Ixia

序幕 愛しき名 04

 穏やかな春風が窓から入り込んでいた。
 銀色の前髪を乱暴にかきあげて、寝台に伏した勇者ブレイクは舌打ちをした。
 ――脳裏を過ったのは、待ち望んだ姉ではなく、見ず知らずの黒髪の少女だった。
 幼さ残る大きな黒い瞳は、姉の蒼く澄んだ切れ長の目とは似ても似つかない。小柄で華奢な身体は、記憶の中で笑う妙齢の姉とは違う儚さを持っていた。
 あの少女が姉と同じであることを、どうして認められるだろうか。
「いつまで不貞腐れているつもりだ?」
 力なく四肢を投げ出している勇者を見て、部屋の主が大きな溜息をついた。長い金髪を一本に編んで肩から流した、白皙の美貌を持つ男だった。
「イーニアス。お前も、あれをリヴィエラ姉さんだと言うのか? 未来樹と同じように」
 勇者が眉間に皺を寄せると、イーニアスは苦笑する。
「その奇妙な格好をした少女がリヴィエラの記憶を持たぬならば、それは別人だろうな。たとえ、彼女と同じ魂を有していたとしても」
「……っ、ああ、そうだ。未来樹は約束を破った!」
 勇者は苛立ちを隠せず歯噛みした。
「お前の気持ちも分からなくもないが、聖剣を放り投げた勇者など前代未聞だ。まさか役目を放り投げるつもりではないだろうな」
「イーニアスは知っているだろう。俺がどうして勇者になることを受け入れたのか。――このまま、納得して勇者になどなれるものか」
「リヴィエラ・アーヴィングか」
 イーニアスは、勇者にとって唯一の家族だった者の名を口にした。
「俺は、もう一度姉さんに会うために未来樹の宣託を受け入れた」
 勇者とて、自分が幼い言動をしていることは分かっていた。それでも、現状を素直に受け入れることなどできるはずがなかった。
 かつて勇者を育ててくれた姉は、魔族によって惨たらしく殺された。その時、勇者として見出された自分に未来樹は約束したのだ。勇者になれば、再び姉に会わせてあげる、と。
「お前は、それが甘えだと分かっているはずだ。未来樹とお前の約束は知っている。そのために、お前が多くのことに耐え、努力してきたことも分かっている」
 王城に連れ出された日から、ずっと、たくさんのことに耐えてきた。王や貴族たちに蔑まれ、疎まれ続けてきた。この身に流れている彼らの言う穢れた血のせいで、殺されかけたこともあった。
 それでも、姉に再び会うためだけに、剣を手に勇者となる覚悟を決めた。もう一度、あの人を抱き締められるならば、どんな苦悩にも耐えることができた。
「だが、既に勇者として与えられるべきものを、お前は受け取ってしまった。地位も名誉も、最下層では決して味わうことのできない生活も」
「……その分だけ、別の闇を味わった」
「それでも、恩恵を受けたことに変わりはない。お前は勇者として、それに報いなければならない」
 勇者は口を閉ざした。イーニアスが間違っていないからこそ、返す言葉もなかった。
「気持ちの整理がつくまで匿ってやろう。だが、あまり長居はするな。時間が経てば経つほど、お前を追い詰めることになる」
 優しい声音で囁いて、我儘な弟分を宥めるようにイーニアスは微笑んだ。

  ☆★☆★

 舞い落ちる虹色の花弁のなか、由良は未来樹と向かい合って座り込んでいた。
 由良が勇者の剣として召喚されてから、既に三日の時が流れた。勇者が迎えに来ることはなく、由良は未来樹から様々なことを学んで過ごしていた。
「君、魔法も知らないの?」
 目を丸くした未来樹に、由良は小さく頷いた。
「わたしのいた場所では、魔法なんて認められていません」
 昔は信じられていた不思議なことは、ほとんど暴かれ、空想上のものと化した。由良は魔法を使う人間など見たこともなく、現代で大真面目に魔法などと口にすれば失笑買うに決まっていた。
「そう、聖剣が生きた世界は随分と不思議な場所なんだね。――魔法とは、才能ではなく血によって継ぐ力のことだよ。魔法を行使する人間を魔継士《まけいし》と呼ぶ所以だね。彼らは体内の魔子ましを糧に、自らの血が継いだ魔法を行使する」
「血によってということは、誰にでも使えるわけじゃないんですか?」
「祖なる血を継いだ者にしか魔法は使えない。この世界の始まりを築いたとされる、愚者・咎人・識者・聖人の血を継いだ者だけが魔法を行使できる」
 未来樹の言葉に耳を傾けながら、由良は頭の中で情報を整理していく。
 世界の始まりを築いた四人の系譜に連なる者だけが、魔法を行使できる。だからこそ、魔法は才能ではなく血によって継ぐものとされているのだ。
「君には、勇者が迎えに来るまで魔法の詠唱呪文を覚えてもらう」
「待ってください。魔法は祖なる血を継いだ者だけが行使できるんでしょう? わたしは違います」
「そうだね。だけど、君は愚者と咎人の二つの血を継いだ勇者の聖剣だ。彼から与えられた魔子を持っているのだから、当然、彼と同じ魔法を行使できる。――即ち、現存する魔法で最も危険視されてきた愚者系と、焔に纏わる咎人系の魔継士と同じことをできるんだ」
 由良は自らの鎖骨に埋め込められた魔宝石に触れた。ここに宿された焔のような輝きが、きっと、未来樹の言う勇者の魔子なのだろう。
「呪文は僕が教えてあげるけど、絶対に口にしないでね。僕はその系統の魔継士じゃないから問題ないけど、君が声にのせたら魔法が行使されてしまうから」
「その、わたし、あまり憶えるのは得意じゃないんですけど」
「憶えなかったら、君も勇者も呆気なく消えてしまうね。それでも良いなら、無理強いはしないよ」
 天使のように愛らしい笑みに、由良は頬を引きつらせた。ここまで言われたら、元の世界に帰りたい由良には憶えるという選択肢しかなかった。
「……頑張ります」
「やる気になってくれてよかった。じゃあ、さっそく始めようか」
「はい。よろしくお願いします」
「ああ、言い忘れていたけど。詠唱呪文を唱えている時は、途中で間違えたり止まったりしないでね。呪文を詠唱する段階で失敗すると、暴走した魔法は自分に跳ね返ってくるから」
 恐ろしいことを告げる未来樹に、由良は深々と溜息をついた。失敗したら自分に危害が加わるなど考えたくもないが、今後のために避けて通ってはいけない。
 逃げた勇者が姿を現さない今、由良にできるのは未来樹の傍にいることだけだ。彼から知識を吸収し、少しでも先のための準備をするべきなのだ。
 魔王を倒して元の世界に帰るために、それは必要なことだ。