白鷹の花嫁

1.白い翼の天使 | 3.礼拝堂に死者は眠る | 目次

  2.砂漠の魔王  

 吸い込まれるようにして、陽菜ひなれ井戸に落ちた。しかし、いつまでっても、覚悟していた衝撃に襲われることはなかった。
 陽菜はうっすら目を開く。いつのまにか地面に倒れていた。痛みはなく、井戸から落ちたというより、まるで身体だけ見知らぬ場所に転移したかのようだった。
 身を起こしたとき、麻袋あさぶくろに手があたる。袋から飛び出したのは柘榴ざくろの実だった。
 ここは何処どこかの倉庫だろうか。薄闇に目をらせば、あたりに麻袋が積みあがっていた。
 少し離れたところから、明かりがわずかにれていた。この空間は暗幕で仕切られており、隙間すきまから光がこぼれているらしい。
 明かりに近寄った陽菜は、恐る恐る暗幕を開いた。
「……っ、ひ」
 狭い空間に、複数人の少女たちがいた。仮装でもしているかのように、彼女たちの姿は異様だった。獣耳の娘や爬虫類はちゅうるいの肌をした子、背に蜻蛉とんぼはねがある少女など、見るからにあやしい姿かたちをしているのだ。
 だが、その姿よりも気になったのは、彼女たちの様子だった。
 少女たちはうつろな目をして、宙に浮いていた。空中で静止した、あまりにも不自然な体勢のまま動かない。
 ――まるで、蜘蛛くもの巣にかかった獲物えもののようだ。
 彼女たちの肢体したいには金色の糸がからみついていた。縦横無尽じゅうおうむじんに張り巡らされた糸にとらわれて、宙吊りのまま身動きがとれないのだ。
 こつり、こつりと足音がして、陽菜は悲鳴を呑み込む。
 少女たちのもとに現れたのは、華奢きゃしゃな人物だった。
 はじめは線の細い男性と思ったが、胸元のふくらみは隠しようもない。男装の女だ。彼女は短い髪をかきあげながら、少女たちに話しかけていた。ひどく楽しげで、陽気な語り口だ。
 しかし、陽菜には何を言っているのか分からなかった。聞こえなかったのではなく、陽菜の知らない異国の言葉だったのだ。
 しばらくして、男装の女はつまらなそうに肩をすくめた。彼女は片手をあげて、ピアノでもかなでるように指を動かした。
 直後、糸に囚われる少女たちが揺れて、一人が宙から落下しそうになった。
「だめ!」
 気づけば、陽菜は飛び出していた。今にも地面に叩きつけられそうな少女が、四年前、陽菜をかばって車にね飛ばされた兄と重なった。
 少女に向かって伸ばした手は、大きくくうを切った。糸を操っているのであろう女が、少女が落ちる前にすくいあげたのだ。
 陽菜は勢いのまま、地面に転がり込んでしまう。
 男装の女と目が合う。至極しごくたのしそうに、彼女は陽菜に近づいてくる。
「ち、近寄らないで! 来ないで!」
 陽菜の叫びに、女は驚いたように目を見張った。そうして、声をあげて笑いはじめた。笑っていながらも、彼女のまなざしはこちらを品定めするように鋭かった。
 陽菜はあたりを見渡した。室内ではなく、垂れ幕によって囲われた天幕テントのようなものだ。ならば,、幕の向こうは外に繫がっているはずだ。
 陽菜は思い切って、天幕を飛び出そうとした。この女から逃げなければならない、と本能が警鐘けいしょうを鳴らしていた。
 しかし、外に出ようとした陽菜は、何かに足を摑まれた。派手に転ばせられて、反射的に足元を見る。
 足首に絡みつくものに、陽菜は青ざめた。それは長く鋭い、蜘蛛の脚だった。黒と黄のしま模様が薄闇に浮かんでいる。
 男装の女の背から、巨大な蜘蛛の脚が生えていた。彼女は複数の脚で、陽菜の足首をとらえていた。
 陽菜の身体は宙に引っ張られ、次の瞬間、地面に強く叩きつけられた。
 あまりの衝撃と痛みに、悲鳴すらあげられなかった。受け身も取れなかった身体は、わずかにも衝撃を逃すことができなかった。
 息ができない。また宙に持ち上げられて、叩きつけられる。
 打ちつけた頰は青紫になり、口の中が切れて血の味がした。手足は打ち身だけではなく、ざらついた地面にこすられたせいで、あっという間にすり傷だらけになった。
 女が何かを言っている。しかし、陽菜にはまるで理解できない。
 彼女は獲物を甚振いたぶるように、うっとりと目を細めた。蜘蛛の脚が四肢に絡みついて、陽菜を宙吊りにする。
「いや。嫌だ! 放して!」
 女のまなざしは、人間のものというより蜘蛛のそれとよく似ていた。
 恐怖と痛みで思考回路が焼き切れそうだった。だが、逃げなくてはいけない。このままでは、いま以上にひどい目にわされる。
 ほとんど無意識のうちだった。陽菜は着ていたダッフルコートから腕を引き抜いて、ロングブーツを脱ぎ捨てた。蜘蛛の脚はコートとブーツを捕らえたままだったが、すでに陽菜の身体はそこにはない。
 女から逃れた陽菜は、転がるように天幕を飛び出した。
 冷たい夜風が吹いて、砂埃すなぼこりが舞っていた。
 月明かりだけを頼りに、陽菜は見知らぬ街並みを駆ける。ただ、恐怖と痛みのままに、あてもなく走り続ける。
 どれほど走ったのか分からない。女が追ってくる様子はなく、あたりは異様に静かだ。
 石造りの建物に挟まれた小路こみちで、陽菜は地面のくぼみにつまずいて転ぶ。窪みは道路脇にある側溝とよく似ていた。ただ、水は流れておらず、涸れた溝だけが続いている。
 もしかしたら、昔は水路でもあったのかもしれない。
 だが、ここが陽菜の暮らす土地ならば、このような溝は雪であふれかえっているはずだ。
(ここは、何処?)
 あたり一面の雪景色が恋しかった。涸れ井戸に落ちる前、陽菜が過ごしていた季節は冬だ。こんな砂交じりの風が吹いて、石造りの建物が並ぶ街など知らない。
 あの異形いぎょうの女によって地面に叩きつけられた身体は、火にくべられたように熱かった。タイツは破れて、とげが刺さったように足の裏がしびれる。頭が痛みでいっぱいになったとき、陽菜の頭に浮かんだのはうしなわれた家族だった。
「兄さん」
 こんなところで野垂れ死にはできない。何が何でも生きなければならない。
 ――死ぬことなんてゆるされない。この命は、兄を殺してながらえたのだから。
 陽菜は祈るように歌いはじめた。折れそうな心をふるい立たせて、もう一度立ちあがるために咽喉のどを震わせる。
 
 わたしの可愛い小鳥さん
 羽を休めて、この指で
 何も持たないわたしでも
 あなたの止まり木にはなれるから

 わたしの可愛い小鳥さん
 目を閉じて、この胸で
 何も見えないわたしでも
 あなたの揺籃ゆりかごにはなれるから

 わたしの可愛い、月の小鳥
 おやすみなさい、良い夢を
 あなたを夜明けに連れてゆくから

 ずっと昔から、家に伝わる子守唄だと兄は笑っていた。遠い先祖が歌っていたものらしいが、本当かどうかは分からない。
 ただ、陽菜が歌うことを好きになったのは、兄の子守唄を聴いていたからだ。
 溢れそうな涙をこらえる。きっと、歌い終えたら、また立ちあがることができるはずだ。
 そのとき、頭上に影が落ちた。襤褸ぼろ切れのような陽菜を、大柄な男が見下ろしている。月明かりを背にした彼は、片方だけの翼を持っていた。
「天使様?」
 優しく抱きあげられたとき、陽菜の意識は途絶えた。

◆◇◆◇◆

 さらさらとした粉薬のようなものが舌にのせられて、ひどい苦みを感じる。
 粉末が舌に張りついて、陽菜はき込んでしまう。直後、唇がふさがれて、咽喉のどの奥に流れていったのは冷たい水だった。
 誰かが水を飲ませてくれている。もっと飲ませてほしくて、陽菜はさらに唇を開いた。
 身体がふわふわと浮いているようだった。誰かが優しく抱きしめてくれている。あたたかくて、このまま眠っていたい。
 陽菜は眠気を振り払って、やっとのことでまぶたをあげた。
 飛び込んできたのは、月を溶かし込んだような白銀だった。つややかな銀糸ぎんしは誰かの髪だ。無論、陽菜の黒髪とは違う。
 目の前に、の世のものとは思えないほど美しいかおがある。
 彫りが深く、異国人めいた褐色かっしょくの肌をしている。鋭いまなこ猛禽類もうきんるいのそれで、じっと陽菜を見つめていた。白銀の睫毛まつげは、ともすれば陽菜の金の瞳に触れそうなほど近い。どうして、彼の顔はこんなにも近くにあるのだろうか。
「……!? ん、う」
 息を吸おうとして、陽菜は失敗した。柔らかで、少しだけかさついたものが唇をおおっている。見ず知らずの男によって重ねられた唇のすきますきまから、飲み切れなかった水が零れた。
 ようやく唇が離されて、陽菜は咳き込んだ。
 水の入ったグラスを持つ男は、濡れた自らの唇をめた。
 涙目になって、陽菜は手の甲で唇をこすった。眠っている間、口移しで水を飲まされていたのだろう。飲んでしまった水を吐き出してしまいたい。
「كيف حالك ؟」
 かすれた声には妙な色香いろかがあった。しかし、何を言っているのかまったく理解できない。
「は?」
 間抜けな声をあげた陽菜は、直後、自分の状態に気づいて青ざめる。
 陽菜は男のひざに乗っていた。二人のいる場所はうすぎぬの垂らされた寝台であり、あぐらをかいた男の膝の上に、陽菜はかかえ込まれていた。
 動揺して片手を振り上げれば、激しい痛みに襲われる。あの恐ろしい蜘蛛の女に痛めつけられたときの傷だ。
 痛みのあまり顔をしかめたとき、指先が滑らかで熱いものに触れた。
「な、なんで服を着ていないの!」
 顔中が沸騰ふっとうしたように熱い。男は上半身に何もまとっていなかった。ぴったりとくっついた肌は熱くて火傷やけどしそうだ。
 男から顔をらそうとしたとき、陽菜の目は彼の背中に釘づけになった。片方だけの大きな翼が、広い背中に生えていた。真白の片翼は、男の背と完全に一体化しており、彼の呼吸に合わせて上下する。
 夢を見ているのか。しかし、全身の痛みが、すべて現実であることを突きつけてきた。
「ねえ、ここは何処なの? あなたは?」
 陽菜の言葉を理解していないのか、男が答えることはなかった。
 代わりに、甲高かんだかい音があたりに響く。男の手からグラスが落下して、石床で無残にも砕けていた。彼の手は痙攣けいれんしており、ひたいにはうっす脂汗あぶらあせにじんでいる。
 苦しそうに、苛立いらだたしそうに、男は息を吐き出す。褐色の肌のせいで分かりにくいが、目の下には色濃いくまがあった。
 彼は痛みをこらえるかのように、きつく眉根を寄せていた。
「痛むの?」
 この顔はよく知っている。足の古傷が痛むとき、きっと陽菜も同じ顔をしているだろう。
 男の翼は片方しかない。本来であれば右の翼がある場所には、赤黒い傷痕きずあとだけ残っている。もしかしたら、片翼を失ったときの傷が痛んでいるのかもしれない。
 男は黙って、陽菜に顔を近づけてきた。
「っ、ひ!?」
 鋭い鉤爪かぎづめのついた指で唇をなぞられて、全身が粟立あわだつ。男から離れようとするが、彼の親指が口内にねじ込まれたことでかなわなかった。
 陽菜は指から逃れようと首を振る。しかし、彼はもっとしゃべれと言わんばかりに、指の腹で舌を撫ぜてきた。鉤爪が咽喉の奥に触れそうになって、血のが引く。
「へ、変態! やめ、てって」
 自分ではまともに喋っているつもりだが、きちんとした言葉になっているのかも怪しい。そもそも、言葉が通じている様子がない。
 また彼が何かを言っているが、まるで理解できない。いったい何処の国の言語なのか。
「日本語で喋ってよ!」
 思いきって、陽菜は口内にねじ込まれていた指を嚙んだ。
 驚いた男の隙をついて、転がるように彼から逃れる。全身がひどく痛んで、脂汗が滲んだが、今はただここから離れたい。
 寝台を囲っていた紗をあげれば、見知らぬへやが広がっていた。ほとんど調度品はなく、壁際かべぎわで古びた真鍮しんちゅうの燭台が燃えているだけだった。
 扉を目指そうとした途端、背後からセーラー服のえりを摑まれる。
 一瞬のうちに、陽菜は寝台に引き戻されていた。
 頭上に影が落ちて、男が覆いかぶさってくる。心臓がはち切れそうなほど高鳴っていた。陽菜は荒く息を吐きながら、男をにらみつけた。
 男は陽菜の唇をなぞっては、時折、軽く叩いてくる。
 今のところ、こちらに危害を加えるつもりはないようだ。ならば、しきりに陽菜の唇をなぞる意味は何だろうか。
「歌えば、いいの?」
 思い返してみれば、路地裏で男と出逢であったとき、陽菜は歌っていた。
 男は答えない。陽菜の問いを理解してもいない。だが、そのまなざしと指先は、何よりも雄弁ゆうべんに彼の望みを語っていた。
 陽菜は息を吸って、セーラー服の胸元を握る。
 震えそうになる身体をなだめて、咽喉から声を絞り出した。最初はか細い旋律になってしまったが、次第に声は伸びやかになる。
 これは男のために歌っているのではない。教会で祈っていたときと同じで、陽菜は兄の信じた天使のために歌っている。天使が死んだ兄を幸せにしてくれることを願っている。
 そう言い聞かせながらつむいだ旋律に、男がうっとりと目を細める。しばらくして、彼は糸が切れた人形のように眠りに落ちた。
 安らかな寝息が聞こえる。男の下敷きになって、陽菜は困ったように眉をさげた。
 ――ここは何処なのか。これが現実ならば、何故なぜ、陽菜はここにいるのか。
 分からないことだらけだったが、込み上げた感情は瀬無せなさだった。
 苦しくてかなしい表情をした人は見たくない。鏡に映った自分を見ているようで嫌なのだ。
 見知らぬ男であっても、苦痛に顔をしかめるよりも穏やかに眠っていてほしかった。
 男の腕に抱かれながら、陽菜はひどい眠気に襲われた。身体中が痛くて、滲んだ汗が気持ち悪い。疲弊ひへいした肉体は、ただひたすらに眠りを求めていた。
 身をよじると、頭につけていた椿つばきのピンが揺れた。真由子まゆこたちからの誕生日プレゼントに触れて、陽菜は目を閉じた。

◆◇◆◇◆

 高窓から差す光に、《砂漠》の魔王カマルは目覚める。
 朝方にしては暖かく、カマルはゆっくりと首をかしげた。
 余所者よそものからは誤解されやすいが、《砂漠》は決して暑いだけの国ではない。日中は肌を焼く太陽とうだるような暑さに支配されるが、朝晩は別だった。気温は急激に下がり、涼しいというより寒くなる。
「眠れたのか」
 いつもの頭痛と苛立ちがなく、頭が冴えている。
 寝台には、カマルの腕を枕にして眠る少女がいた。砂漠の朝に似つかわしくない熱は、どうやら娘の体温らしい。
 波打つ黒髪は肩口で切られており、ミルクのように白い肌をしている。ただ、赤い椿の髪飾りだけが鮮やかだった。
 娘の息を確認するように、カマルは彼女の口元にてのひらをかざす。
 ひどくもろそうな娘だった。力をめれば、骨を砕いてしまうだろう。鋭い鉤爪を立てれば、柔いはだを裂いてしまう。壊さぬよう優しく触れなければならない。
 そこまで考えて、カマルは息をつく。優しさなど、魔王には似合わない感傷だった。
 路地裏で襤褸のようにになっていた娘は、あいかわらず傷だらけだが、寝顔は安らかだ。街で評判の薬屋サイダリーヤの痛み止めは、カマルには効かないが、娘には十分すぎるほど効いたらしい。
「おかしな娘。奴隷商のところから逃げてきたのか?」
 このあたりでは見かけない容姿もさることながら、奇妙な衣装もあいまって、もとから砂漠にいる魔族には見えない。ひどく痛めつけられていたのも、逃げていたからと思えば納得できた。
 穏やかな朝を台無しにしたのは、寝所しんじょに近づいてくる足音だった。
「いつまで寝ているんですか! もう《椿》の奴、到着していますよ。さっさと着替えて広間に来てください!」
 朝から声を張りあげて、室に飛び込んできたのは片眼鏡モノクルの少年だ。
 力の弱い魔族のあかしのように、その姿は異形と呼ぶにふさわしい。腰からサソリの尾を生やし、皮膚のところどころは硬化している。長い袖に隠された手も、五本の指ではなく、鋭いはさみのかたちをしていた。
 外見だけならば十二、三歳の少年は、無遠慮に寝台に近づいてくる。
「シャムス、朝から叫ぶな。今日は気分が良いというのに」
 砂漠の国で宰相さいしょうを務める少年は、どこか少女めいた甲高い声をしていた。近くで叫ばれると頭に響くのだ。若いのは見た目だけで、実際はカマルより年上なのだから、もう少し落ち着きを持ってもらいたい。
「気分が良いって、眠れたんですか!? 不眠症のあんたが。……っ、その娘は何ですか!」
 寝台の紗をあげて、シャムスは唇をわななかせる。
マディーナで拾った」
 カマルは腕のなかにいる娘を優しく抱きしめた。
「ひ、拾った? あんた、また宮殿カスルを抜け出したんですね。夜歩きはめろと昔から言っているでしょうが! 昔と違って、今の街は荒れているのに。爆発寸前ですよ!」
「説教は止めろ。それで? 奴隷商が到着したのだったか」
「……っ、着きましたよ、宮殿の外に! あんたの要望どおりの奴隷たちを連れて。あんたが新しい夜伽よとぎをご所望しょもうだから、こんな時期にわざわざ招いたっていうのに」
「追い返せ。この娘がいるから、もう奴隷はらない」
「はあ!? バカ言うのもたいがいにしなさい。どう考えても怪しい娘を、あんたのそばになんて置けるわけないでしょうが」
 シャムスが娘に手を伸ばす。ほとんど反射的に、カマルは彼の手を叩いた。
「触るな。俺のものだ」
「痛っ、この馬鹿力! ちょっとは加減してくださいよ、私は弱い魔族なんですから」
 言い合いがうるさかったのか、娘が睫毛を震わせた。昨夜も思ったが、美しい瞳だった。まるで太陽を閉じ込めたような金色である。
 彼女は焦点しょうてんの合わない瞳を彷徨さまよわせたあと、カマルたちに気づいて悲鳴をあげる。
 カマルはわずかに口角をあげる。歌声だけでなく、悲鳴でさえ美しい。
「何ですか、その吐き気のするような甘い顔。その娘、こっちvしてくださいよ。何処から来たのか知りませんけど、どうせ密入国者でしょ。どうやって街に入ったんだか、いろいろ情報を吐かせないと」
「それは無理だな」
 カマルは娘の唇を指でなぞった。彼女は目を吊りあげて、カマルには理解できない音の羅列られつを口にした。
「言葉が通じない。吐かせたところで、得られる情報などない」
 シャムスは愛らしい顔を片手で覆った。
「今の、このあたりの言語じゃないですよ、《湖城こじょう》や《渓谷けいこく》とも違う。《大河たいが》、いや《神木しんぼく》ですね。目の色は明るいですけど、顔立ちもあっちの奴らと似ている」
「神木? ずいぶん遠くからさらわれてきたのだな」
「攫われてきた? あんた、街で拾ったって」
「路地裏で力尽きているのを拾った。椿の髪飾りをつけているから、奴隷商のところの商品かもしれない。あそこが掲げている紋が《椿》だろう?」
「逃げ出した奴隷だって言いたいんですね。――なら、広間に連れていきましょう。今日来ているのは、あのいけすかない蜘蛛女ですから。あんなんでも《椿》では古参でしょ、なんでも知っていますよ。この娘が商品かどうかは、そのときに確かめてください」
「商品ならば、このまま買い取ろう」
「はあ?」
「気に入った」
 シャムスはあからさまに嫌そうな顔をしたが、逆らうつもりはないらしい。
 上半身裸のカマルに向かって、彼は上着を投げつけた。上着を羽織るために手を離せば、娘は寝台の端に逃げていく。小柄な身体とあいまって、警戒心の強い猫のようだった。
「おたわむれもほどほどに。もうすぐ《湖城》に行っていた偵察ていさつが戻ってきますから」
「ああ」
 生返事をすれば、シャムスが溜息をつく。
「しっかりしてくださいよ、魔王様」
「説教は止めろと言った」
 軽口を叩きながら、カマルは目を細めた。久しぶりに、よく眠ることができた。失われた片翼の痛みは遠く、頭痛や手足のしびれも引いている。
 こんなにも穏やかな朝を迎えるのは、いつぶりだろうか。

◆◇◆◇◆

 陽菜が連れてこられたのは、まさに豪華絢爛けんらんという言葉がふさわしい広間だった。
 半球状の天井には、きらめく色ガラスがめられている。色ガラスを通した陽光が照らすのは、柱や壁に刻まれたつたのような模様である。恐ろしいほど緻密ちみつなそれは、磨き抜かれた白い柱や壁によくえていた。
 ずっと眺めていたいほど美しい空間だったが、陽菜にはそれを堪能たんのうする余裕がない。
 訳も分からず、陽菜はあの男の膝で横抱きにされていた。豪奢ごうしゃな椅子に腰かける彼は、陽菜が逃げようとするたび、うっとうしそうに押さえつける。
「いい加減にしてよ! 離して!」
 男の胸板を叩くが、はがねのような身体はびくともしない。どれだけ鍛えているのだろうか。鍛えすぎて脳みそまで筋肉になってしまったのではないか、この男。
 助けを求めて振り返れば、控えている少年と目が合う。
 陽菜が起きたとき、男と口論になっていた少年だ。片眼鏡モノクルをかけた金髪の少年は、サソリの尾やまだらに硬化した皮膚をもっており、明らかに異形と分かる姿をしていた。
 少年は不機嫌そうに顔をしかめるだけで、陽菜のことなど意に介さない。
 そのとき、ゆっくりと広間の扉が開かれた。
 現れたのは華奢な人影だった。黒いズボンに白いシャツ、革のベスト。髪は首筋に届かないほど短く、凜々りりしい少年のような面差おもざしだが、身体は丸みを帯びている。
 男装の麗人は片手を胸にあて、優雅に一礼する。
「っ、……あ」
 陽菜は青ざめて、傷だらけの手で口を覆った。
 涸れ井戸から落ちた直後、陽菜を痛めつけた女が立っていた。
 身体が震えて、かちかちと歯が鳴った。蜘蛛の脚で宙吊りにされて、何度も地面に叩きつけられた恐怖がよみがえる。痛み止めでも飲まされたのか、今はそれほど激しい痛みを感じないが、陽菜の全身には昨夜の傷やあざが残っている。
「……うん? なんだ、すごい偶然だな! 可愛いコソ泥のお嬢さん、こんなところで再会できるとは思わなかった」
 にっこりと笑った蜘蛛女に、一瞬、陽菜は恐怖を忘れた。
「言葉、分かるの?」
 陽菜を抱える男には、まるで日本語が通じなかった。彼の話している言葉とて、陽菜には理解できない。
 だが、いま男装の女が話しているのは、間違いなく陽菜と同じ日本語だ。
「昨晩は聞き間違いと思ったんだが、やはりそうだったか。お嬢さん《神木しんぼく》の者だろう? こんな異国で同郷の者に会えるとは! あそこは閉鎖的だから奴隷を引っ張ってくるのは難しい。よく攫われてきたな。どの隊商の商品だ? いけすかない《白百合しらゆり》か、それとも傲慢ごうまんな《薔薇ばら》か。うちも攫ってくる抜け道を知りたいな!」
 まるで機関銃のような喋りだ。内容は頭に入らなかったが、女の言葉が慣れ親しんだものであることは確かだった。昨夜と違って、彼女は日本語を使っている。
「どうして、わたしの言っていることが分かるの」
 ここは陽菜の生きていた場所ではない。言葉が通じることがおかしい。
「生まれ故郷の言葉だ、忘れることは難しい。――私たちは商売をしに来たのだが、今回は商談成立とはいかなそうだな。《砂漠》の魔王は、お嬢さんをたいそう気に入っているようだ。脳みそまで筋肉のような男だが、一度決めたら固執こしつするんだ、この男は」
「砂漠の、魔王」
 陽菜が血の気の失せた顔でつぶやくと、背後から不機嫌な男の声がした。
『勝手に喋るな』
 続いて、男装の女が話す。魔王の言葉を訳すように。
「同郷のよしみだ。少しくらい手助けしてやろう」
「……通訳してくれるの? ええと」
「イト、と呼べ。お嬢さんの名はらない。仲間と商品である奴隷の名しか憶えないことにしているから」
 陽菜は返事に困った。奴隷。普通に暮らしていれば、まず耳にすることのない単語だ。
 だが、陽菜は宙吊りにされた少女たちを見ている。あの虚ろな表情をした少女たちこそ、イトの口にした奴隷なのだ。
 ならば、イトは奴隷を売りさばく商人ということになる。
 今、この場に奴隷とおぼしき存在は見当たらないが、彼女は奴隷を売るために、ここに立っている。売る相手は、もちろん陽菜を抱えている《砂漠》の魔王だろう。
『やっぱり、その娘、さっさと処分しましょうよ。素性の分からない娘なんて、宮殿には置けません。この様子だと、逃げ出した奴隷ってわけでもなさそうだ』
 陽菜は肩を揺らす。イトが指差したのは、背後にいる片眼鏡の少年だった。
『シャムス。俺はこの娘が気に入った』
 今度は、陽菜を抱える魔王だ。シャムスというのは少年の名だろう。
 頭のなかで情報を整理していく。陽菜を抱えるのが砂漠の魔王、男装の麗人が奴隷商人のイト、後ろに立っている少年がシャムスだ。
「本当に気に入られたのだな。いったい何をした? 砂漠の魔王の不機嫌を治せる者など、ここ百年は知らない。怒ったら手のつけられない暴虐の魔王だというのに」
「子守唄を、歌っただけ。よく眠れるように」
 昨夜の記憶を辿って、陽菜は自信なくつぶやいた。
「なるほど。この男は不眠症だからな」
 陽菜は必死に考える。魔王が歌を気に入ってくれたならば、陽菜に危害を加えるつもりはないのだろう。
 今の陽菜にとって、一番頼りになるのは名も知れぬ魔王なのかもしれない。この場で一番の権力者であるのも、きっと魔王だ。
 シャムスが険のある顔で近づいてくる。
 彼は魔王に向かって、陽菜を渡せと要求しているのだろう。処分という物騒な表現を使った少年なのだから、何をされるか分かったものではない。
 これが夢でないならば、最悪、殺されるかもしれない。
 まだ死にたくない。こんなところで死んだら、陽菜をかばって死んだ兄に顔向けできない。
 十八歳になった。いま、陽菜は兄が進めなかった未来にいる。そのことを罪のように感じたが、ここで死んでしまえば、兄の死が無駄になってしまう。
「イト! ……っ、お願い! わたしを、あなたのところの奴隷にして。この人にわたしを売ってほしいの!」
 生き残るために必要なのは、陽菜の身許みもとを証明するものだ。
 日本から来たと打ち明けたところで、意味が分かってもらえるどころか、素性の知れぬ娘として処分される。必要なのは、陽菜がこの世界で生まれ育ったという噓だ。
「自分から奴隷になるのか? 面白いことを言う。そういうのは嫌いじゃない。まさか、お嬢さんを痛めつけた私にそれを頼むとは思わなかったが」
 陽菜はぐっと唇を嚙んだ。イトは恐ろしい、怪我けがを負わされたことを許してはいない。だが、自分が死ぬことの方がよほど許せなかった。
「歌うから、処分しないでと伝えて。この人、わたしの歌を気に入っているんでしょ? わたし、まだ死にたくないの。だから、この人に買ってもらいたい!」
 この人のために・・・歌うとは言えなかった。兄が死んでから、陽菜が歌うのは、兄が信じた天使のためだけと決めている。
 だが、陽菜の命綱となるのは、この歌だけなのだ。
「お嬢さん、片方だけが得する取引は成立しない」
「あなたたちにも、悪くない話よ。わたしを売ることで、あなたたちは利益が出る。わたしは命を保障してもらえる。ね、誰も損をしないわ」
 イトたちは無償で陽菜という商品を手に入れて、砂漠の魔王に売りつけることができる。道端みちばたの石を売ったところで、利益は出ても損はないはずだ。陽菜とて、そうすることで身の安全を確保できるならば、彼女たちの商品となってもいい。
 イトは紫の唇を吊りあげて、言葉を紡ぐ。おそらく陽菜が口にした内容と同じことを。
 瞬間、背後にいる男に強く抱きしめられた。陽菜を売買する取引が成立したのだ。
 男は機嫌をよくしたのか、陽菜の首に頰をり寄せた。柔らかな羽の感触があって、陽菜は視線を落とす。彼の頰骨から耳にかけて、風切り羽のようなものが生えていた。
 ――やはり、人間ではない。彼らは異形だった。
 シャムスという片眼鏡の少年など、魔王よりもあからさまだ。通訳をしてくれたイトとて、ほとんど人間に見えるが、背に蜘蛛の脚を持っている。
 ここにいる者たちは、人間にそれ以外の生き物を混ぜ合わせたような姿をしている。
「よかったな、お嬢さんの首は繫がった。なんて運のいい」
 陽菜は眉をひそめた。訳の分からない場所に放り出されて、運がいいはずがない。
 だが、生きていれば道は開ける。家族や友人のもとに帰る手段を探さなくてはいけない。
 息をついた陽菜は、突然の浮遊感に襲われる。椅子に腰かけていた魔王が、陽菜を抱えたまま立ちあがっていた。
「もう、何なのよ! 降ろして!」
 拳で腕を叩いたところで、魔王は力を緩めない。気に入りの玩具おもちゃを抱きしめる子どものように、むしろ力を強くする。
「さっそく、お役目らしい。せいぜいこびを売っておけ。ひどい目にいたくなければ」
 イトがひらひらと手を振る。陽菜は悲鳴をあげて、手足をばたつかせた。

◆◇◆◇◆

 奴隷商のイトは、口元に手をあてて笑いを堪えた。
 砂漠の魔王は、気に入りの娘とともに去る。もともと口数の多い男ではないが、喋らずとも彼が上機嫌であることは伝わってきた。
 今まで、どのような奴隷を売りつけても、砂漠の魔王が気に入ることはなかった。
 あの娘の歌に価値を見出みいだしたのか。それとも、別の理由だろうか。いずれにせよ、とても面白いことになった。
「ああ、もう。ふざけんな! なんで、次から次へと想定外のことばかり!」
 呆然としていたシャムスが、強靭きょうじんなサソリの尾で床を叩いた。相当苛立いらだっているらしく、一瞬、広間が揺れた。
「うちの商品はお気に召したようだな。こちらの手落ちで一度は逃がしてしまってな。もう見つからないとあきらめたんだが、まさか宮殿に迎えられているとは」
 もちろん噓だ。イトたちが商品である奴隷を逃すことなどありえない。魔王に売りつける予定だった奴隷は、誰一人欠けてはいない。
 あの娘は、自分から奴隷になることを望んだ。商品として砂漠の魔王に売れ、と。
 魔界の隊商は利益になるならば何でもする。イトたちの性分をよくとらえた交渉だった。
 娘の頭にあった椿の髪飾りを思えば、そう分の悪い賭けでもなかった。彼女がどこまで理解していたのかは不明だが、イトたちの隊商は《椿》と呼ばれる。椿の髪飾りをつけた娘を、こちらと関係のある存在だ、と強引にこじつけることはできる。
「あんたのところの商品にしては、仕込みが甘いんじゃないですか。言葉も喋れない」
「それは申し訳なかった。そうだな、このままではお前たちも困るだろう? これから言葉を仕込んでやろう」
「……あんた、商品の管理やしつけが仕事じゃないだろ」
 否定はしない。交渉役であり、荒事になった際に出番となる役どころだ。あつかう商品の状態は把握しているが、実際にしつけをするのはイトの仕事ではない。
「ちょっとした人手不足で、いまだけ奴隷の管理も手伝っている。マディーナには我儘わがままなお客人もいるしな」
「あっそ。お仲間は悪趣味なアーシファのとこにいるわけ。――いくらほしいの?」
「宰相殿は話が早くて助かる」
 イトが指を三本立てると、シャムスは舌打ちをした。それなりに高額だが、貧しい砂漠の国でも出せない額ではない。まして、ここは魔王の暮らす宮殿なのだから、価値があると判断すればこれくらいは出す。
「言葉を仕込むだけですよ。余計な真似したら、ぶち殺します」
「お前のような弱い魔物ジンに言われてもなあ、宰相殿」
「私じゃなくて、あの癇癪かんしゃく持ちが、ですよ。砂漠の魔王は暴れたら手に負えない。知っているでしょう? ここらの部族を燃やし尽くして、無理やり力で従えた男なんですから」
 シャムスの忠告はもっともだった。今は上機嫌にしているが、砂漠の魔王は一度暴れだすと治まらない。あたり一面を炎と血の海にして、独りきりで砂漠に立った男だ。
「余計なことなどしない。私たちは無駄が嫌いだよ? 商人だから」
 頭のなかで算盤そろばんを弾きながら、イトは唇を吊りあげた。

◆◇◆◇◆

 背中から寝台に降ろされて、陽菜はうろたえる。
 魔王は黙したまま、猛禽類のまなざしで陽菜を見下ろしていた。二メートル近い背丈せたけと恵まれた体格は、あまりにも陽菜と異なった。
 彼は骨ばった指で、陽菜の唇を数回叩いた。歌え、ということらしい。
 大きく息を吸ってから、陽菜は歌いはじめる。咽喉からしぼり出した声は震えてしまったが、男は耳を澄ませていた。
 彼と向き合うと、胸の奥に小さな痛みが走った。
 真っぐ寮に帰らず、涸れ井戸をのぞいたことが悔やまれる。言葉もまともに通じない場所で痛い目に遭って、周りにいるのは人間ではない異形ばかりだ。
 心細くてたまらないのに、どうしてだろうか。この男が微笑むと不安がやわらぐのだ。
 ――知らない場所、知らない世界で、この人だけが心から陽菜を必要としている。
 一曲歌い終えた陽菜の隣に、男が腰を下ろした。彼は陽菜の右手に自らのそれを重ねて、ゆっくりと首を傾げた。
「大きな手」
 つぶやいて、陽菜は苦笑する。
 互いの掌を合わせる彼は、幼子のようだった。
 指を握り込まれると、混ざりゆく熱にもどかしいような、くすぐったいような気持ちになった。心の水面に波紋が広がるようだ。名も知らぬこの魔王が、陽菜の心にあるいちばん柔らかな場所に波風を立てる。
 この男に自分を買ってほしかったのは、殺されたくなかったからだ。だが、それだけが理由ではなかったのかもしれない。
 昨夜の彼は、痛みを堪えるように顔をしかめていた。
 苦しくて、哀しい顔をしている人は嫌いだ。傷ついた人も見たくない。それはまるで、鏡映しに陽菜自身を見ているようだったから。
 ――この《砂漠》の魔王と呼ばれる男は、どんな人なのだろうか。
 もう誰かのために歌うことはできない。兄の信じた天使のためだけに歌うと決めた覚悟が、たった今、揺らいでいた。
「歌うと、あなたは楽になるの? 痛くない?」
 陽菜の歌を聴くことで、男の痛みが遠ざかるのならば、と心が揺さぶられている。
 そっと男の手を握り返す。乾いた掌は火にくべたように熱かった。彼の身体は炎でできているのかもしれない。
 天使のために、と言い聞かせながら、陽菜は歌を口ずさむ。
 やがて砂漠の魔王は目を閉じる。安らかな寝息が聞こえるまで、彼が眠りに落ちるまで、陽菜はひたすら優しい旋律を紡いだ。



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