眩い光に瞑っていた目を、エデルは恐る恐る開いた。暗闇に支配されていた視界は徐々に
開けて行くが、臓腑を揺さぶられた気持ち悪さに血の気が失せていく。
――先ほどの目を焼くような光と強い揺れは何だったのだろうか。
眦に張り付いた乾いた涙を拭って辺りを見渡すと、薄闇に幾つもの草花と背の低い木々が浮かびあがっていた。頭上には先ほどまで太陽が昇っていたはずなのに、いつの間にか月光が囁き星が瞬く夜空が広がっている。
「ねえ、重たいんだけど」
不意に、エデルの下から不機嫌そうな声が聞こえてくる。そこでようやく自分が誰かに圧し掛かっていることに気づいた。
限りなく白に近い銀色の柔らかな髪が、草の上に散っていた。吸い込まれそうなほど深い紫の双眸には戸惑うエデルの姿が映し出され、滑らかな額には輝く紫水晶が埋め込まれている。非の打ち所が無い美貌を持った青年で、森の女神が一心に寵愛したであろう顔立ちはまさしく人間離れしていた。細く白い首に刻まれた生々しい傷痕だけが、彼が生きた人であることを示している。
――この青年を、エデルは何度も目にしたことがある。
「どうやって、ここに入って来たの?」
淡々と口にした彼は上半身を軽く起こし、茫然としているエデルに向かって両手を伸ばした。両肩を痛いほど強く掴まれた直後、力任せに後方に押され、気付けば体勢を逆転されていた。
圧し掛かられて、声にならない悲鳴が喉から零れ落ちた。腹部を圧迫されて苦しげな息を漏らすと、瞬く間のうちに両手を頭上で纏められてしまう。探るような視線と共に顔を近づけられて、エデルは思わず息を呑んだ。
「額の水晶がないから、アメルンの魔術師ではないね。結界を張っているのに突然落ちてきたから、きっとアメルンの者だと思ったのだけど……」
アメルン。
それはディートリヒ・アメルン――賢王フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティアの異母弟にして、彼を生涯支えた王弟殿下を輩出した魔術師の一族だ。
「アメルンの者にしては、随分と弱そうだ」
エデルの手を纏める指先に力を込めて、青年は囁いた。細身の
体躯からは儚ささえ感じられるというのに、驚くほど強い力だった。痛みに眉をひそめながらも、エデルは身体が震えそうになるのを必死で堪える。ここで怯んでしまったら、完全に相手に主導権を渡すことになってしまう。
精一杯の虚勢で青年を睨みつけると、彼は途端に唇を釣り上げて笑う。
「怯えた小動物みたいで可愛いね。――疑われたくないなら、おとなしくしていなよ。子どもに手を出すような趣味はないから」
そう言った直後、彼はエデルの腕を纏めるものとは反対の手で横腹に触れてきた。イェルクよりも大きな手が身体の線をなぞり、探るように動かされ、恐怖のあまり両足を動かして抵抗する。
「動かないで。これ以上動くなら殺すよ」
底冷えする声だった。笑みこそ浮かべているが、その目からは一筋の光さえ感じられない。無抵抗を示さなければ殺されると理解して、エデルは歯を食いしばる。無遠慮に身体を探り続ける青年は、やがてエデルが懐に忍ばせていた懐剣を手に取った。
――イェルクから与えられた懐剣だ。
エデルに抵抗の意思がないと判断したのか、青年はエデルの拘束を解く。だが、両手が自由になってからも指一本動かすことができなかった。
「懐剣だけで乗り込んでくるなんて良い度胸だね。しかも、刃が潰してある」
懐剣を鞘から抜いた彼は呆れたように溜息をついたが、次の瞬間、紫の瞳を鋭くさせた。
「この懐剣、どうやって手に入れたの?」
身を強張らせたエデルは、己を勇めて、蜜色の目で青年を睨み返した。
「いただいた、ものです」
「そう。誰から貰ったの?」
「……それが、貴方に関係ありますか?」
イェルクの名を口にすることはできなかった。彼がエデルを必要としなくても、わずかでも彼を危険に晒す可能性があるならば、それを赦すわけにはいかない。
細い指先で刀身をなぞって、青年は溜息をついた。
「君はこの紋章の意味を知っているのかな。――花と髑髏は、僕が生まれた時に創られた、僕だけに赦された紋章なんだ」
――王家に生まれついた者は、皆、固有の紋章を授けられる。
気にかかっていたことが確信に変わり、エデルは諦めにも似た想いを抱いて目を伏せた。月光のごとき白銀の髪、額に埋め込まれた鮮やかな紫水晶。王城で、王立博物館で、研究所で、国の至る所で目にした彼の肖像画を忘れるはずがなかった。
「ディートリヒ・アメルン」
どうして、
二百年前の王弟殿下が目の前にいるのだろうか。
「そんなことも知らずにここに来たの? 僕はディートリヒ・アメルン・
グレーティア。――王位継承権を放棄したから、今は君の言うとおりただのディートリヒ・アメルンのつもりだけどね」
「……現在の、王の名は?」
自身をディートリヒ・アメルンと名乗った青年に、エデルは掠れた声で問いかける。
「フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティア。僕の
異母兄だよ」
その王は遠い昔に国を治めた偉大なる人で、エデルの生きる時代では亡くなってから久しい。有り得ない、と理性は現状を否定していたが、心がディートリヒ・アメルンの存在を認め始めていた。肖像画とは言え何百回と目にしたことのある人を見間違えるはずもなく、青年にばかげた嘘をつく必要があるとも思えない。
瞳を揺らすエデルの胸に、突如、彼の手が伸ばされる。咄嗟に身を竦ませるが、彼は躊躇いもなく乱れた襟の隙間に手を入れ、異様に冷たい指先で胸元をなぞってきた。
「そうか。――君はここに侵入したわけではなく、誰かに
招かれたのか」
その呟きを理解できずにいると、彼は何かを確かめるようにもう一度だけエデルの胸元をなぞった。
「君の胸元には、魔女文字が刻まれているんだ」
魔女文字とは、魔女語を記すために使われる文字だ。魔女語は、グレーティア王国が大陸共通語であるゲオルギーネ語を公用語とするよりも以前、建国時代に使われていた言語である。未だに謎が多く残る言語で、ゲオルギーネ語との共通点も非情に少ないため、現在解明されているのは建国神話や遺跡などから判明した単語くらいである。
「四百の夜を超えて、月の光が導く朝で、花は朝焼けに咲く」
刻まれた文字を読み上げる抑揚のない声に、エデルは震える唇を開いた。
「魔女文字が、読めるのですか?」
「魔術を行使するためには魔女語が不可欠だから、僕たちアメルンは魔女語の話者なんだよ。当然、魔女文字も扱うことができる」
エデルは魔女語の解明が進まない主な原因が、アメルンの秘密主義にあったことを思い出す。魔女語を操る彼らが黙したまま滅びたため、研究の成果はエデルの時代でも
芳しくないのだ。
「君はこの状況に何か心あたりがあるみたいだね。最初は動揺していたみたいだけど、今は随分と落ち着いている」
「……有り得ないはずの出来事で、夢なのではないか、と疑っています。貴方も、きっと信じてはくれないでしょう」
この時代が二百年前だと、未来を生きるエデルには理解できる。だが、それを伝えたところでディートリヒが信じてくれるとは思えなかった。自分が彼の立場なら、間違いなく真っ向から否定する。
「僕は魔術師だよ。ある一つを除けば、どんなことだって叶えられる術を知っている」
エデルの生きる時代では滅びてしまっている魔術。この美しい青年は、どのような願いだって叶えられるのではないか、と夢見て縋りたくなる異能の持ち主なのだ。
エデルはゆっくりと瞬きを一つした。彼が信じようと信じまいと、エデルの命を握っているのは彼だ。どれほど迷ったところで、打ち明ける以外の選択肢をとることはできない。
「わたしは、二百年先の時代から来ました」
半ば投げやりに答えると、ディートリヒは目を丸くしていた。
「未来から、来たの?」
「ええ。貴方が信じないのも無理ないでしょう。わたしだって信じたくは……」
「時の、魔術……! うそ、生きている間に目にすることができるなんて思わなかった。こんな酔狂なことをする人間、本当にいたんだ……!」
ディートリヒは声を弾ませて嬉しそうに叫んだ。突然の大声に驚いたエデルを余所に、彼は興奮を隠さず幼い子どものように笑う。
「ちょっと、待ってください! わたしにも分かるように説明してください」
「説明? アメルンの魔術師の誰かが、この時代に君を招いたんだよ」
首を傾げた彼に、エデルの唇から溜息が零れ落ちてしまう。
――この場所に来た原因が、時の魔術と呼ばれるものの結果だとしよう。
「それなら、時の魔術というものは、いつ解けますか?」
エデルが知りたいのは、招かれた原因ではなく対処法だった。魔術に関して無知なエデルと違って、魔術師である彼ならば時の魔術と呼ばれるものについて詳しく知っているはずだ。
「四百の夜というのは、おそらく君がこの時代にいる日数のことだろうね。ゲオルギーネ歴において一年は四百日だ。君は一年後の今日、未来に戻される」
「一年? 一年なんて困ります! 仕事がありますし、わたしがいなくなったら……」
その先を、エデルは続けることができなかった。
既にイェルクの隣にはコルネリアがいる。エデルの居場所は消えて、彼自身に不要だと宣告されたも同然の身だ。最初のうちは政務が滞るかもしれないが、共に働いていたイェルクの部下たちは優秀である。自分が抜けた穴など、すぐに埋まってしまう。
エデルは堪らず唇を噛みしめた。帰ったところで、一体、どうすると言うのだ。
「……行くあてがないなら、君が帰る日まで花冠の塔に置いてあげようか? ちょうど身の回りの世話をしてくれる子が欲しかったんだ」
毒を仰がせるように、ディートリヒは甘い声で囁く。身も心も
蕩けてしまいそうなほど優しく沁みる声に、エデルは訝しそうな目で彼を見た。
「何が目的ですか」
彼は微笑んでいた。誰もが見惚れるであろう美しく慈愛に満ちた笑みだったが、どうしてか酷薄なものにしか思えなかった。
「悲しいな、純粋な善意とは思ってくれないんだね」
「貴方が善意で動く人間なら、最初からわたしを脅したりしないでしょう。……それに、会ったばかりの人間に身の回りの世話をさせる利点があるとも思えません」
「その通りだね。――魔術師として興味があるんだ。時の魔術は払う代償の大きさ故に廃れてしまったものだから、僕も初めて目にしたんだよ」
「……熱心なことで」
実際、ディートリヒ・アメルンは研究熱心な魔術師だったと伝えられているので、間違いではないのだろう。そうでなければ、国立研究機関の前身となる部署など作りはしない。
「このまま侵入者として突き出されたいなら、僕はそれでも構わないよ。どんな酷い目に遭うか見物だね」
楽しげに目を細めた彼に、エデルは顔を歪めた。エデルが断った瞬間、彼は何の躊躇いもなく実行するだろう。
「……よろしく、お願いします」
――彼の提案は、エデルにとって最悪のものではない。この身に刻まれた魔術を差し出せば、侵入者として裁かれることもなく、過去にいる間の生活が保障されるのだ。胸元に刻まれた魔女文字の内容が真実かどうかも含め、これからのことは生活の基盤ができてから考えれば良い。
「契約成立だね。君に刻まれた魔術を研究させてくれる限り、僕は君を保護してあげる。名前は? 迷子のお嬢さん」
「エデルガルト。……エデル、とお呼びください」
不快感を露わにして名乗れば、彼は声をあげて笑う。
「よろしく、エデル。僕のことはディーで良いよ」
ディートリヒは立ち上がり、こちらに片手を差し伸べる。月光に溶け込む白銀の髪が夜風になびくのを見つめながら、エデルは身を起こした。
「御世話になります、
ディートリヒ様」
差し伸べられた手を強く握り締めると、肖像画の住人だった青年は鮮やかに笑った。
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