序幕 愛しき名 02
香月由良は、眩い光にゆっくりと瞼を開いた。
まるで全身をばらばらに引き裂かれたかのように、身体の節々に激痛が走っていた。声にならない悲鳴が喉の奥から零れ落ち、浅く呼吸を繰り返しながら拳を握る。
しばらくして、苦痛が少しずつ和らいでくると、全身が柔らかなものに横たわっていることを知る。まだ焦点の合わない
眼には、辛うじて黒のセーラー服の袖が映し出されていた。周囲のざわめきが耳朶を打ち、覚醒しきっていない頭に大きく響いた。
噎せ返るような甘い香りをした何かが、一片、一片、と由良に降り積もっていく。
「花、弁……?」
由良が埋もれていたのは、何百、何千の虹色の花弁によってつくられた褥だった。上半身を起こしてあたりを見渡せば、大勢の人間が驚きを隠せない様子で由良を見ていた。
「……っ、
未来樹! これは、……どういう、ことだ」
突然の怒声に、由良は思わず肩を震わせた。
座り込んだままの由良から遠くない場所で、端正な顔立ちの青年が叫んでいた。艶やかな銀髪と蒼穹の目をした、異様に眼つきの悪い青年だった。
「君が望んだとおり、
帯剣の
儀を終えただけだよ」
それに対峙するは、十七歳の由良より二つ三つ年下のつくりものめいた美貌の少年だ。肌は血が通っていないかのように真白であり、襟足を伸ばした深緑の髪と同色の睫毛が
紅の瞳を縁取っている。
「この娘が、
姉さんだと言うのか?」
銀髪の青年は怒りをあらわにして少年を問い質す。彼が鋭い眼差しで睨みつけてくるので、由良は心細げにスカートの裾を握りしめた。状況がまったく理解できなかった。
「
聖剣の要は、魔宝石に宿る魂だよ。勇者が心から望んだ魂を得て、魔宝石は聖剣を創り出す」
緑の少年が由良の傍に近寄ってきた。由良は動くことも儘ならず、少年を見上げることしかできなかった。彼の細い指が腰まで伸ばした由良の黒髪をかきあげ、鎖骨の間をそっと撫ぜた。
恐る恐る視線を落とせば、そこには見覚えのない紅の宝石が埋め込まれていた。赤く燃えあがる焔の輝きを宿した、不思議な光沢をした宝石だった。
「輝きは宿された。――君が望んだ魂を得て、君の剣は聖剣となった」
銀髪の青年が持つ大剣の柄にも、由良にある宝石と同じものが輝いていた。二つの宝石は対をなすように共鳴し合い、焔の輝きを有していた。
「これは、姉さんではない。俺が望んだ人ではない!」
「この娘はリヴィエラ・アーヴィングと同じ魂を持っている。だから、君が望んだ
姉さんだよ」
少年は微笑みを浮かべる。決して威圧的ではないというのに、逆らうことのできない絶対的な微笑だった。
「帯剣の儀は果たされ、君の手には聖剣が託された」
「
未来樹!」
「君は
勇者だ。魔王を倒し、世界を救え」
瞬間、ブレイクと呼ばれた銀髪の青年は瞳を揺らした。
「約束が違う。……っ、俺は、姉さんに会えないならば、勇者になどなりたくなかった!」
青年は悲痛な声をあげて身を震わし、手に持っていた大剣を地面へと放り投げた。
そうして、彼は由良たちに背を向けて走り出す。突然のことに、誰もが制止の声をかけることができなかった。
由良は小さくなっていく青年の背を茫然と見つめた。駆け出す直前の、彼の傷ついた蒼の目が頭から離れなかった。
「未来樹、勇者が逃げました!」
彼が消えてからしばらくして、静まり返っていた周囲から一斉に野次が飛び始める。
「だから、穢れた最下層の人間を勇者にすることなど反対だったのです!」
「次の勇者を選びましょう! 今度こそ、正統な血の勇者をっ……!」
彼らは美しい少年――未来樹に向かって、青年に対する罵声を次々と放つ。甲高い声は由良までも責める響きを含んでいて、自然と身体が強張ってしまう。
「煩いよ。僕が彼を勇者に選んだ。それを否定すると言うことは、僕の宣託を疑うんだね」
未来樹の言葉に、野次と罵声を飛ばしていた者たちは顔を青ざめさせる。
「僕は宣託の樹だ、君たちの未来を安寧にするための
未来樹だ。勇者は必ず戻って来る。戻って来て、世界のために魔王を倒してくれる」
静かに怒りの炎を燃やす未来樹を前にして、人々は気まずそうに顔を見合わせた。
「散って。帯剣の儀は終わったんだ。いつまで居座るつもり?」
人々は釈然としない様子だったが、未来樹に逆らわず去っていく。名残惜しげに振り返る人々の眼差しには、はっきりとした不満があった。
この場に取り残されたのは、虹色の花弁に座り込む由良と未来樹だけだった。
「ようこそ、リトルガナンへ。
聖剣」
彼は両手を大きく広げて、由良に向かって呼びかけた。