花と髑髏

序幕 花は朝焼けに咲く 02

 春のグレーティア王国、麗らかな陽気が窓から入り込む、午前の一時ひととき
 朝焼け色をした髪を背に流した小柄な少女――エデルガルト・カロッサは、片付けたばかりの書類の山から目を逸らして、机を挟んだ向かいに座っている少年を見た。
 短く切り揃えた艶やかな金髪、夕焼けに似た緋色を宿した切れ長の瞳。エデルの主である王太子イェルクは、真剣な表情で机に向かっていた。幼さを残しながらも、その横顔はうっとりするほど凛々しい。
 乳母兄妹であるため生まれた時からの付き合いになるが、いつだって自然と彼に目を向けてしまう。愛らしい少年時代も、少しずつ精悍になっていく今も、変わらずエデルは彼のとりこだった。
 エデルの視線に気づいた彼が、ゆっくりと顔をあげた。そうして、数度目を瞬かせたあと、悪戯を思いついた子どものように唇を釣り上げる。
「なあ、エデル。お前、英雄を知っているよな」
 突然の話題に、エデルは若干の戸惑いを覚えながらも頷いた。
 グレーティア王国で英雄と言えば、真っ先に思い浮かぶのは一人しかいない。二百年前、原因不明の不作に喘いだ国を救い、生涯に渡り様々な功績を遺した王弟殿下。
「ディートリヒ・アメルンのことですか?」
 今は失われた魔術に秀で、兄王やその子孫を支え続けた人だ。何故、彼の話を振って来たのか知らないが、幼子でも知っている名だった。
「そう。魔術師の一族アメルンの血を継いだ、異端の王族にして最後の魔術師。我らが偉大なる祖――賢王フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティアの異腹の弟だ」
「もちろん知っていますが、二百年も昔の英雄がどうかしたんですか?」
「この間、花冠かかんの塔の学者から面白いことを聞いたんだ。数多の謎が残る英雄、最大の謎」
 勿体ぶるイェルクに、エデルは苦笑した。
「ディートリヒ・アメルンの遺骨、髑髏・・だけ見つかっていないという話ですか?」
 エデルが答えた途端に、彼は面白くなさそうに眉をひそめる。
「……なんだ、お前、知っていたのか」
「有名な話ですよ。白骨化した彼の遺体は王立博物館に展示されていますけど、――魔術師の証である水晶の埋め込まれた髑髏だけは見つからない」
 王立博物館に展示されたディートリヒ・アメルンの遺体を、エデルも目にしたことがある。彼が生涯愛した花の造花で満たされた棺に、頭部のない骸骨は安置されている。
 いくら英雄のものとは言え、ただの骨に過ぎない。何の感慨も抱かないと思っていたのだが、実際に目にしたそれは息を呑むほど美しく、不思議と涙が止まらなかったことを憶えている。彼の纏う空気は時を超え、死してもなお気高く感じられた。
「コルネリアだったら、知っていたとしても笑顔で話に乗ってくれるというのに。相変わらずお前には可愛げがない」
 コルネリア。一番聞きたくない名に、彼に気づかれぬように机の下で拳を握りしめた。
「そんなこと言われても……。コルネリア様のような王太子妃と、一介の侍女を比べないでくださいよ」
「それもそうだな。可愛くて美しい俺の妃と、お前みたいな偏屈女を比べてもな」
「本当、小さい頃から口が減らないんですから」
 心底幸せそうに愛する女性のことを語るイェルク。その様子を見て痛む心を誤魔化して、わざとらしく唇を尖らせる。
「まあ、お前はそれで良いよ。可愛げがなくて、口うるさくて、でも、俺のことを心の底から愛してくれる」
 寂しげに目を伏せたイェルクに、エデルは首を傾げた。
 快活な性質となった今の彼にしては珍しい、数年前の泣き虫だった頃を思い出させる顔だ。あの頃の彼は、厳しい父王の折檻に耐えかねていつも木陰で涙を流していた。
 黙り込んだ彼は、机の引き出しから古ぼけた懐剣を取り出した。見覚えのないそれは、彼が護身用の武器の一つとして持ち歩いているものとは意匠が異なる。
「おいで、エデル」
 優しく名を呼ばれて近寄ると、年月を感じさせる懐剣を手に握らされた。金に縁取られた柄には細やかな文字のようなものが描かれていて、掌に幽かな凹凸を感じた。渡された懐剣を鞘から引き抜くと、白銀に輝く刀身に紋様が刻まれていることが分かる。
 ――それは、花に囲まれた髑髏だった。
 灰色がかった白い髑髏に、黒い花々が蔦を絡ませ咲き誇っている。常闇を孕んだ髑髏の眼窩がんかから、小振りの花が零れ落ちていた。
「イェルク様の紋章とは違いますね」
 グレーティアの王族は一人一人に紋章が与えられる。国の守護神である森の女神が化身した花を共通の紋様とし、それに各々特有の象徴を組み合わせるのだ。イェルクの場合は花と太陽である。
「やる。お前を守ってくれるものだから、大事にしろ」
「御言葉は嬉しいですけど……、これ、刃が潰れていますよ。護身用にもなりません」
 懐剣は良く見ると刃が潰されていて、武器としては役に立ちそうもなかった。
「良いから持っておけ。お前に渡すために、ずっと預かっていたものだから」
「預かる……? もう、今度は何を企んでいるんですか」
 仕方なしに懐剣を仕舞いこんだエデルが肩を竦めると、イェルクは太陽のように輝かしい笑みを浮かべた。
 病に倒れた父王が請け負っていた政務のほとんどをこなし、正妃も迎え、彼は一人の男として立派に成長している。それでも、泣き虫で幼かった少年の頃から、本当に幸せな時に浮かべる温かな笑顔は変わらない。
 イェルク・ガイセ・グレーティア。この世に生を受けてから片時も離れず傍にいた、エデルのすべてだ。
「十五歳の誕生日おめでとう、エデルガルト。俺の可愛い乳母兄妹いもうと
 まるで祝福を授けるがごとく、彼はエデルの頬にそっと口付ける。
「ありがとう。わたしの素敵な乳母兄妹にいさま
 彼の頬に親愛の唇を落とし、努めて笑顔を作る。互いを取り巻く環境は様変わりしてしまったが、この瞬間、共に在れることに心から感謝した。望む関係になれなくとも、傍に控えることができるならば、その境遇を幸せに思わなければならない。
「お前、これから休みだったよな」
「ええ。花冠の塔に用事があるので、お休みをいただきました」
「それなら、コルネリアの様子を見てきてくれ。俺の妃に悪い虫がついていないか心配で、これ以上仕事が手に付きそうにない」
「御冗談を。王太子妃に手を出そうなんて愚かな人、あそこにはいませんよ」
 エデルはわざとらしく溜息をついて、さりげなく視線を落とした。上手く笑えている自信がなかった。
「そろそろ、わたしは失礼しますね」
「お疲れ様。用事が済んだらゆっくりと休め、エデル」
 名を呼ばれ、ほんの少しの優しさを向けられただけで鼓動が逸る。心の奥底に閉じ込めたはずの淡い想いが、エデルの胸を締め付けた。
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
 小さく手を振った彼に背を向けて、エデルは執務室の扉を閉めた。
 そのまま扉に背を預けて、揺れる心を落ち着かせるために深呼吸を一つして目を瞑る。イェルクには愛する女性がいると知りながら、不毛な想いを未練がましく抱えている自分が酷く惨めだった。
「エデル様? どうかなさいましたか」
 不意に声をかけられて、エデルは閉じていた瞼を開く。そこには、良く見知った男たちの姿があった。両腕に書類を抱えた彼らは、イェルク直属の文官たちである。
「何でもありません。……新しい書類なら、執務室のわたしの机に運んでいただけますか? 少し用事で離れますが、終わったらすぐに戻りますので」
「これくらいなら私たちで処理しますよ。せっかく御休みをとられたのですから、ゆっくり休んでください。エデル様は働き過ぎです」
 顔を見合わせて苦笑を浮かべた彼らに、エデルは曖昧な笑みを返した。
「そんなことはないと思いますが……、そう仰るのであればお任せしますね。そちらも無理だけはなさらぬように」
 働き過ぎだとは思わないが、彼らとしては自分たちの領分にできる限りエデルを関わらせたくないのだろう。己の立ち位置が酷く危ういものだと知っているので、その気持ちも分からなくはなかった。
「それは私たちの台詞ですよ、どうかご自愛ください」
「……お気遣い、ありがとうございます。お仕事頑張ってくださいね」
 彼らに別れを告げて歩き出したエデルは、庭園の良く見える回廊に差しかかって足を止めた。王城の庭園は春の盛りを迎える頃で、ちょうどたくさんの花々が咲き誇っていた。瑞々しい命の美しさを主張するように、彼女たちは焦がれる太陽に向かって精一杯花弁を広げていた。
 柔らかに頬を撫ぜる春風の中、虚しさが身体を駆け巡る。
 日向に咲く花は幸せだ。太陽を待てずに枯れる花があることを、エデルは知っている。――皆に祝福されて咲き誇る想いがあるのならば、人知れず朽ちていくしかない想いもあるのだ。
 エデルは庭園から目を逸らし、再び城門に向かって歩き出した。