろ」
あの日、アティルはロディから毒を飲ませられた。焼けるような熱い痛みがよみがえり、アティルは喉に触れる。
思い出せない。あの後、どうなったのだろう。
「ロディに会いたい。会って、伝えなくてはいけないの、あの男が来る前に。また邪魔をされる前に」
零れ落ちた言葉に、アティルは口元を押さる。思い出した。逃げなければいけなかったのは、あの黒衣の男からだ。
ロディを王にしかった彼は、いつだってアティルを邪魔に思っていた。
ファリードは眉をひそめた。
「会いたい? どんな理由があったにしても、姉のように慕った女に毒を含ませるような弟だ。ろくな奴じゃない」
「いいえ! 優しい子だったの。わたしなんかを守ろうとしてくれたのよ。なのに、わたしが! わたしが、ちゃんと……」
「もう、やめろ!」
ファリードの右手が振り上げられ、アティルは身を竦ませる。彼は掲げた手を下ろして、遣る瀬無さを堪えるよう、アティルの頬に触れた。
これ以上言うな、と縋る仕草だった。
「でも、思い出さないと。わたし、また取り返しのつかないことを」
「取り返しのつかないことなんて、とっくに起きている!」
「ファリー、ド?」
恐ろしい剣幕だった。アティルが名を呼ぶが、彼はまるで聞こえていないように捲し立てはじめる。
「なあ、記憶がないなんて、本当は嘘なんだろ? 俺を恨んでいるから、だから、あんたは現れたんだ! ……ここはシャカラの西だよ、だけど、あんたの知る頃とは違う。神殿の本拠地として機能しているなら、どうして神官がいない。こんな打ち捨てられて、俺みたいな男が管理しているんだよ!」
肩で息をしながら、ファリードは叫ぶ。彼が何を言っているのか理解して、アティルは所在無く視線を泳がせた。
「なら、ロディは?」
「アティル! あんたの小さな弟は、もういないんだ」
苛立たしげなファリードの態度に、アティルは萎縮してしまった。彼は言葉遣いこそ粗野だったが、ずっとアティルに優しく、声を荒げることはなかった。
「どうして、今になって。まぼろしなんて、……夢なんて、俺は見たくなかった」
ファリードは乱暴な足取りで去っていく。その背を追いかけることができず、アティルの足は地面に縫いとめられていた。
何故、気づかなかったのだろうか。
高台にある建物なんて、支配者が君臨する砦に決まっているではないか。
この寂れた建物は、それほど遠くない昔まで正常に機能していた。王権の及ばぬ豪奢な建物は、かつて権威を揮った神殿だったのだ。
「神、さま」
見上げた天井には大きな絵が描かれている。群生する柘榴の木に囲まれた女神は、慈悲深い笑みを浮かべていた。
――神は、柘榴を与えた。
魂と呼ばれる形なきものに、血肉を与えたのだ。女神によって肉体を得て、アティルたちは生と死、はじまりと終わりのある命を手にした。
「わたしが望んだから。だから、あなたは叶えてくれたの? まぼろしが、生まれてしまったの?」
本当ならば、アティルはとうの昔に――。
天井に描かれた女神は沈黙し、答えを与えてはくれない。祈るように見据えてもなお、微笑むばかりだった。
アティルは大きく息を吸って、去ってしまった男の背を追った。
おしまい 幸いの果実
雲間から月明かりが零れている。
風は甘い柘榴の香りを載せて、男の短く切り揃えた銀髪を撫ぜる。
白砂の庭に、ファリードは立っていた。
広い背中が弱々しいものに思えて、堪らず、アティルはその背に抱きつく。身体つきは逞しい大人の男のものだったが、込み上げたのは懐かしさだった。
「ねえ、ファリード。わたし、柘榴が好きなの。憧れていたのよ。神さまがわたしたちに与えてくれた、命の果実だから」
シャカラ王国において、柘榴は葬送に欠かせぬ果物だ。赤い実を死者の血肉に見立て、亡き人と共に生きるために食べる。
あなたの血肉を糧として、あなたとともに生きるという誓いだった。
「わたしはアティル。シャカラの王女。神官を父に持ち、だからこそ隠された」
アティルにとっては近しく、ファリードにとっては遠い過去のことだろう。
ただでさえ弱かった王権は、これ以上、神殿の干渉を赦すわけにはいかずなかった。故に、アティルが王位を就くことは認められなかった。
可愛い男の子は、アティルの代わりに王となるべく王宮に連れて来られた。黒衣の臣下に引き立てられた彼は、皮肉にも離宮に幽閉されたアティルと出逢ってしまった。
「わたし、一度もあなたに名乗らなかったのよ。なのに、あなたはわたしの名を知っていた」
アティル、と彼は名を呼んだ。知るはずのない名前を何度も口にしていたのだ。
アティルはファリードの背から離れて、正面へと回る。彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「わたしは、ここに眠っているのね」
柘榴の木に触れながら、ファリードに問いかける。彼は痛みを堪えるかのように眉根を寄せ、肯定を示した。
「……俺が、あなたを殺した。あなたが神殿に行くと言うから、俺を置き去りにしようとしたから。だから、何処にもいけないように縛り付けたくて。……殺すつもりなんて、なかったのに。あなたを、この手で」
懺悔するよう、ファリードは不格好に笑う。
「あねうえ」
弱々しい声は、幼い頃にアティルを守ると誓った声と同じだった。
「ロディ」
アティルの大事な男の子は、いつのまにか大きくなった。
降りしきる雨のなか、死んだはずの女が享年と変わらぬ姿で現れたとき、彼は何を思ったのだろうか。
アティルは目を落として、白砂に根づいた柘榴を見る。不毛な砂地に根を張った柘榴が何であるのか、今のアティルは知っている。
――この柘榴は、アティルの化身だ。
埋められたアティルの死体を糧として、柘榴は血染めの花を咲かし、長い歳月をかけてようやく実りをつけた。
「何度も、後悔を繰り返す。もっと別のかたちで、あなたを引き留めることができたはずだ。あなたは優しい人だった。だから、俺が……、僕が言葉を尽くせば、傍に、いてくれたのに」
ロディの言葉に耳を傾けながら、アティルは思い返す。
彼にとってのアティルは、自惚れではなく、唯一の拠り所だったのだろう。幼いうちに親元から離された彼が、アティルに依存したのは必然だった。
それにもかかわらず、アティルは黒衣の男――ロディを引き立てた男の甘言で、彼から離れようとした。自分のせいでロディの立場が危うくなるならば、離れるべきだと言い聞かせた。
本当は恐ろしかっただけだ。小さなロディが大人になって、いつか捨てられる日が怖かったから、卑怯にも自ら身を退こうとした。
「言葉が足りなかったのは、わたしも同じよ。あなたがこんなにもわたしを想ってくれていたことを信じず、逃げたのだから」
あの黒衣の男は、アティルが邪魔だった。大事な王子を誑かす存在として憎んでいた。
故に、最も残酷な方法――ロディの手でアティルを殺めさせた。引き留める毒と嘯いて、致死性の毒をロディに使わせたのだ。
「でもね、あの男が何もしなくとも、この結末は訪れたと思うの。わたしは、あなたに嫌われることが、ずっと怖かったから」
いつか必ず、不安に支配されて、ロディを置き去りにして逃げようとしただろう。
「俺が、あなたを嫌うはずない。アティル。ずっと、あなたの名を呼びたかった。あなたのことが、ずっと」
――ずっと、好きだった、と彼は涙する。
ロディは長らく過去に囚われていたのかもしれない。アティルが死んでから、たった一人で自らの犯した罪に溺れていた。
アティルはそれを知らず、この砂原で眠っていた。いつか実る自分の血肉を信じて、――彼の命とともに生きる未来を夢見ながら、砂の下で意識を閉ざした。
今、ここにある身体は、実体を伴っていようともまぼろしに過ぎない。
女神の気紛れなのか、砂の底で朽ちて柘榴となった身体とは別に、最後の機会がアティルに与えられた。
ならば、その機会に感謝しよう。
おかげで、アティルはようやく想いを告げられる。ようやく自分の心をロディに伝えることができる。
「ロディ、あなたは葬送を生きている者の慰めだと言ったけれど。……やっぱり、食べることは命を繋ぐことなのよ。ひとつになった命は、その人のなかで息づいて、やがてともに眠りに就くの」
アティルの化身となった柘榴の木には、たった一つ実がなっている。最後の力を振り絞るようにして実った、熟してひび割れた果実だ。
「やり直すことはできない。過去はなかったことにはならないもの。でも、あなたが寂しくないように、わたしがこれから寄り添ってあげることはできるのよ」
甘く、芳しい柘榴の香りを感じながら、アティルは目を細める。
毒を飲んで死んだ後のことは分からない。ただ、冷たくなったアティルを抱いて嘆く少年はありあり想像できた。
憐れな王子は黒衣の男が望んだとおり王となり、神殿を滅ぼして王権を取り戻した。
そして、アティルを殺した悪夢に苛まれ続けている。
赦しを与えることは簡単だった。
アティルはロディを恨んではいない。後悔はあるが、それは彼に自らの想いを伝えられなかった後悔であり、殺されたことに対する恨み辛みではない。
しかし、赦すと言ってもロディの傷は癒えないだろう。ならば、せめてその傷に寄り添いたい。
この結末は二人の罪だから、ロディだけに背負わせはしない。
散ってしまった赤い花弁を踏みつけて、アティルは大きく実った柘榴を取った。
ひび割れた柘榴に親指を突き立てて、零れた実を掌に受ける。両手で抱えた自らの血肉を、ロディの前に翳した。
「傍にいるわ。あなたの命が尽きる日に、あなたの死に寄り添って、わたしはあなたと一緒に眠るのよ」
それは幸福な未来だ。誰にも、ロディにだって不幸だとは言わせない。
一番大事な人の命に、寄り添うことができるのだから。
「一緒に、いてくれるの?」
はらはらと零れ落ちる涙をそのままにして、ロディは唇を噛んだ。その泣き顔は子どもの頃と変わらない。
アティルを守ろうとしてくれた、アティルの守りたかった人のままだ。
「ええ。あなたは、わたしの幸せだもの」
ロディこそ、アティルのたったひとつの幸福だった。
ロディは柘榴の実を口にして、肩を震わせる。彼の喉が上下して、ゆっくり、ゆっくりとアティルの血肉が彼とひとつになっていく。
見る見るうちに枯れた柘榴の木は、朽ちた骨のように、あるいは儚い墓標のように、さらさらとした白い砂から突き出る。
アティルは笑って、甘い果実の蜜で光る彼の唇に、そっと自らのそれを重ねた。
◆◇◆◇◆
夜の帳が落ちていた。
降りしきる雨の音を、ロディは玉座に坐しながら聞いていた。雨季を迎えても西域に赴かなくなって、いったい幾年が過ぎただろうか。
ロディは今日も夢を見る。
繰り返した過去のまぼろしではなく、これから続いていく未来への夢を。
「アティル」
今ではもう誰も呼ばぬ、ロディが殺め、ロディと一緒に生きる人の名だった。
長らく弔ってやることもできず、砂の牢獄に閉じ込めてしまった彼女は、今、ロディのなかで笑っているだろうか。
――幸いは、何処にあるのだろうか。
それは、きっと、この胸に息づいている。いつかこの命を全うしたとき、愛しい人と生きた人生の果てで、ロディは彼女と眠りにつくのだ。
瞼の裏には美しい赤が滲んでいる。割り開かれた果実は、彼女の血肉はとても暖かな色をしていた。
「あなたも、幸せだと笑ってくれるだろうか」
泣きながら口にした柘榴は、あなたの血肉の味がした。それは繰り返し舌先によみがえる、この生涯に寄り添う幸いの甘さだった。