城門を出たエデルは、右手にある白塗りの建物を見上げる。王城に隣接して造られたこの建物は、国立研究機関――
花冠の塔に属する研究施設の一つだった。
国中から集められた天才たちが研究に勤しむ施設に足を踏み入れれば、エントランスで数多の人々が慌ただしそうに行き交っていた。受付の順番を待つ間、エデルは壁に飾られた一枚の肖像画に視線を遣る。
額縁の中には、精巧な人形のように整った美貌の青年が描かれていた。
月光の白銀を宿した髪に、長い睫毛に縁取られた紫の瞳。白く滑らかな陶磁の肌をした青年は、こちらに向かって穏やかに微笑んでいる。彼の額で輝く紫水晶は絵の中だと言うのに恐ろしく鮮麗で、首筋に刻まれた大きな傷跡さえ、その美貌を引き立てる一因でしかない。
――ディートリヒ・アメルン。
国立研究機関が花冠の塔と呼ばれる理由は、この英雄にある。国立研究機関の前身となった部署を作ったのがディートリヒ・アメルンであり、彼が青年の頃から老衰するまで暮らした場所が花冠の塔と呼ばれていたのだ。
「貴方が生きていたなら、……魔術を使って、わたしの願いも叶えてくれたかな」
彼の額に嵌めこまれた紫水晶を見て、エデルは自嘲する。文献に残されている通り、その額にある水晶が魔術師の証であるならば、胸に秘めている願いも叶うかもしれない。
二百年も昔に亡くなった男に何を求めても無駄だと知っているが、考えずにはいられなかった。己の力では叶わぬ絵空事も、魔術という異能があれば叶えることができるのではないか、と想像してしまった。
受付の順番が回って来ると、担当の女性たちはエデルの顔を見るなり黙って施設の奥へと通してくれた。彼女たちに礼を告げて、奥にある研究室を目指す。
コルネリア・バルシュミーデと刻まれた扉の前で、エデルは立ち止まった。約束の時刻も近いので、彼女は在室しているだろう。
「コルネリア様。エデルです、入っても?」
「どうぞ」
一声かけて扉を開けると、肩口で切り揃えた短い茶髪に碧眼の女性が椅子に腰掛けていた。誰もが見惚れる美人ではないが、小作りで整った顔立ちをしており、均衡のとれた豊満な身体は同性から見ても魅力的だった。
「いらっしゃい、エデル。そろそろ来る頃だと思ったの、元気にしていたかしら?」
エデルに着席を促し、彼女は赤いルージュを引いた唇で笑みを浮かべた。
「変わりなく過ごしています。コルネリア様こそ、お元気そうで嬉しいです。……改めまして、御成婚、おめでとうございます」
最後に会ったのは、
二月前に行われたイェルクとコルネリアの成婚式だ。重臣や貴族たちに囲まれて微笑む二人の姿を末席で見つめていた苦い記憶が浮かび上がり、気づかれぬように軽く拳を握りしめる。
「ふふ、ありがとう。でも、イェルク様の宮殿に入るのはもう少し先のことだから、あまり実感がなくて。……もう、研究の引き継ぎだって、ほとんど終わったのにね」
コルネリアは少しだけ寂しげに零した。
彼女は薬学の権威として花冠の塔に所属していた女性で、バルシュミーデ伯爵家の令嬢という身分も持っている。血筋と彼女自身の功績、なによりイェルクの強い希望により、王太子妃として求められた。
「研究から離れることが、寂しいのですか?」
成婚式以後も彼女は研究の引き継ぎのためにこちらに通っていたが、正式に宮殿に迎え入れられる日は近い。王太子妃として公務に臨むことになる以上、研究者としての復帰は当面見送られることになる。
「今までの生活がすべて変わってしまうのよ。光栄なことだけど、寂しさも感じてしまうわ。……本当に、人生は何が起こるか分からないものね。まさか、私のような人間が王太子妃なんて呼ばれる日が来るとは」
苦笑こそ浮かべているものの、コルネリアの声は明らかに弾んでいた。初めて会った日から、彼女が彼に惹かれていたことは知っている。三年前、体調を崩したエデルの治療のために訪れた彼女を、彼が見染めたのと同じように。
「もう、バルシュミーデの令嬢が何を仰るんですか」
「だって、私の家は元を辿れば市井の商家よ? 賢王フェルディナントの功績のおかげで爵位を貰ったけど、貴方の家みたいに歴史があるわけでもない。――そもそも、このご時世に貴族も何もないわ」
「それは、思っても口に出してはいけないことですよ」
建国時から変わらず王制がとられてはいるものの、今のグレーティアはかつてと随分様変わりをしている。王や貴族の権限は昔ほど強くなく、身分差の壁は薄くなり、イェルクの母親でさえ民間の出身である。
だが、グレーティアで最も讃えられる王を輩出したコルネリアの生家は、この時世でも確固たる地位を持つ。歴史が長いとはいえ、名ばかりで落ちぶれたエデルの生家とは違う。
二人の間に沈黙が落ち、居た堪れなくなったエデルは彼女の机に散らばった書類を見る。彼女はまだ引き継ぎの仕事の最中なのだ、早々に切り上げた方が良いかもしれない。
「いつもの薬を出してもらえますか? 午後は休みをとっていますが、できれば滞っている仕事を片付けてしまいたいので」
エデルが用件を口にした途端、コルネリアが眉を曇らせた。彼女は棚から一つの紙袋を取り出して、こちらに差し出す。
「一年分、入っているわ。……でも、薬を出すのはこれが最後よ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
コルネリアは幽かに震える手をエデルの頬に伸ばした。彼女の碧い目には、瞳を揺らす幼い子どもの姿が映し出されている。
「もう、止めにしましょう。そんなに女であることが受け入れられない?」
エデルの頬を優しく撫でて、彼女は泣きそうな声で言った。二十三歳を迎える彼女は、八つ年下のエデルを妹のように可愛がってくれている。だからこそ、彼女が無理を重ねるエデルを心配していることが分かった。
「……受け入れたら、わたしはイェルク様の隣にいられなくなる。わたしが、そんなに邪魔ですか? あとからやって来て、イェルク様を奪ったのはコルネリア様なのに」
しかし、零れ落ちてしまったのは、彼女にだけは告げてはいけない醜い言葉だった。コルネリアが現れる前まで、イェルクの隣はエデルのものだった。泣き虫な少年の隣は、自分にだけ赦された場所だったのだ。
「違うわ! 貴方の身体が心配なの。どんなに否定しても、貴方は女なの、女になっていく。……薬で無理やり先延ばしにしたって、いつか駄目になる日が来ると分かっていたはずよ」
彼女の身体は小刻みに震え、瞳は涙の膜によって潤んでいる。どうか分かってほしい、とその表情は強く語っていて、エデルは顔を歪めた。嫉妬や羨望はあれど、姉のように慕ってきた彼女と言い争いたい訳ではない。
「……っ、子どもを産める身体になんてなったら、わたしはイェルク様から引き離されます」
「だけど! 貴方の未来を考えたら、それ以上の服薬は許可できない。今でさえ、どれだけ負担になっているか分かるでしょう」
自らの身体を抱きしめて、エデルは唇を噛んだ。十五歳という年齢にしては驚くほど肉つきが薄く凹凸のない身体は、薬を使って無理やり保ち続けたものだ。正常な成長を妨げ続けた報いは、このままだと必ずエデル自身に返って来るだろう。
「それでも良い。それの何が、悪いの?」
コルネリアを睨みつけて、エデルは小さく呟いた。
彼女の言い分がどれほど正しく、自分の身を案じてくれた結果だったとしても、受け入れることはできない。イェルクに寄り添う未来を約束された彼女にだけは咎められたくなかった。
「何を失っても、わたしの未来がだめになっても良い……! 少しでも長くあの人と一緒にいられるなら、どんな犠牲を払っても構わないもの! 貴方には……、ずっと一緒にいられる貴方にだけは、わたしの気持ちなんて分からない!」
彼のためだけに生きると決めたエデルの覚悟も、歩んできた道のりの重さも、決して彼女にだけは伝わらない。皆に祝福されて日向で咲き誇った花に、人知れず朽ち果てるしかない惨めな花のことなど分かるはずもない。
「分かっているわ、貴方がどれだけイェルク様に尽くしてきたか知っている! だけど、私だけじゃない、イェルク様だって貴方のことが大切なの。心から愛しているのよ! だから、貴方の未来を、幸せを願うのは当然のことでしょう!」
強く机を叩いて叫んだコルネリアに、エデルは目を見開く。
「イェルク、様に、……言ったの?」
はっとするように彼女は口元を手で覆った。それは、何よりもの肯定だった。頭の中が真っ白になって、気付けば彼女に背を向けて部屋を飛び出していた。
「エデル! 待って、待ちなさい!」
薬の入った袋を握りしめて、ただ走る。エントランスで行き交う人々の波をかきわけ、無我夢中で駆け続けた。
――いつの間にか、宛てもなく走り続けたエデルの前には見知らぬ森が広がっていた。王城が見えるため、それほど遠くには来ていないのだろう。だが、十五年の時を王城で過ごしたエデルも初めて見る森だった。
胸のうちで燻る遣る瀬無さに天を仰いだエデルは、見えない何かに導かれるように、ゆっくりと森に足を踏み入れた。森はエデルを歓迎するがごとく木々を揺らし、進むための道を開いてくれる。
やがて森を抜けると、一つの小さな丘が姿を現した。丘一面には、赤と金に燃える朝焼け色をした花々が咲いていた。それらは一つの大きな炎のように風に揺らめいている。すべてを呑みこむ圧倒的な景色の中、気付けば頬を熱い滴が伝った。
「イェルク、様」
叶わないと知っていた想いで、抱くことすら赦されない心だった。
それでも、イェルクが大切で誰よりも愛おしかった。家族愛か、友愛か、赦されぬ恋愛か分からなくても、彼を愛する気持ちに嘘はなかった。女にならなければ、孕めぬ子どもでいれば彼の傍にいられる。イェルクはエデルを必要として使ってくれたから、彼も分かってくれるはずだと信じていた。
だが、それも独りよがりでしかなかったのだ。美しく優秀で、女として傍にいてくれるコルネリアがいれば、エデルのことなんて要らなくなったのだろう。
「ずるい、コルネリア様ばかり」
一番愛してほしかったイェルクに、一番愛されているコルネリア。彼女は彼の傍で生きることが赦されるのに、自分には赦されない。
視線を落とすと、小さな花々が花弁を広げている。
エデルガルト――失われた魔女語によって、朝焼けと名付けられた花。
「ねえ、貴方は、どうしてこんな花を愛したの? ディートリヒ・アメルン」
英雄に因んだ誉れある名だと、イェルクは優しく囁いてくれた。だが、どうしても好きになることはできなかったのだ。
誉などいらないから、どうか愛しい彼の傍にいられる権利を与えて欲しい。
おぼつかない足を動かした途端、エデルは躓いて転んでしまう。花に埋もれるようにして倒れ込んだ瞬間、抑えきれない感情が込み上げ、蹲って声をあげて泣いた。
どうしようもないことだと知りながら、どうしてもイェルクを諦めきれない。彼に使われ彼のために生きることだけを胸に、今まで歩んできた。彼の傍にいられない未来に、何の光があるというのだ。
大切に育んでいたはずのイェルクへの愛情が、膿んで爛れて腐り落ちる音がする。最初から、きっと、何もかもが相応しくなかった。家柄や血筋だけではなく、心根さえも卑しかった。愛している人の幸せを祝福できず、姉のように慕った人に憎悪にも似た嫉妬と羨望を抱いている。
堪らず地面を強く叩いたエデルの拳に、強い痛みが走る。咄嗟に痛めた手を引くと、叩いた場所に埋められていたのは黒塗りの角ばった石だった。明らかに自然のものではないそれに、何か文字が刻まれていることに気付き、エデルは思わず手を伸ばした。
泣きじゃくるエデルの指先が、文字をなぞった瞬間だった――。
あたりが眩い光に包まれて、咄嗟に固く目を瞑った。臓腑から揺さぶられるような強い揺れを感じると、意識が急速に黒く塗りつぶされていく。
声にならない悲鳴が、もがく手足ごと闇に溶ける。
――エデルガルト。
閉ざされていく意識の中で、誰かが愛おしそうにエデルの名を呼んだ。
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