序幕 愛しき名 03
「フレ、ア……?」
彼の言葉を繰り返した時、胸のあたりに迸る熱を感じた。下を向くと、鎖骨の間に埋め込まれた宝石が赤く燃える焔を宿して煌めいていた。
「それは魔宝石。
魔子を貯蔵し循環させる特別な宝石だよ」
当然のように説明してくる未来樹に、由良は困惑を隠せなかった。
「あの、何を、言っているんですか?」
言葉こそ通じているものの、由良には彼の意図することが何一つ理解できない。まるで会話が成立している気がしないのだ。
――そもそも、ここは何処なのだろか。
壮麗な白亜の建物である。明らかに女子高校生の由良には縁のない場所だった。由良の住む近辺にも、このような建物はない。
もしかしたら、夢を見ているのだろうか。だからこそ、こんなにも落ち着かず現実感がないのかもしれない。
「さっきの銀髪の人や、貴方は誰?」
疑問ばかりが浮かび上がり、由良は続けざまに問うた。
「彼は
勇者。この世界を侵す魔王を倒すために選ばれた、三十四代目の勇者。僕は
未来樹。魔王に蝕まれる世界を救うため、勇者を選び出す宣託の樹だ」
未来樹の華奢な足には、片足ずつ足首を覆う鉄製の枷が嵌められていた。足枷の鎖は彼の背後にそびえる大樹へと繋がれている。
「貴方は、……あの樹なんですか?」
自らを宣託の樹と称した彼に、由良は躊躇いがちに尋ねる。人間が大樹であるはずがないと知っているが、聞かずにはいられなかった。
「この身体は対話のための人形に過ぎない。僕の本体は後ろにある大樹だ」
由良は息を呑んで、美しい少年と虹色の花を散らす大樹を見上げた。深緑色の髪を春風に揺らす彼は、人間ではないらしい。納得などできるはずもなく、由良は自らの身体を抱き締め、すべて夢だと言い聞かせた。
「もしかして、夢だと思っているの?」
愛らしく首を傾げた未来樹に、由良は言葉を詰まらせた。
「残念。夢なら何にも感じないはずなのに……、ほら、冷たいでしょう?」
未来樹は震える由良に手を伸ばし、包み込むように抱きしめた。
その抱擁を避けるという選択肢は、由良には存在しなかった。何も知らなくとも、本能が危険を察知していた。逆らってはいけない絶対的な支配者を前にして、どうして、拒むことなどできるだろうか。
「君と同じで僕は冷たい。君もまた、人ではなく
剣となったのだから」
由良の鎖骨に埋め込まれた宝石を、ほっそりとした彼の指が撫ぜる。
「意味が、……分かりません」
彼の無邪気な笑みが恐ろしくて、由良は未来樹から視線を逸らした。蠱惑的な花の香りに目眩がして、鳥肌が立った。
「この世界に在る君は人ではない。君は勇者の剣として選ばれた。魔王を倒すための、唯一の武器としての役目を課せられたんだよ」
未来樹に右手首を掴まれ、そのまま由良は自分の胸元に右手を宛がわされる。
「なっ、……あ?」
――常ならば脈打つ、心臓の音がしなかった。
零れ落ちそうなほど大きな未来樹の目が、由良を映し出している。逃避することさえ赦さないように、紅の瞳は由良を捕らえて離さない。
これは夢だと思いたいのに、動かない心臓は現実だけを雄弁に物語る。
「ねえ、
聖剣。君は還りたい? 君が在った場所へ」
それは、とても甘い誘惑で毒のように心を侵す囁きだった。
「帰れ、るんですか?」
「すべてが終わった暁には、君は元の場所へと戻ることができる」
未来樹の言葉が、嘘か真かなど分かりはしない。彼にとって都合の悪いことを隠した甘言の可能性もある。
「魔王を倒すんだよ」
それでも、縋らずにはいられなかった。冷たい身体を抱きしめる少年だけが、独りきりの由良を繋ぎ止める存在だった。
「……魔王とは、何ですか」
震える身体を諫めて、由良は強く唇を噛みしめる。
「この世界を侵す病――
魔化侵略を齎す存在だ」
「魔化侵略とは?」
「魔王の力を受けて、土地が穢れること。人が住めなくなり、魔獣がはびこる悪夢のような場所に変わる。魔化侵略から美しき世界を取り戻すために、勇者は魔王を倒さなければならない」
未来樹が紡ぐのは、荒唐無稽で、物語やゲームのような世界の出来事だった。だが、これが現実であるならば、どれほど嘆いても何も変わりはしないのだ。
――どんなに泣き叫んでも、起こってしまった不幸は消えない。
由良はそのことを過去に痛いほど思い知っている。
「わたしは、何をすれば良いんですか?」
帰りたい。最愛の兄が眠る世界に帰りたい。兄が救ってくれた命で由良が生きたのは、こんな訳の分からない世界ではない。
「とりあえず、魔法でも覚えながら勇者の迎えを待つこと、かな」
「え?」
「君は勇者の聖剣だよ。勇者がいなくては何もできないのだから、当然だろう」
大仰に肩を竦めた未来樹に、由良は全身の緊張が解けていくのを感じた。魔王を倒すなどと言われたため身構えていたが、どうやら今のところは杞憂だったらしい。
「勇者が迎えに来るまでは、僕と一緒にお勉強だね」
未来樹は地面に散らばる虹色の花弁の褥に倒れ込むと、由良に向かって手を伸ばした。
「おいで」
その声に抗うことができずに、由良は未来樹の隣に横になる。柔らかな花弁が頬を擽って、甘い香りが肺を満たしていた。
由良の心は少しずつ凪いでいった。すべて現実だと自覚しているはずなのに、感情が手の届かない遠くにあるようだった。心が事態に追いついていないのだ。
「ねえ、未来樹。一つ聞いても良いですか?」
「良いよ」
「どうして、勇者は逃げたんですか?」
「君が、彼の姉と同じ姿をしていなかったから。あの子は、自分の聖剣として、実の姉を望んでいたんだ。死んだ姉に会うためだけに、勇者となった」
未来樹の言葉に、あの時の勇者の叫びの意味を理解した。
彼がどのように生きて、勇者に選ばれたのか由良は知らない。それでも、長年望んでいた姉ではなく、由良のような見ず知らずの小娘が現れた時、彼が絶望したであろうことは分かる。
未来樹の両手が由良の頬を包み込む。由良は、ごく自然にその行為を享受した。
「何も心配しなくて良いよ。彼は必ず戻って来る。
勇者は
聖剣を見捨てられないから」
そう言って、未来樹は目を瞑ってしまった。彼から顔を背けて仰向けになると、大樹の枝葉の隙間に澄み渡った蒼い空が見えた。勇者の瞳と同じ蒼に、由良はゆっくりと瞼を下ろす。
眠りに就いて目覚めたら、今までと変わらない生活を送っているのではないか、と諦めの悪い心が囁いていた。
だが、いつまでも由良の意識が眠りに落ちることはなかった。