永遠は菫色

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  01  

 ヴィオレット・クエルバスは、この星のとある世界、とある大国の第一王女である。魔法という名の文明を発達させ、その力を以ってすべてを定める世界に生まれついた。
 王位争いの駒として担ぎあげられた、お飾り、お人形のような王女だった。
 ヴィオレットは、薄っすらと紫の目を開いた。
 まばゆい光に目を痛めながら、手探りであたりを確認する。何処かに寝かされているようだが、ひどい頭痛がして、上体を起こすので精いっぱいだった。
 頭のなかを、直接、鈎針で掻きまわされているかのようだ。
 周囲に視線を遣ると、鉄屑のようなもの――先が二股に分かれた銀色の棒や、十字を描いた円に螺旋状の突起が合わさったもの――が、床や棚に散乱していた。ヴィオレットが見たことものない奇妙な形をしていた。
「わたくし、どうして」
 昨日は、ずっと王位を争っていた異母弟おとうとヨハンが即位した日だった。
 戴冠式を終えた夜更け、ヴィオレットは彼の自室に招かれたのだ。
 振る舞われた葡萄酒に、おそらく薬が混ざっていた。意識が遠くなったとき、すまない、とヨハンは謝っていた。
 油断していたヴィオレットが悪かったのだろう。しかし、まさか王位継承権を放棄したあとに一服盛られるとは思っていなかった。
 最初から、ヴィオレットには王位を継ぐつもりはなかった。
 母親の身分が高かろうとも、魔法に優れていたのは異母弟であるヨハンであり、彼こそ王としてふさわしかった。
 ――ヨハンは、ヴィオレットを憎んでいたのだろうか。
 ようやく、幼い頃のように一緒にいられるはずだった。仲の良い姉弟に戻れる、と夢見ていたのはヴィオレットだけで、彼はヴィオレットを憎んでいたのだろう。
 涙が溢れそうになって、ヴィオレットは目元を擦った。心の整理がつかず、怒りと悲しみが綯交ぜになっている。
 頭を抱えるように両耳に手を当てたとき、ヴィオレットは気づく。
「わたくしのピアスは?」
 異母弟とお揃いだった大事な耳飾りがない。慌ててあたりを確かめるが、何処にも落ちている様子はなかった。
「うそ」
 男の声に、ヴィオレットは顔をあげる。
 部屋の入口に青年が立っていた。世にも珍しい菫色の髪に、黄水晶そのものを嵌めたような目をしている。
 ヴィオレットは雷に打たれたような衝撃を受けた。
 王女という立場上、幼い頃から美しいものに触れてきた自負がある。大国である故郷は、諸外国から数多の価値あるものを捧げられた。大好きな異母弟も、傾城と呼ばれた母親譲りの端整な貌をしていた。
 だが、こんなに美しいものは知らない。
 青年はヴィオレットの人生で、最も美しい男だった。
 彼はゆっくりと近寄ってきて、惚けているヴィオレットの両頬を包んだ。
「頬が赤い。やっぱり故障かな? どうしよう。ここには設備も道具も揃っていないんだけど」
 彼は眉をひそめて、思いついたように両手を叩く。
「とりあえず、分解バラしちゃおうか。最悪、中身を見てから直せば良いんだから」
 次の瞬間、ヴィオレットの寝間着が肩口から下ろされた。
「え?」
 中に着込んでいた下着だけの姿になり、ヴィオレットは間の抜けた声をあげる。彼は手を緩めず、そのまま下着にまで手を掛ける。
「……っ、へ、変態。何をするの!」
 ヴィオレットは我に返り、男の頬を平手打ちにした。
 かたい頬骨に掌が痺れて、ヴィオレットは声にならない悲鳴をあげる。叩かれた男は、まるで痛みを感じていないかのように首を傾げた。
「それだけ動けるなら、壊れてはいないのかな? 良かった。人形の整備をするのは久しぶりだったから、ちょっと不安だったんだ」
「に、人形? 何を言っているの? 良いから、さっさと退いて!」
 ヴィオレットが喚くと、青年は不思議そうに瞬きをひとつした。
「どうして、そんなに声を荒らげるの? やっぱり、何処か壊れているんじゃないの」
 壊れた。ヴィオレットが本当に人形のような言い方だった。背筋に寒気が走る。先ほどから、彼はヴィオレットを人間としてあつかってくれない。
「壊れた、なんて言わないで。わたくしは人間よ、あなたの言う人形ではないの! ここはどこ、あなた、なに? どうして、わたくしはここにいるの!」
「何処って。ここは《狭間》だよ。落ちていた君を拾ったんだ」
「……待って。いま、何て言ったの? ねえ、ここが何処だって」
「だから、《狭間》だよ。この星に重なり合った、世界と世界の隙間だね」
 ヴィオレットは青ざめた。
 この星は、たくさんの世界が少しずつ重なり合うようにして創られている。文化も文明を異なる世界は、時折、異世界と交流を重ねながら、それぞれが独自の発展を遂げてきた。
 ヴィオレットの生まれた世界は、魔法という理に支配されており、他の世界は、また別の理によって動いている。
 そんな星のなかで、どの世界でも禁忌とされている場がある。落ちたら二度と戻れぬと言われるその場所は、世界と世界の隙間――《狭間》と呼ばれていた。
「うそ、でしょう?」
「嘘なんて、エリクは……、僕はつかないよ。疑うなら、窓の外を見て」
 エリクと名乗った男に言われるがまま、ヴィオレットは外を見た。
「なに、これ」
 外には街並みが広がっていた。ただし、それはヴィオレットが知る街ではなかった。
 逆さまに浮いた建物、斜めにねじれた舗道、何もかもがぐちゃぐちゃで、混沌とした不思議な世界が広がっていた。
「本当に、《狭間》なの?」
「そうだよ。君は棄てられたんだ」
 ヴィオレットは両手で顔を覆った。涙が次々と溢れて、指先が冷たくなる。
「泣いているの? どうして」
 何が悲しいのか分からない、とエリクは不思議そうにしている。無遠慮に目元に触れた冷たい指をヴィオレットは振り払った。
「……っ、出て行って。独りにして」
 柔らかな寝台のうえで、ヴィオレットは膝を抱える。
「ここ、僕の家なんだけど?」
「女の泣き顔を見るのはマナー違反よ」
 エリクは何の遠慮もなく、ヴィオレットの隣に腰かける。
「家主を追い出す方が、マナー違反なんじゃないの? やっぱり君、壊れていると思うな。修理が必要だと思う」
 結局、ヴィオレットが泣き疲れて眠るまで、エリクは傍にいた。

◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 目が覚めたとき、ヴィオレットは絶叫した。
 ヴィオレットの寝顔を、じっと黄水晶の瞳が覗き込んでいたからだ。
「どうして、一緒寝ているの! わたくし許可していないのに!」
「寝てないよ? ずっと起きていたから」
「そういう問題ではないの! 一晩中わたくしの寝顔を見ていたってこと⁉」
「故郷で見たビスクドールみたいだった。ああいうのを、みんな可愛い、と言うでしょう? だから、君は可愛い。君を作った人は、可愛いお人形を作ることが上手だったんだね」
 褒め言葉らしいが、まったく褒められている気がしなかった。
「あなたみたいな美しい人に褒められても嘘くさいのよ」
「僕が美人なのは当然だよ。だって、エリクは美しくあるべきなんだから。……涙、止まったね。あんまりにも泣いちゃうから、干からびてしまうんじゃないかって思ったんだ」
 骨張った指が、ヴィオレットの目元に触れる。
 もしかして、一晩中、ヴィオレットのことを心配してくれていたのだろうか。そう思うと、いくら気遣いの足りない男でも、無下にできなかった。
 考えてみれば、道端に落ちていたヴィオレットを、わざわざ家まで連れてきてくれたのだ。
 泣き喚くヴィオレットを放り出さず、ひとつしかない寝台を貸してくれたことも考えると、根は優しい男なのだろう。
「御礼申し上げます。ありがとう。その、わたくしのこと心配してくれて」
「どういたしまして? で合っているのかな。落ちついたなら、はじめまして、をしようよ。僕はエリク・ドッカ。この《狭間》にいるから、《狭間》のエリク・ドッカと名乗るべきなのかな」
 この星では、名乗りの前に、所属する世界や国を足すのが慣例だ。
「ヴィオレット。《魔法界》の、クエルバスの第一王女。ヴィオレット・クエルバスと申します。エリク様?」
「エリクで良いよ。僕もヴィオレットと呼ぶから。人でもモノでも、《狭間》に棄てられたものは平等だ」
 言外に、ヴィオレットを王女としてあつかわない、とエリクは告げる。その言葉が、ヴィオレットの胸に突き刺さった。
 信じていた異母弟に裏切られて、こんな場所に棄てられて、いまのヴィオレットには王女と名乗る資格はない。何も持たない空っぽの少女だった。
「わたくし、もう帰れないの?」
 誰にも覚られず、誰にも看取られることなく、この場所で朽ちるのか。
「ううん。帰る方法がないわけではないよ。実際、《狭間》にあるものは、時折、もとの場所に帰っていくから」
「本当?」
「エリクは、僕は嘘をつかない。縁があれば戻れるよ。ここは墓場のような場所だけれど、いろんな世界と繋がっているから。向こうに縁が残っているならば、その縁を頼りに帰れるかもしれない」
 エリクは言葉を選ぶように、慎重に言う。おそらく、ヴィオレットに過度な期待を抱かせないために。
「縁って、何?」
「繋がりのことだよ。君がそこにいた、そこで生きていたという証。身につけていたものでも、君自身でも、何かしらの繋がりが残っていれば、《狭間》の門は、君の世界に繋がるかもしれない。あくまで、可能性の話だけれど」
 世界と世界には門扉がある。
 普段は硬く閉ざされたその場所は、基本的には双方の同意があって開かれるもの。
 あれは内側からも外側からも鍵のかけられた扉だから、片方が鍵を開けただけでは、世界と世界を繋ぐ門扉は開かない。
 だが、この《狭間》だけは違う、と王宮の魔法使いたちは教えてくれた。《狭間》には鍵がついていないのだ。
 相手からはいくらでも開けることができるが、《狭間》から相手の場所に行くには、相手となる世界に鍵を開けてもらう必要がある。
 故に、《狭間》に棄てられたものは誰も帰れない、と。
「わたくしを、門に連れて行ってくれる?」
「良いよ。気分転換に、僕と一緒に散歩に行こうか」
 エリクは笑って、ヴィオレットを抱きあげた。
「自分で歩けるから!」
「歩けないよ。危ないものが、たくさん転がっているんだ。こんな綺麗な足では傷がついてしまう。言ったよね? ここは設備も道具もないから、君が壊れても修理ができないんだよ。それとも、魔法使いなら、魔法で治すの?」
「……お願いします」
 治癒魔法なんて高度なもの、落ちこぼれのヴィオレットには使えない。
 エリクの家は、ひどく小さなものだった。ヴィオレットが休んでいた寝室、玄関に続くリビング、その他、家のすべての空間を合わせても、王宮にあるヴィオレットの私室より狭い。
「一人暮らし?」
「そんな感じかな。だから、君を拾っても、誰も文句を言わない」
 家の外に出て、ヴィオレットは眉間にしわを寄せた。
 エリクは平気そうに歩くが、景色を眺めているだけで酔う。上下左右の感覚が分からなくなるのだ。舗道も建物も、樹々や花々も、すべてがすべて真っ直ぐではない。斜めに生えていたり、歪んでねじれていたり、空中に浮いていたり、なにもかも奇妙だ。
「《狭間》は、世界と世界の隙間。墓場だって言う人もいるね。いろんな世界の墓場だから、ここではいろんな世界の理が混ざって、中途半端に働いてしまう。奇妙であって当然なんだ。だから、理解しようとしてはいけないよ。頭がおかしくなる」
「ただ、あるものを受け入れなさい、ということ?」
 エリクは頷いた。
「そう。理解しようとしてはいけない。人間が《狭間》で過ごすためには、きっと、そうした方が良いんだ。ほら、門が見えてきたよ」
 エリクに抱えられたまま、ヴィオレットは頭上を仰ぐ。
 空中に浮かぶように、荘厳な門があった。かたく閉ざされた扉は、どう頑張っても開く気がしない。開いたところで、ヴィオレットの故郷である世界に繋がるとは限らない。
「わたくし、あそこから棄てられたのね」
 本当に、帰ることができるのだろうか。
 雲を掴むような話ではないか。王宮の魔法使いたちが言ったように、《狭間》から帰ることのできた者はいない。
 目の奥が熱くなって、また涙が溢れそうになったときだった。
「大丈夫。帰れなくても、責任を持つよ」
「責任?」
「棄てられたものの所有権は、拾ったものが持つんだよ。可愛いお人形さん、ヴィオレット。君は僕のモノ。だから、大丈夫だよ。泣かなくて良いの」
「わたくし、お人形と言われるの嫌いなの。故郷でも、そう言われていたから」
 人形姫。慈悲深く、お優しい弟王子とは似ても似つかない、冷酷非道な第一王女。にこりとも微笑わない、血筋だけはご立派な姫君。
 お飾りで、お人形のようなお姫様。
「仕方ないよ。ヴィオレット、お人形さんみたいに可愛いもの。みんな褒めたくなる」
「ばかね。人間味がないって悪口よ」
 実際、母方の縁戚を拒み切れず、大好きな異母弟と争うことになったヴィオレットには、お似合いの名前だっ。
 人形のように黙り込んで、権力を求める縁戚たちから良いようにあつかわれた。
「きみ、こんなに激しいのに? 泣いちゃったり、怒ったり、むしろお人形にしては珍しいくらい人間っぽいけれど」
「それは、ここには誰もいないからよ」
 ヴィオレットを知る者がいないから、こんな風に感情を露にしても許されるのだ。普段のヴィオレットは、自分が取り乱すことが、結果的に誰かの首を絞めることを知っていた。
 心を殺して、口を噤んで、黙り込んで、いつだって立場を弁えていた。
「そっか。たしかに誰もいないね。でも、誰かいたって、ヴィオレットはヴィオレットで良いよ。僕はね、《狭間》に棄てられてから長いんだ。だから、あるものをあるものとして受け入れるのが得意なんだよ。僕が拾った君が、どんな君だって構わない」
「……あなた、変わっているって言われない?」
「言われたよ。だって、変わっているから棄てられたんだもの」
 棄てられて哀しんでいるヴィオレットの前で、棄てられた男は能天気に言った。
「しばらく、お世話になっても良いかしら? わたくしが帰れるまで」
 エリクは陽気に笑った。その笑顔が、あまりにも完璧だったから、ヴィオレットもつられて笑ってしまった。


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