Ixia

序幕 愛しき名 05

 青々とした葉の隙間から、紅い月の昇る夜空が見える。仰向けになっていた由良は、見慣れることのないその光景に目を細めた。
 未だに、目に映る景色や不思議な体験を、すべて夢だと思いたくなる。想像もつかないほど遠くに来てしまったうえに、随分と自分は変わってしまった。
 食欲も睡眠欲も根こそぎなくなってしまった身体を、由良は強く抱きしめた。食べることも寝ることも必要としない身体は、酷く扱いづらい。眠りに就いて現実から目を逸らしたくても、剣となった由良には安らかな眠りさえ与えられないのだ。
「未来樹。勇者様は、いつ来るんでしょうか」
 勇者が逃げ出してから、既に十日も経ってしまった。彼が神殿を訪れる気配はなく時間ばかりが過ぎ去っていく。
「さあ。彼は歴代の勇者とは毛色が違うからね。扱い辛いんだよ。僕の期待も想像も裏切ってしまうから」
「必ず迎えに来るとか、自信満々に言っていたじゃないですか」
 由良が呆れて愚痴を零した、その時だった。
 突如、身体の奥で何かが弾けたような衝撃を受け、急速に寒気と倦怠感が押し寄せてきた。
「……っ、う、あ」
 柔らかな花弁の褥に臥せて、由良は荒く息を吐き出した。由良の呻き声に、隣で横になっていた未来樹が上体を起こした。
「もしかして、そろそろ限界なのかな」
「限、界……?」
 未来樹は由良に埋め込まれた紅い宝石を指差した。
聖剣フレアは、勇者ブレイクなしには存在することさえ儘ならない」
 どういうことですか、と口にすることもできなかった。全身が鉛のように重たく、声を出すことも叶わない。頭が割れてしまいそうな痛みに苛まれ、思わず両手で頭部を抱え込む。
「命なきものに魔子は宿らない。だから、動けない。この世界で君は剣となった。聖剣が動くためには、勇者の魔子がいる」
 ただの物体は、決して自らの力で動かない。それは、魔子を持っていないからだと、未来樹は述べていた。剣と化した由良が動くためには、勇者から魔子を譲り受ける必要があるのだ。
「君は聖剣となった時、勇者から少しだけ魔子を与えられていた。でも、蓄えには限界がある」
 徐々に身体の自由が利かなくなることを感じながら、由良は瞳を涙に濡らして喘いだ。未来樹の冷たい掌が由良の瞼を覆うが、流れ落ちる涙は止まらない。
 ――どうして、このような目に遭わなければならないのだろうか。由良が一体何をしたと言うのだ。
「目を閉じて。君の意識をしばらく封じてあげる。そうすれば、魔子の消耗は抑えられる。――大丈夫、次に目覚めた時には、もう苦しくないよ」
 泣きそうな顔で微笑んで、未来樹は由良の魔宝石に口づけた。

  ☆★☆★

 白亜の神殿は、十日前、帯剣の儀を受けた時と変わらない。花弁が果てなく降り注ぎ、あたり一面を虹色に染め上げる。
 青く茂った大樹は枝葉を広げて、勇者の前にそびえ立つ。大樹に鎖で繋がれた少年が、深緑・・の瞳で勇者を見据えていた。
 目の前にいるのは、この国リトルガナンにおいて絶対の力を誇る樹木。リトルガナンの未来を見通し、宣託を授ける守護者である。人形にしか過ぎない少年の姿さえも、神々しさを覚えるほど美しく、彼が人とは異なる存在であることを意識させた。
未来樹ラグナ
 座り込む未来樹の膝の上には、身体を丸めこませた少女がいた。この国では他に見ない闇色の髪と目をした、ひどく儚げな容貌の少女だ。帯剣の儀の時と変わらず、華奢な身体は奇妙な衣に包まれている。
「呼び出された理由は、分かっているよね」
 有無を言わさぬ口調に、勇者は黙したまま頷いた。
 帯剣の儀から十日が経った。いつまでも、聖剣を放り出したままの勇者を咎めるために、未来樹は自らの根城である神殿に勇者を呼び出したのだ。
「どうして、もっと早く来てくれなかったの?」
 高く透き通る声で、未来樹は勇者を責め立てた。
「僕は君を殺したい気分だよ。聖剣は勇者なしには存在することも儘ならないと、君は知っていたはずだ」
 聖剣は、魔王を倒すための武器に過ぎない。
 勇者は聖剣を失っても生きていけるが、聖剣は勇者と離れてしまうと消えるしかない。魔王を倒すと言う唯一の存在理由さえ奪われ、魔宝石に宿された魂は失われるのだ。
 それを知りながら、勇者は聖剣を放っておいた。この少女の魂が消えてしまえば、姉が自分の聖剣になってくれるのではないか、と愚かな希望を抱いてさえいた。
 少女が姉と同じ魂の持ち主ならば、それは決して叶わぬ願いだというのに。
「君が逃げたから、彼女は耐えるしかなかった。――触れてあげて。君の魔子がなければ彼女の苦しみは終わらない」
 言われるがまま、勇者は未来樹の元へ足を進める。
 少女の頬に手を伸ばす。冷たい肌には一切の体温がなかった。こんなにも人の形をしていても、決して、彼女は勇者と同一の存在ではないのだ。
 ――この少女は人ではない。剣だ。
 勇者は少女の背中に腕をまわして、上半身を起こさせる。奇妙な服の隙間からのぞく鎖骨の間には、輝きを失いつつある魔宝石が埋め込まれていた。
 眠る少女の鎖骨へ顔を近づけ、魔宝石に口づけを贈る。勇者の唇が触れた途端に、魔宝石は赤く燃える焔のような光を徐々に取り戻していく。
 どれほど、そうしていただろうか。やがて、痛みに喘いで涙していた少女の表情が穏やかなものへと変わる。その様子を見ても、勇者の心に浮かぶのは安堵ではなく、失望だけだった。
 ああ、――この少女さえ存在しなければ、最愛の姉に会えたのではないか。
「勇者。君の初めての務めは魔獣討伐だ。かなり大きな巣で魔継士の手に負えない」
「未来樹。俺は……」
「もう一度機会を与えてあげると、言っているんだ。これ以上、僕を失望させないで。僕の聖剣フレアを苦しませないで、勇者ブレイク
 勇者は遣る瀬無さを押し殺すように目を伏せる。それから、ゆっくりと蒼穹の目を開いて、横たわる少女の身体を抱きあげた。
 小さな身体は驚くほど軽く、首は片手で縊り殺せそうなほど細かった。