白鷹の花嫁

2.砂漠の魔王 | 4.祈りの歌はがために | 目次

  3.礼拝堂に死者は眠る  

 陽菜ひなの前には、長椅子に腰かけた女がいる。
 奴隷商のイトは、所狭しと料理の並べられたテーブルに手を伸ばしていた。彼女は呑むようにして、湯気の立つ料理を食べている。
「これ、わたしも食べていい?」
 思い返せば、この見知らぬ土地に落ちてから、ろくに食事をしていない。
「好きにしろ。水はるか? こんな綺麗な水が飲めるなんて宮殿くらいだから、今のうちに飲んでおいた方がいい。まともな飲み水など、水のれた街ではなかなか手に入らない」
 イトは水瓶みずがめを傾けて、エナメルで彩色されたグラスに水を注いだ。グラスを受け取って、陽菜は一息に飲み干す。
「……ありがと」
「どういたしまして。お嬢さんの幸運を祝って、乾杯でもするべきだったか? 無事で何より。砂漠の魔王は癇癪かんしゃく持ちだ、火達磨ひだるまにされなくてよかったな」
 陽菜は頰をひきつらせた。先ほどまで魔王と一緒だった陽菜に言う台詞せりふではない。
 朝方になってようやく解放されたというのに、目の前には油断ならない奴隷商人がいる。
 陽菜は震えそうになる身体をなだめて、イトをにらみつける。この女は信用ならない。敵意は感じられないが、陽菜に怪我けがを負わせた張本人だ。
「あなた、まだここにいたの? もう用は済んだはずよ」
 イトは魔王に奴隷を売りつけようとしていた。その目的は、陽菜が彼女たちの商品となることで果たされたはずだ。
「新しい仕事が入った。お嬢さんに言葉を仕込む、な」
「は? 言葉って、魔王とか男の子がしゃべっていた?」
「そう、お嬢さんがまるで理解できなかった《砂漠》の言葉。まあ、無理もない。お嬢さんや私の故郷は、他国のことなど関心がないからな。余所者よそものこばみ続ける島国だ」
 陽菜はいったん唇を開きかけて、すぐさま閉じた。
 イトのなかでは、彼女と陽菜は同郷の者となっていた。つまり、彼女は陽菜を自分たちと同じ異形いぎょうと思い込んでいる。
 涸れ井戸に落ちてから出逢った者たちは、皆、人間ではなかった。人のかたちに他の生物を混ぜ合わせたような姿をしていた。
 ――果たして、こちらに陽菜と同じ人間はいるのか。
 分からないからこそ、人間だと主張するのは得策ではない。勝手に勘違いをしてくれたならば、その勘違いを正さないほうが賢明だ。
 イトは黙り込む陽菜を気にする様子もなく、そのまま続ける。
「しかも、お嬢さんみたいな若い連中は、外と繫がっていた頃を知らぬ箱入りだらけ。隊商の存在すら、まともに知らないままさらわれてきたのではないか?」
「隊商……、集団で移動する商人のこと?」
「そう。国境を越えて、国と国を渡り歩く商売人。似たような集団は山ほどあって、掲げる紋の種類によってあつかう商品が違う。私たちは、お嬢さんの髪飾りと同じ《椿つばき》の隊商、と」
 イトが長い足を組んだとき、靴底に咲いた椿の紋があらわになる。偶然の一致だが、陽菜の髪にも、誕生日に真由子まゆこたちからもらった椿のピンがある。
「花を掲げる隊商が、奴隷を商品としているのね」
 イトが話したことが真実とは限らないが、すべて噓ということはないだろう。あせってはいけない。情報をできる限り集めて、陽菜にとって有益なものを探すのだ。
「喜ばしいことに、お嬢さんも晴れてうちの商品だな」
「違うわ。魔王に売られたから、今はもう、あなたのところの商品ではないもの」
「ふふ、生意気で口が達者なお嬢さんだな」
「ごめんなさい。でも、利益になるから、わたしの噓に付き合ってくれたんでしょ?」
「実際、そう悪くない提案だったからな。――とはいえ、気をつけろ。宰相さいしょうは私たちを疑っている。この国の実権を握っているのは、魔王じゃなくて宰相だ。私たちと関係ないことがバレたとき、お嬢さんは密入国者として拷問ごうもんだろうよ。えげつないぞ、あれは。力はないが小賢こざかしい、人の嫌がることも得意だ」
「宰相さんって、あの男の子よね? 拷問なんておおげさな」
 サソリの特徴を持つ、片眼鏡モノクルをかけた少年だ。歳の頃は十二程度、陽菜からしてみれば年下の男の子である。あのときは気が動転していて、処分するというおどしを真に受けたが、あの可愛らしい男の子に拷問などできるとは思えない。
「お嬢さん、やはり箱入りだな。魔族の姿かたちと中身は必ずしも一致するものではない。あれは砂漠の魔王を育てた男だ。最低でも五百歳は超えている」
「ごひゃく」
 イトの言うところの《魔族》は、よほど長寿のようだ。やはり人間とは違う異形であり、そういう存在だと理解するしかないのだろう。
「まあ、弱い魔族ほど簡単に死んでいくから、宰相のように長生きするのは珍しい。砂漠の魔王の庇護ひごがなければ、とっくの昔に殺されていただろうに」
「弱いと殺されるの?」
「何を言うかと思えば、そんな当たり前のことを! お嬢さんは面白いな、ますます興味が湧いてきた。奴隷として売り出すには生意気で、しつけがなっていないのも新鮮だ。お嬢さんを攫ってきた隊商は、よほど変わり種だった? 魔界の常識だ。正しいとは強くあること、弱いものは簡単に命をみ取られる」
 イトはうつわに盛られた柘榴ざくろを手にとった。鋭い爪で果実を割って、今にもはじけんばかりの赤い実を唇に運ぶ。
「弱者は食いつぶされる。食いつぶされたくないなら、どうするべきか分かるだろう」
こびを売れって? 砂漠の魔王に」
「理解が早くて結構。媚を売って魔王のふところに入れ。そうしたら、私はお嬢さんの不利になることはしない。私たちは利益になるならば、お嬢さんがどんな立場でも、どんな存在でも構わない。どうやって《砂漠》に来たのかも問わない」
 人間である陽菜には隠すべき事柄が多く、痛い腹を探られるのは避けたい。イトがこちらに干渉かんしょうしないならば、それはそれで好都合なのだ。
 だが、イトは心の底から信頼すべき人ではない。利益が出るから手を貸してくれる。裏を返せば、利益がなくなれば見捨てられるということだ。
「わたしが、あなたのところの奴隷じゃないとバレたら困るものね? 道端みちばたの石ころを高値で売りつけたなんて詐欺さぎだもの。あなたたちの信用にもきずがつく」
「まあ、瑕がつくほどの信用はないだろうが、な。石ころは金貨に代わり、さらに《砂漠》の言葉を仕込めば売り値に上乗せしてもらえる。あとは、言葉を仕込むことを理由に、私だけは宮殿に滞在できる。《砂漠》は貧しい国だから、滞在するなら街よりこちらが良い」
 指折り、彼女は自分たちにとっての利益を数える。
「欲張りなのね、ずいぶんと」
「商人だからな。だが、お嬢さんの気にすることじゃないだろう? こちらの利益がどうであれ、お嬢さんのするべきことは決まっているのだから。言葉を覚えて着飾って、魔王の寝所しんじょで鳴いていろ。良い声でさえずれば大事にしてもらえる」
 神経を逆なでされる言い方だったが、まとを射ている。
 イトはここを魔界と呼んだ。弱いものが淘汰とうたされる世界である。ならば、弱くて簡単に殺されてしまう陽菜は、強い者に守ってもらえばいい。
「……まだ死ぬわけにはいかないの。よろしく、イト先生」
「やはり生意気なお嬢さんだな! いいぞ、気が強い娘は嫌いではない。屈服するところを見るのがたのしいからな」
「あなたを愉しませるつもりはないの。いいから、はやく言葉を教えてよ」
 まだ短い時間しか接していないが、少しだけイトの性格が摑めてきた。人を食ったような女だ。まともに相手をすれば、こちらが疲れるだけだった。
 イトが利益だけを追い求めるなら、陽菜とて彼女を利用すればいい。
「とりあえず。お嬢さんはまだ喋れなくていい」
「はあ?」
 言葉を仕込むと宣言した矢先に、真逆の内容である。
「相手の言葉を聴き取ることが最優先だ。主人が何を求めているか察することが、奴隷の第一条件だ。自分の意志を伝えるすべは要らない」
 極論だったが、分からない理屈ではなかった。
 陽菜の命を握っているのは、陽菜自身ではなく、砂漠の魔王なのだ。彼の機嫌をそこねないために、また彼が望んだとおり振る舞うためにも、言葉を理解することは不可欠だ。
「聴き取れるようになるの? すぐに」
「喋るよりは楽だな」
 思い出したのは、友人である真由子だ。彼女はまったく英語を話すことはできないが、リスニングの点数は良かった。聴いて理解する方が、話すことより難易度が低いのだろうか。
「喋るのを後回しにするのは分かったけれど。文字くらい教えてくれるでしょ? いくらなんでも、まったく意志疎通そつうができないのは困るもの」
 室内の装飾を見る限り、この国にも文字は存在するようなのだ。最初は気づかなかったが、柱や壁に刻まれたつたのような模様は、もとの世界で見かけたアラビア文字と似ている。
 もとの世界に帰るために、この国の文字が役に立つときがあるかもしれない。
「おすすめはしない。ここの文字や文章は恐ろしいほど複雑で、街にいる魔族とて不自由している者が多い。あれは奴隷が覚えるものではない。文字が書ける奴隷などアーシファの恋人たちくらいだろうな」
 アーシファ。人名、あるいは地名か。陽菜の疑問を余所に、イトはそれ以上を語らない。
 陽菜は拳を握って、深く息を吸った。
 両親や姉たち、真由子をはじめとした級友、最後に別れたシスターの顔が浮かんだ。陽菜が消えたことで、たくさんの心配をかけているはずだ。
 もとの場所に、優しい人たちが待っている世界に帰りたい。いまは何も分からなくとも、できることをするのだ。

◆◇◆◇◆

 もとの世界に帰りたい。そのためにできることをすると決意したが、陽菜の生活はあっさり出端ではなをくじかれることになった。
 まず、疲労と寒暖の差により体調を崩した。この土地は太陽が出ているうちは暑いが、日没後は恐ろしいほど冷え込む。砂漠はいつも暑いと勘違いしていた陽菜は、魔王の寝所で盛大にくしゃみをしたあと、高熱でしばらく寝込むことになった。
 香辛料こうしんりょうがふんだんに使われた食事で胃が弱っていたこともあり、体調はすぐには戻らなかった。み上がりで向かった浴場ハンマームでも、蒸し暑い浴室で倒れて、侍女じじょに助けられる始末だ。
 そのほかにも、数え切れないほどの生活習慣や文化の違いに見舞われて、日々を過ごすだけで精一杯だった。
 夜は夜で、砂漠の魔王のもとで歌うことになる。一睡もできぬまま夜明けを迎え、朝方になってようやく退室を許されるのだ。昼過ぎまで眠ったあとは、イトに砂漠の言葉を教わり、夜は再び魔王のもとへ。
 もとの世界に帰るための手がかりを、何一つ探すことができずにいた。
「もう、最悪」
 宮殿カスルの外廊下を歩きながら、陽菜は重たい溜息をついた。
 イトはマディーナにいる仲間に用事があるらしく、今日は珍しく一人になることができた。自由に歩きまわってもとがめる者はなく、陽菜は情報を集めるために宮殿を探索する。
 外廊下に人影はなく、こつりこつりと陽菜の足音だけが反響した。
 あたりの柱や壁には、文字や植物、幾何きか模様による装飾がなされている。浮き彫り、あるいは金彩きんだみによって表現されたそれらは、ここが異国であることを強く意識させた。
 建物だけではない。服飾ひとつとっても馴染なじみがなく、異国情緒にあふれている。肌触りの良いチュニックに、金糸きんしで花の刺繡ししゅうのされたボレロ。つややかな光沢こうたくのある赤い下衣シャルワルには、かかとのない靴がよく似合った。
「綺麗なところ」
 生まれ育った日本の方が、よほど便利で、よほど物質的には豊かだった。
 しかし、この《砂漠》には、日本とは違う美しいものがあった。華やかで絢爛けんらんな建造物や装飾には、長い年月でつちかわれてきた文化という名の豊かさがある。
「……落ちたのが、ここで良かったのかも」
 ここは魔界。そのなかにある《砂漠》という国だと教えられた。
 イトの故郷をはじめとして、魔界には数多あまたの国が存在している。魔王とは魔界の王を示すのではなく、それぞれの国の首長を魔王と呼ぶのだ。
 ゆえに、あの白い翼を持つ男は《砂漠》の魔王。この魔界で、陽菜が安全に生活を送ることができるのは彼のおかげだった。他の土地に落とされていたならば、今のような安寧あんねいはなかったかもしれない。
 外廊下の突きあたりから、中庭に至る。白砂の庭は殺風景で、柘榴の木が一本あるだけだ。
 陽菜の目を引いたのは、庭の向こうにある建造物だった。
 半球状の屋根を有し、近くには鐘楼しょうろうおぼしきものを備えている。真白い石で造られたその建物は、不思議と高校にあった教会を思い出させた。
 雰囲気が似通っているのだ。造りこそ異なるが、閉ざされた扉を開けば、おごそかで冒しがたい祈りの場が広がっているはずだ。
 おそらく、あの建物は礼拝堂だろう。
 近づいてみると、扉には金彩で模様が描かれていた。文字を組み合わせた模様のようだが、あまりにも細かくて、ぱっと見だけでは何が描かれているか判然としない。
 アーチ状の扉をてのひらで押してみるが、鍵でもかかっているのか、微動だにしなかった。全身で押してみても、きしみさえしない。
「……え?」
 ふと、陽菜は気づく。扉に刻まれていた模様は、陽菜の慣れ親しんだ文字だ。
なんじ、開けるべからず」
 まるでこの扉を閉ざす呪文のように、延々とその文言もんごんが刻まれていた。それを読みあげたとき、淡い光が掌にともった。
 突如とつじょ、かたく閉ざされていた扉が開いた。扉に体重を預けていた陽菜は、建物内に倒れこんでしまう。
「……っ、いった」
 ひざを打ちつけた陽菜は、次の瞬間、痛みを忘れるほどの美しさに呑まれた。
 礼拝堂の薄闇に、星のような光が降っていた。
 天井に無数の穴がいており、青や緑、黄色の色ガラスがめ込まれている。太陽の光が、ガラスを通して礼拝堂に差し込んでいるのだ。
 光が最も集まる場所には、砂時計のようなものがあった。
 こぽり、こぽりと水がれる音がした。砂の代わりに水をめた不思議な時計には、美しい少女が閉じ込められていた。
「天使、様?」
 教会にある天使像を思い出す。この少女は、兄が涸れ井戸から拾った像とうり二つだ。
 しなやかな裸身に、月を溶かし込んだような白髪が巻きついている。熟れた唇は柘榴の赤、褐色かっしょくの肌は染みひとつない。
 その美貌は驚くほど砂漠の魔王と似ていた。彼を女性にして幼くすれば、少女と同じ姿になるだろう。
 彼女は背に白い両翼を持っていた。それだけでなく、さらにもう一枚、翼を抱きしめている。まるで天使からむしり取られたような片翼に、陽菜は、ある推論をめぐらす。
 夜毎よごとうなされている砂漠の魔王は、片方の翼しか持たない。
 魔王が失った片翼は何処どこに消えたのか。少女が抱いている翼は、もともと魔王の背に生えていたのかもしれない。
『呪いを解いて、どうか』
 頭のなかで、少女の声がよみがえる。魔界に落ちた日、陽菜は涸れ井戸を通して、この少女と会っていた。
「呪いを解いて、ってどういう意味なの? あなたは何を望んでいるの。呪いを解いたら、わたしは帰れるの?」
 天井から降る光が、少女を照らす。淡い光に包まれた彼女には、冒しがたい神聖さがあった。
「教えてよ。天使様」
 兄が信じた天使の姿をした少女は、答えを与えてはくれなかった。
 心がざわめく。彼女を前にすると、自分の罪やみにくさが浮き彫りになるようだった。彼女が答えてくれないのは、陽菜の罪を糾弾きゅうだんしているからではないか。
「兄さん、ごめんなさい」
 繰り返し、繰り返し悪夢はよみがえる。てつくような冬の日、陽菜の腕のなかで兄は息絶えた。ただ歌を聴いてほしかったという我儘わがままが、兄の命と未来を奪った。
 魔界に落ちたことさえも、犯した罪への罰なのだろうか。
 周囲は陽菜を責めなかったが、陽菜は知っている。兄が死んだのは交通事故ではない。
 ――陽菜の願いこそ、兄を死に至らしめた。兄を殺したのは陽菜だ。
 陽菜はたまらなくなって、礼拝堂を飛び出した。指先から心臓にかけて冷たくなった気がする。砂地の庭を駆けていく間も、美しい天使の姿が頭から離れない。
 呪いを解いて、と彼女の声が反響している。呪いを解けば、陽菜はもとの世界に帰れるのか。陽菜の犯した罪はゆるされるのだろうか。
 白砂の庭には、先ほどまでと違って、侍女たちの姿があった。
 彼女たちはガラスの水瓶をかかえながら、うららかな声で歌っていた。不思議なことに、からだった水瓶は、彼女たちの声に合わせて水が溜まっていく。
 侍女たちは陽菜に気づくなり、けわしい顔つきになる。
「走る、だめ! 転ぶ!」
 注意された直後、陽菜は砂に足を取られて転んでしまう。
 侍女たちはあわてて、陽菜に駆け寄ってくる。彼女たちは陽菜を抱き起こすと、髪やボレロに触れて、砂を払った。
「急ぐ、何故? 魔王、また、夜」
 断片的に拾うことのできた単語を繫ぎ合わせて、何を問われているのか想像する。ゆっくり話してもらえれば理解できるが、相手が早口だと、すべてを聴き取ることができなかった。
 おそらく、侍女たちは、陽菜が砂漠の魔王に呼ばれていると勘違いしている。
 魔王のもとに向かうのは夜のことで、日が高いうちは違う。
 まだ砂漠の言葉を話すことができない陽菜は、手を二回叩いた。一回叩くと肯定、二回叩くと否定、というようにイトが決めて、宮殿の者たちに話を通してくれている。
「本当? 魔王、感謝している。宮殿、置いてくれた。でも、怖い。あなた、心配」
 侍女たちは魔王に感謝していながらも、それ以上に彼を恐れていると言う。
 陽菜は首を傾げた。たしかに魔王は大柄な男であり、近寄りがたい雰囲気もある。だが、初対面のときから、彼に恐怖を抱いたことはなかった。
 侍女たちは気の毒そうに陽菜の肩を抱いて、頭を撫でる。小さな子どもにするように。
 身長が低いためか、ずいぶん年下に見られているらしい。
 侍女が何かしらをつぶやくと、彼女の掌にビー玉ほどの水のしずくが発生する。緩やかに回転した水の球体が、陽菜の頰についた砂を落とそうとしていた。
 こちらに来てから、時折、このような不思議な現象を目にする。
 さきほど、空っぽだった水瓶が満たされていく光景も同じだ。まるで御伽噺おとぎばなしにある魔法のように、侍女たちは何もないところから水などを生み出すことがあった。
「だめ。浴場ハンマーム、行く」
 転んだ際に付着した砂が落ちないらしく、溜息をつかれた。恥ずかしさに頰を赤くした陽菜は、素直に侍女たちに従うことにした。


 宮殿の奥に、半地下になった浴場はある。
 脱衣所は静かだった。にぎわっているときは、侍女たちが染料で肌や爪を染める、あるいはコーヒーと菓子でお喋りをしているのだが、今は隣の談話室を含めて空だ。
 ただ、衣類を仕舞うかごが使われていたので、浴室に先客がいることは分かった。
「こんな時間に、誰が?」
 侍女たちは仕事中で、他の者たちも変わらない。
 ころもを脱いだ陽菜は、浴室用のサンダルにき替える。かまの炎により熱された浴室は、素足で歩くには熱かった。
 浴室のベンチには女がいた。こちらに背を向けた女は、長くしなやかな手足に、均整のとれた美しい身体をしている。
 その背中に折り畳まれた蜘蛛の脚がなければ、誰も彼女を異形とは思わない。黒地に黄のしまが走った脚は、女郎蜘蛛のそれとよく似ていた。
 小さい頃、軒先に巣を張った女郎蜘蛛は、巣にかかった蝶を頭から食べていた。何日もかけて体が損なわれていく蝶を見たときに感じた、背筋が凍るような感情がよみがえる。
 あの脚に捕らわれて、地面に叩きつけられた痛みがぶり返す。傷はほとんどえているというのに、あの日の恐怖が忘れられない。
 イトと対峙たいじするとき、陽菜はいつだって緊張していた。
「今日は、宮殿にいないんじゃなかったの?」
 イトはゆっくりと振り返った。口角はあがっているが、彼女の笑みはいつも胡散臭うさんくさい。
「さきほど戻ったところだ。マディーナほこりっぽくてな、汚いと侍女たちに怒られた」
 しくも同じ理由で浴場にいたらしい。侍女たちも、イトがいると分かっていたから、陽菜を一人で行かせたのだろう。
 手招きされて、陽菜はイトの隣に座った。
「こちらの生活には慣れたか? 少しは言葉が分かるようになったか」
「おかげさまで。イトは言葉を教えるのが上手ね。誰かに教えたことがあるの?」
 イトは宮殿のあちこちに陽菜を連れ歩き、侍女や兵士たちとの会話を通して言葉を教えてくれる。へやに閉じこもって詰め込まれるより、よほど楽しく、効率的に学ぶことができた。
「相棒に《砂漠》の言葉を教えたことがある。教えるのは二回目だから、コツは分かる」
「……あなたの相棒なんて大変ね。今日、街で会ってきたの?」
 宮殿にいる《椿》の商人はイトだけであり、仲間は街に待機していると聞いていた。
「残念ながら、今回の部隊にはいない。覚えが良くて見込みのある子だ。うちの交渉役に求められるのは、それなりのしたたかさと、それなり以上の言語力だから。ありとあらゆる国の言葉を身につけたものだけが、隊商で生きていくことができる。太古の頃はともかく、今はどの国もバラバラの言葉を話すからな」
 イトの相棒に対して関心はなかったが、彼女の話は興味深かった。
 国によって言語が異なるということは、魔界にはそれだけ多くの国があるということだ。そして、イトの故郷で使われているのは日本語と同じなのである。
 ここが異世界ならば、それほど奇妙な話もないだろう。
 魔界に日本語が存在するならば、いま教えてもらっている砂漠の言葉とて、陽菜の生きていた世界のものかもしれない。
 ――なぜ、異世界でありながら、陽菜たちの世界の言葉が使われているのか。
 胸に引っかかっていた疑問が、再び浮上する。
「魔王の機嫌はどうだ? 上手うまくやっているみたいだな」
「あの人、いつのまにか寝ているから。機嫌が良いかなんて知らない」
「暴れていないならば機嫌が良い。あれは、お嬢さんくらいの娘を好んでそばに置くのだが、すぐに飽きて放り出すからな。買った奴隷は、ほとんどが宮殿の侍女となっている」
 実際の歳は知らないが、宮殿につかえる侍女たちは、皆、十代後半くらいの少女の姿をしている。
「少女趣味の変態?」
 イトは手を叩いて笑った。
「火達磨にされたくなければ魔王には言うなよ? あれは暴虐の王。他国から恐れられ、何百年と砂漠に君臨している。怒らせたら終わりだ」
「怒ったりするの? すごく優しそうなのに」
 正直なところ、魔王に対する評判は納得できない部分が多かった。
 言葉が通じないので、彼の仕草や行動から判断するしかないが、理不尽に怒りを露にする男とは思えない。祈るように目を伏せた顔は、傷ついて動けなくなった手負いの獣とそっくりで、あわれみさえ誘った。
「まあ、最近は落ち着いているな。最後に暴れたのは百年前か? 魔王は郊外の離宮と農耕地を焼き尽くして、更地さらちにしてしまった。――もっとも、そうまでしても、街を守るのが精いっぱいで、ほしいものは手に入らなかったが」
「ほしいもの?」
「湖に映る幻の城だよ。《湖城こじょう》は豊かさの象徴であり、砂漠の魔王にとって楽園のようなものだった」
 水に映った月ではなく、湖に映る城。奇妙な言い回しだった。
「よく分からないわ、楽園なんて言われても」
「つまり、天界のような場所のことだ。魔族にとっての楽園とは、豊かで恵まれた人間たちの暮らす世界だろう?」
 ここが魔界ならば、人間の暮らす世界は天界となるらしい。
 イトは黒ずんだ爪で天井を指差した。
 先ほど見た礼拝堂と同じく、丸屋根の天井には、採光のために無数の穴が開いている。その穴に嵌め込まれているのは、青、黄、緑などの色ガラスで、まるで夜空に浮かぶ星のようだ。
 美しい星々に囲われているのは、巨大な浮き彫りだった。
 ――ひとりの少女を中心とした浮き彫りである。
 ヴェールをかぶった彼女は、この国特有の衣装を身に着けており、胸の前で両手を合わせている。膝をついて祈る姿は、敬虔けいけんな信徒のようにも、清らかな聖女のようにも見える。
 背後から彼女を抱きしめるのは、黒い人影である。
 そのほかにも、少女の周りには様々な植物や動物、虫などの生き物、嵐や雷など自然現象まで、まぜこぜに描かれていた。
 ふと、少女の頭上に銘文めいぶんが彫られていることに気づく。
「あなたの名前は何ですか?」
「え?」
「あの銘文の内容だ。これは誕生の場面であり、出逢いの場面でもあるということだ」
 誕生と出逢い。それは少女の誕生であり、黒い影との出逢いを意味するのだろう。
「へえ。……というか、人間の姿なんて表現していいの?」
 宮殿のあちこちにある装飾や細密画、陶器などに人物が描かれていることはなかった。故に、人の形をしたものを表現することは禁じられているのだと思っていた。
「浴場は見逃されているだけで、基本的にはダメだな。正確には、人間ではなく神の姿を表すことが禁じられている。――私たちの創造主、すべてを創りたもうた傲慢ごうまんしゅ。誰も神の姿を知らない。知らないが故に、神を表すことは禁忌きんき。だが、矛盾むじゅんしているだろう? 私たちは神を知らないが、神の写しなら知っているのだから」
「写し?」
「人間のことだ。神は自らの写しとして、自らの《花嫁》たる最初の人間を創った。そして、花嫁がさびしいと泣いたから、ありとあらゆる生き物や、私たち魔族を創りあげた」
 神様、と陽菜は心中で繰り返した。
 陽菜は特定の教えを信仰しているわけではない。多少の知識はあるが、兄のように神を信じて、天使に思いを寄せていた子どもではなかった。兄は信心深く、いつだって天使に感謝していた。そうするだけの理由もあった。
「つまるところ、人間こそが最も神に近く、最も神に愛されるもの」
「でも、魔族だって人間と似ているじゃない」
 砂漠の魔王やイト、シャムス、宮殿にいる侍女、皆、他の生き物の特徴をあわせ持っているが、姿かたちの基盤は人間だ。彼らは異形であるが、同時に人間とよく似ていた。
「似ているのではなく、似せているのだよ。魔族とは難儀なもので、神にあこがれているが故に、こんな姿をとってしまう。より人間に近い姿をとれる者こそ、強い魔族のあかしだ」
 陽菜は自然と険しい顔になってしまう。
「人間なんて何もできないのに」
「そう、人間は何もできず、すぐに死んでしまう生き物。だが、魔族にとっては価値ある存在だ。――魔族の運命は生まれたときから定まっている。支配する者か、しいたげられる者か。だが、ひとつだけ例外があるのだよ。魔族の運命をくつがえす《花嫁》を誰もが求めている」
「花嫁」
 おそらく、言葉どおりの意味ではなく、特別な言い回しだ。
「魔族に力を与えてくれる人間のことを、私たちはそう呼ぶ。神が最初に創り、めとった人間の少女になぞらえて。その存在を喰らうことで、私たちは運命にあらがうことができるのだ」
 喰らう。その意味を理解するよりも先に、陽菜の頰に冷たい掌があてられた。
 陽菜は呼吸を忘れる。イトのまなざしは獲物を前にした捕食者のものだった。
 幼い日、軒先にあった蜘蛛の巣。捕らえられた蝶の気持ちは、きっと今の陽菜と同じだ。
「私たちは強くなりたい、より人間に近づきたい。本当はお嬢さんみたいに綺麗な身体になりたい。だが、私たちはどうしても本性の名残なごりを捨てられない」
「綺麗なのは、イトでしょ」
 震えながら、それだけを口にする。顔の造作や立ち居振る舞いならば、陽菜などより、よほど魔族たちの方が美しい。
「お嬢さんにはかなわない。あまりにも綺麗だ。その肌の下に醜いものを隠している? それとも、この唇の奥に? ああ、お嬢さんの本性はいったい……」
 鼓動が跳ねた。陽菜は動揺を覚られぬよう、唇を吊りあげる。
「ありがと。あなたのところの商品より綺麗?」
 イトは目を丸くして、困ったように眉を下げた。
「答えに困る質問だな。うちの商品は、お嬢さんと違って言葉も達者だから」
「ごめんなさい、覚えが悪くて。わたしに言葉を教えるのは面倒?」
「いいや。私は年増だから、若者と話すのは楽しい」
「そんな言い方しなくてもいいのに。わたしは好きよ、長生きしている分、いろんなことを知っているってことだもの。もっといろんなことを教えてくれる?」
 陽菜がもとの世界に戻るためには、たくさんの知識が必要になる。イトの話を鵜呑うのみにするつもりはないが、彼女から得た情報は無駄にならない。
「媚を売るのが上手だな、お嬢さんは。何が知りたい? せっかくだから、故郷ふるさとのことでも語らうか」
神木しんぼく? でも、わたし、国のことはよく知らないから。イトは違うんでしょ?」
 イトの出身地である《神木》という国について、陽菜はまるで知らない。彼女は陽菜を同郷と思い込んでいるが、実際はまったく違うのだ。
「まあ、お嬢さんのような若いあやかしよりは詳しい。あれは魔界でいちばん罰当たりな国だ。なにせ神木――神をかたる国なのだから。なつかしいな」
 どうやら、《神木》では魔族のことを妖と呼ぶらしい。
「帰っていないの? あなた、国と国を渡り歩いているんでしょ」
「捨てた土地に帰ることはできない。帰るとしたら、捨てた意味がない」
 イトは故郷を捨てたことに何の感慨かんがいもないらしい。あるいは、捨てたのは遠い昔のことで、望郷の念を抱く時期は過ぎたのかもしれない。
「わたしは帰りたいと思うけれど」
 毎日のように、もとの世界を夢に見る。両親や年の離れた姉たちに抱きしめてもらいたい、真由子たちと他愛もない話をしたい、シスターに会いたい、と願ってしまう。
「お嬢さんは攫われてきただけで、捨てたわけではないからな。だが、帰れると思ってはいけない。魔王に気に入られたお嬢さんは、ここで生きていくしかないのだから」
 諦めろ、と暗にイトは忠告する。しかし、諦められるはずがない。
 魔界に落ちてきたときはともかく、宮殿は悪い場所ではない。命をおびやかされるような危険な目にもわず、衣食住を与えられ、何不自由なく暮らしている。
「いやよ。わたしは帰りたいの」
 だが、ここには陽菜の大事なものがない。陽菜の故郷は、この砂漠ではなかった。

◆◇◆◇◆

 血のような夕焼け空が広がっていた。浴場ハンマームから出た陽菜たちは、早足で外廊下を歩く。
「お嬢さん、何処に行くつもりだ? 部屋に戻った方がいい。夜になる前に」
「宮殿の入り口に。そこからなら、街が見えるでしょ? 気になることがあるの」
 魔界に落ちたとき、陽菜はイトたちの商品が吊りさげられた天幕テントの中にいた。涸れ井戸から繫がったあの場所から、日本に帰ることができるかもしれない。帰ることはできなくとも、手掛かりくらいは見つかる可能性がある。
「街へ逃げるつもりか」
「違うけれど、近いうちに街に降りたいの」
 魔界では、陽菜の命など簡単に摘み取られてしまう。ならば、宮殿から逃げるのではなく、宮殿で守られながら、もとの世界に帰るすべを探したい。
「私の一存では決められない。街に出たいなら、自分で魔王にねだるといい」
「……言われなくても、そうするわ。でも、遠くから街を見るくらいなら、今だって許されるでしょ? 宮殿からは出ないもの」
 イトは肩をすくめていたが、陽菜の知ったことではなかった。陽菜の所有者はイトではなく、砂漠の魔王だ。彼の住まいである宮殿から出ない限り、咎められることはない。
「シャムス?」
 たどり着いた宮殿の入り口には、見覚えのあるサソリの少年が立っていた。一度しか会ったことはないが、特徴的な外見と名を憶えている。
「《門》、お願い。見て」
 夕風に乗って、シャムスの声が聞こえる。独り言にしては奇妙だったので、陽菜からは見えない場所に話し相手がいるのだろう。
 シャムスは早口でまくし立てており、断片的にしか言葉を拾うことができなかった。
「いまさら? 《門》は閉じて、天界との繫がりは途絶えた。二度と人間は落ちてこないよ」
 しかし、シャムスの話し相手は別だ。ことさらゆっくりとした話し方であるため、陽菜にも聴き取ることが可能だ。
 陽菜は立ち尽くす。緊張と期待で、掌に汗がにじんでいた。
 天界とは、人間の世界を意味する。天界に繫がる《門》があるならば、陽菜が魔界に落ちてきたのは、そこを通ってきたからに違いない。
 それは、陽菜が魔界に落ちてきた場所にあるのではないか。
「あなたは、また御伽噺がはじまると思っているの? でも……」
「アーシファ!」
 彼らの会話をさえぎって、イトが駆けていく。
 慌ててイトを追えば、シャムスの話し相手が見えてきた。背の高い青年で、アーシファという名は彼のものだろう。
 髪は銀、瞳は金剛石、肌は透けるように白い。どことなく女性めいて見えるのは、骨格が華奢きゃしゃで、繊細な顔立ちをしているからだろう。首筋にまがまがしい赤の刺青いれずみがあるものの、ほとんど人間そのものの姿をしていた。
アーシファ?」
 砂漠の土地に似つかわしくない、ガラス細工のような麗人だった。だが、以前にも聞いたことのある名は、砂漠にふさわしい苛烈かれつなものだ。
 青年は目を丸くして、陽菜を指差した。
「僕の知らない奴隷! ひどいよ、イト。今回はぜんぶ僕に売ってくれたと思ったのに」
 無邪気で純粋な、子どものような喋り方だ。また、先ほど感じたとおり、話す速度が遅いため、陽菜にも聴き取ることができる。
「このお嬢さんはダメだ。他の奴隷は売ってやっただろう? お気に入りはいなかったのか。お前の恋人たち・・・・になれるような」
「見込みがありそうなのは何人かいるよ。いま仕込んでいるところなんだ。ねえ、今度はやしきの中においでよ。僕の恋人たち、憶えているだろう?」
「うちの商品を忘れたことなどない。だが、お前の自慢話に付き合うのは退屈だな」
「そんな冷たいこと言わないでよ。美味おいしいものを用意しておくから、そのお嬢さんと一緒においで。ああ、すごく綺麗。こんなに綺麗な奴隷がいたなら、どうして教えてくれなかったの。いったい誰に売ったの? この僕を差しおいて」
 アーシファは舌なめずりする。粘ついた視線を向けられて、陽菜は美貌の青年を恐ろしい化け物のように感じた。
「砂漠の魔王だ」
 アーシファの白い頰が見る見るうちに紅潮こうちょうする。
「ずるい! よりにもよって、あいつに売ったの!? 信じられない! あんなモノの価値も分からない若造に売るなんて」
「魔王にわれたら売るしかない。マディーナに根城を構えるお前は宮殿カスルぬしではない。この国の魔王は白いたかだ」
「むかつく! 本当だったら僕が魔王になるはずだったのに! ねえ、シャムス。あなたがあの鷹に肩入れするからいけない」
 話を振られたシャムスは眉をひそめた。
「嫌。アーシファ、大事、自分だけ」
「自分だけが大事なことの、何が悪いの?」
 アーシファは幼子のように首をかしげた。
 陽菜はうつむいた。アーシファが魔王だったならば、陽菜はこの場にはいなかっただろう。道端に生えている雑草のように、いとも容易たやすく命を摘み取られていた。あるいは、襤褸ぼろ切れ同然のあつかいをされていた。
 陽菜の命を繫いでくれたのは、やはりあの片翼の魔王なのだ。
「弱い私たち、守り、必要。あんた、壊す。そんな魔王、要らない。ね?」
 シャムスは早口なので、断片的にしか内容を拾うことはできなかった。しかし、同意を求められていることは分かる。
 彼はの場にいる最も弱い存在――陽菜に語りかけていた。
 陽菜は一度だけ手を叩いた。一度手を叩けば肯定、二度叩けば否定だ。
「送る。魔王のところ」
 満足そうに笑ったシャムスは、陽菜を手招きする。もうすぐ夜になるので、魔王の寝所に送りとどけてくれるらしい。
「もう帰っちゃうの? 哀しいなあ。……ねえ、シャムス。門のことは期待しないで。あれは遠い昔の御伽噺。御伽噺から生まれたあなたなら、よく分かっているとは思うけれど」
「それでも、調べる」
「そう。なら、ご褒美ほうびをちょうだいね。あなたのことが大好きな僕のために」
「……街、帰れ。宮殿いると、魔王、怒る」
「ああ、僕が魔王に殺されるって? 痛いのは嫌だなあ。でも、いまのみじめなあいつに、僕を殺せるほどの力が残っているのかな?」
 アーシファは哄笑こうしょうする。弦楽器ウードのように美しい声が、あざけりを含んで不協和音をかなでた。
 この場から逃げるように、陽菜はシャムスを追いかけた。
 宮殿に戻っていく少年には、たずねたいことが山ほどあった。アーシファとの会話――天界に繫がる門について教えてほしくて、陽菜はじっと彼の横顔を見る。
 ふと、愛らしい少年の顔が誰かと重なった。胡桃くるみ型の大きな目、小作りな鼻と唇、垂れた眉の形を知っている。
「兄、さん?」
 シャムスの横顔が、微笑む兄と重なりゆく。
 特徴的な片眼鏡モノクル、年齢や色彩の違いで気づかなかっただけだ。あらためて見ると、シャムスは少年だった頃の兄と瓜二つだった。
 兄は死んだ。魔界に兄と似ている存在がいるはずない。だが、一度重なりはじめた面影おもかげは、髪や瞳の色が違っても、兄にしか見えなくなる。
 陽菜の視線に気づいて、シャムスはばつが悪そうな顔になる。
「門が、気になりますか?」
 陽菜にも聴き取れるように、シャムスはことさらゆっくり喋った。はっとした陽菜は、一度だけ手を叩いて肯定する。
「門は繫がりのことですよ、人間の暮らす天界との。――遠い昔、魔界と天界は混ざり合っていました。魔界のどの国も、天界にある地域と繫がっていたんです」
 そこで、陽菜は胸にあった疑問の答えに辿りついた。魔界の言語が人間のものであるのは、昔、ふたつの世界は混ざり合っていたからなのだ。
 ここはまったくの異世界ではなく、陽菜の生きる場所と繫がっている。
「けれども、今は違う。魔族が山ほど人間を食べた昔と違って、二つは遠ざかりました」
 頭に冷や水を浴びせられたかのようだった。それは陽菜の期待に水をさす言葉でもあり、否が応でも、自分の立場を思い知らされる言葉だった。
 魔界における陽菜は、まぎれもなく弱者であり、食べられる側の存在だ。
 魔族の力関係は生まれたときから覆らない。弱者は永遠に弱者であり、最初から運命は決まっている。運命を覆す唯一の手段が、人間を喰らうことだった。
「今となってはすべて御伽噺です。二つの世界を繫ぐ門は閉じた。人間の存在ですら、若い連中にとっては戯言ざれごとです」
 ようやく、陽菜は自分が人間と疑われない理由を知った。
 二つの世界は遠ざかった。故に、誰もが魔界に人間はいないと決めつけている。目に見える場所に特徴が表れていないだけで、陽菜が弱い魔族なのだと思い込んでいる。
 物憂ものうげなシャムスは、一目で異形と分かる。
 強い魔族ほど綺麗な人型になる。裏を返せば、弱い魔族ほど異形になる。
 弱者であるシャムスは、人間を喰らって強くなりたいのだろうか。それこそ、片翼を失ってもなお君臨する砂漠の魔王のように。
「ああ、誤解しないでくださいね。私は人間など要りません、強いのは王だけで良いのだから。私には、もう魔王しかいませんしね」
 シャムスは足を止めて、魔王の寝所に続く扉を開いた。シャムスがともれ、と口にした直後、壁際かべぎわの燭台に炎が灯りはじめる。
 鼻をついたのは、果実や菓子の甘い匂いだ。山ほどの果物や菓子がったテーブルの奥、うすぎぬの垂らされた寝台には片翼の影があった。
「願わくは、呪いを解いてください、私の王を苦しめる呪いを」
 ――呪いを解いて。それは礼拝堂にいる少女の願いと同じだった。
 呪いの意味を教えてほしくて、陽菜は振り返った。しかし、すでにシャムスの姿はなく、閉ざされた扉があるだけだった。
 寝台に近づくと、力強い腕に引き寄せられた。寝台に転がった陽菜は、慌てて正座する。直後、膝のうえに魔王が倒れ込んできた。
 下衣シャルワル越しに柔らかな白髪があたって、くすぐったい。陽菜の膝に頭を預けた男は、しかめつらで陽菜の唇を叩いた。
 気がかりはたくさんあったが、今は自分のことではなく、寝台で苦しんでいる男のことを考えなければいけない。

 わたしの可愛い小鳥さん
 羽を休めて、この指で
 何も持たないわたしでも
 あなたの止まり木にはなれるから

 わたしの可愛い小鳥さん
 目を閉じて、この胸で
 何も見えないわたしでも
 あなたの揺籃ゆりかごにはなれるから

 わたしの可愛い、月の小鳥
 おやすみなさい、良い夢を
 あなたを夜明けに連れてゆくから

 いくつもの夜に様々な歌を聴かせてきたが、魔王の一番のお気に入りは、はじめて出逢ったときの子守唄だった。
 陽菜も、遠い先祖がのこしたという、この名もなき子守唄が嫌いではない。幼い頃に兄が歌ってくれたものであり、陽菜がはじめて歌うことの喜びを知った歌でもある。
 そっと手を伸ばして、人間であれば耳のあたりにある羽根を撫でてみる。白い羽毛は柔らかで、それでいてその下にある熱を感じさせる。
 美しい男だ。人間ではないからこそ、彼は美しかった。
 彼の頰に触れて、たわむれるように指を動かした。浴場ハンマームの天井に彫られた銘文を思い出しながら、文字を連ねてみる。
『あなたの名前は?』
 いくつもの夜を二人で過ごしていながら、陽菜は彼の名前すら知らなかった。
 魔界に数多ある国のひとつ《砂漠》を治める魔王だという。一度怒りに火がつけば治まらない暴虐の王は、他国からも恐れられ、何百年と《砂漠》に君臨している。
 だが、陽菜は彼を恐れたことはない。眠れぬ夜を過ごす男に同情すらしている。
 他人から聞かされる余計な情報で彼を判断することが嫌だった。誰かの口から聞いた彼ではなく、彼自身から自分のことを教えてもらいたかったのだ。
 しかし、魔王はこたえない。彼の頰に指を滑らせて、もう一度、名前を問うてみる。
 しばしの沈黙があたりを満たした。
 伸びてきたのは男の両腕だった。起きあがった男は、陽菜の両肩を摑むと、そのまま勢い任せに押し倒してしまう。
「な、なに?」
 男の無骨な指が、陽菜の首筋に触れた。
 この魔王が求めているのは、安らかな眠りだけだ。彼が求めていたのは睡眠薬であって、効果があるならば、傍にいるのは陽菜である必要はない。そう理解しながらも、まっすぐなまなざしを向けられると、自分が求められているのではないかと錯覚する。
「ナジュム」
 砂漠の魔王は、とてもいとおしそうに、その音を口にした。陽菜の首筋に額をり寄せて、ナジュム、と繰り返した。
 まるで、陽菜に誰かの姿を重ねて、懺悔ざんげしているかのようだった。
「痛いの?」
 手を伸ばして、陽菜は彼の肩甲骨けんこうこつを撫ぜる。失われた片翼の代わりに残された傷に触れると、彼の痛みが流れ込んでくるようだった。
 ナジュム。それはきっと誰かの名前だ。
 その人のことを陽菜に重ねて、彼は泣いている。肩口に感じるのは吐息だけで、冷たい涙のしずくなど零していなかったが、陽菜は魔王が泣いているのだと思った。
 夜明けの遠い寝台で、陽菜は男を抱きしめた。き出しになった彼の上半身を、思い切って引き寄せる。ぴったり重なり合うと、その熱に陽菜まで泣いてしまいそうだった。
 この男の人は、とても傷ついている。皆が口にしていた暴虐の魔王が真実ならば、暴れるのも怒るのも、傷ついている彼の悲鳴なのだ。
 陽菜と彼は、生まれ育った環境も歩んできた道のりも異なる。だが、同じように、過去に負った傷をいやすことができずにいる。
 二人とも悔いている。魔王はナジュムという人に、陽菜は自分の我儘で殺してしまった兄に。
「大丈夫よ。いつか終わりが来るの。あなたの痛みにも、きっと」
 自分の傷や痛みさえも癒せずにいるというのに、このとき陽菜は思ってしまった。
 ――この可哀そうな男の傷を撫ぜて、癒してあげられたらいいのに、と。
 もとの世界に帰ると決めている。魔界には陽菜の大事なものはない。そう言い聞かせながらも、少しずつこの人に情を移してしまう自分が恐ろしかった。
 早く帰らなくてはいけない。ここにいたら、きっとこの男を見捨てられなくなる。



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