扉が
執拗に叩かれる音に、エデルは浅い眠りから目を覚ます。
緩慢な動きで上半身を起こし小さく欠伸をするが、その間も扉を叩く音は止まない。仕方なしに寝台から出たエデルは、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、ようやく住み慣れはじめた部屋の扉を目指した。
扉を開けると、そこには予想した通りの美丈夫が立っている。くたびれて所々絵具汚れの目立つ白いシャツに、足を引き摺ってるせいで裾を解れさせる
長靴。月光のごとき白銀の髪は酷く乱れており、櫛一つ通していない様子だった。
「エデル、何か用意してくれる? お腹すいた」
不健康極まりない生活を送りながらも艶を失わない唇で、ディートリヒは強請るように口にした。
「……今、いつだと思っているんですか?」
彼はわざとらしく首を傾げてとぼける。二十代半ばの青年がするには似合わない幼い仕草だが、不思議と違和感はなかった。子どものような男だからかもしれない。
「真夜中です。わたし、さっきまで寝ていたんですよ」
寝不足で目の下に隈を作ったエデルは盛大に顔を歪める。彼がこのような夜更けに訪ねて来るのは今日が初めてではない。未だ闇に包まれた時刻に連日叩き起こされて、そろそろ限界だった。
「空腹で集中できないんだ。死んじゃう」
「……っ、分かり、ました」
両肩を掴まれて前後に揺さぶられ、エデルは観念したように了承する。ここで彼の希望を叶えなければ、部屋から締め出したところで、作ると言うまで扉を叩き続けるに違いない。
「ご要望はありますか?」
「何でも良いよ、エデルの料理はどれも美味しいからね。焦げていないもの」
「……まさか、勝手に厨房を使ったんじゃないでしょうね」
この時代に招かれた直後に出された料理を思い出し、エデルは苦虫を潰したような顔をする。あれは料理ではない、炭だった。
「君に怒られてからは一度も触ってないよ」
褒めて、と子どものように笑う彼に、思わず溜息が零れ落ちた。厨房が炭だらけになって後片付けに苦労するくらいなら、夜中に叩き起こされた方が良いのかもしれない。
ただでさえ、この場所――花冠の塔は、毎日掃除しても追い付かないほど荒れ放題なのだ。立ち入り禁止の最上階以外の掃除に着手したものの、居住している処を綺麗にするので精一杯なのが現状だった。
「では、行きましょう。早く済ませて休みたいです」
夜着のまま階下にある厨房に向かおうとすると、ディートリヒが腕を突いてくる。
「今日は着替えなくて良いの? それくらいは待つけど」
「子どもに手を出すような趣味はないのでしょう?」
初めこそ人並みに恥じらっていたが、今ではその行動のばからしさが良く分かる。
ディートリヒ・アメルンは、興味のあること以外には驚くほど無関心で無頓着な男だ。彼が関心を持っているのは時の魔術でしかなく、エデルがどのような格好をしていようが気に留めることはない。
他愛ない話を重ねながら螺旋階段を下り、二人で厨房へと入る。
「綺麗になっている。ありがとう、掃除してくれたんだね」
「あんなに荒れていたら使えませんからね。……ちなみに、一番苦労したのは貴方が焦がした壁の始末でしたよ」
至る所に道具が散乱し壁には焦がした跡の残っていた厨房は、苦労したかいがあって以前とは見違えるほど綺麗になっているはずだ。
「仕事に夢中になるのは良いですけど、せめて生活を改めてからにしてください。ちゃんと休んでいないでしょう」
いつ寝ているかも分からない不規則な生活を送る青年に、スープの材料を刻み始めたエデルは眉をひそめた。思いの外丈夫な
性質らしいが、外見だけ見るといかにも儚げな青年である。華奢な身体と透けるように青白い肌を見る度に、少しだけ心配になる。
「規則正しい生活を送ってこそ、何事も
捗ります。貴方みたいな生活を送っていたら、いつか倒れて大きな損失を出しますよ」
無茶を重ねて倒れた人間がいると、最終的に迷惑を被るのは周囲の人間だ。エデル自身、一度、そのような経験があるので身に染みて分かる。エデルの場合、その体調不良こそが愛しい男と恋敵を引き寄せる結果になったのだから、冗談ではなかった。
「別に倒れたって構わないんだけどね。僕の代わりなんて誰にでもできるし、僕なんていないほうが皆幸せなんじゃないかな」
「……そんなこと、ないでしょう」
英雄の代わりなど誰にでもできることではない。史実が伝えるディートリヒ・アメルンは、不作に喘いだ国を救い、寿命を迎えるまで数々の功績を遺した偉大なる人物だ。今は我儘で大きな子どもにしか見えなくとも、彼は必ず後の世で讃えられることとなる。
「なあに、慰めてくれるの?」
「いいえ。会ってそれほど経っていないわたしの慰めなんて、貴方は必要としてないでしょうから。……事実を言ったまでです」
「冷たいなあ」
「これが契約だと言ったのは、貴方でしょう?」
契約相手を心配するのは、自分に不利益が生じそうになる時だけで良い。契約内容さえ満たしてくれれば、彼の感傷など気にすることではなかった。
「まあ、そうなんだけどね。でも、せっかく一緒に暮らしているんだから仲良くしたいよ」
微笑んで口にしたディートリヒに、失笑が零れ落ちた。
「仲良くする気がないのは、貴方の方だと思います。そんなに白々しい笑みを浮かべて」
建前と嘘ばかり溢れた環境で育ってきたエデルからしてみれば、彼の微笑みの不自然さは明らかだった。あまりにも、その笑顔は美しく完成され過ぎているのだ。それは本心を悟らせないための鎧だ。
ディートリヒはわずかに目を丸くしたあと、前髪をかきあげた。
「……参ったな、皆、笑えば騙されてくれるのだけど」
背筋が粟立つような美貌の男で、彼自身、そのことを自覚している。微笑めば周りがどのような反応をするか知っていて、存分に利用して生きてきたに違いない。
「極端な話だけど、その身に刻まれた魔術があるなら、僕は君が死体でも構わないんだ。思ったよりもずっと使えたから、そんなつもりはないけれど」
眉をひそめてしまうことを平然と言い放ち、ディートリヒは肩を竦めた。それはエデルに何ら興味を抱いていない彼の本心なのだろう。酷く冷淡に聞こえるが、取り繕って優しいふりをされるよりは良かった。
――四百の夜を超えて、月の光が導く朝で、花は朝焼けに咲く。
「その魔術なんですけど……、一年後、わたしは元の時代に戻れるんですよね。この時代に取り残されたりはしませんよね?」
胸の内に抱える不安を口にすると、エデルの問いが意外だったらしく、彼は不思議そうに何度か瞬きをした。
「心配しなくても、君が元の時代に戻るのは確実だよ。本来ならばその時間に存在しない異物を、永遠に留めておく術はないから。――ただ、君が帰る正確な時期に関しては明言できない。おそらく、一年後という話で」
「どういうことですか?」
鍋を火にかけていたエデルは、振り返ってディートリヒに胡乱な眼差しを向ける。
「魔術とは抽象を具象化させる異能のことだよ。分かりやすく言うと、頭の中にあるものを現実に反映させる力。そのためには魔女語による定義付けという過程が必要不可欠なんだ。……他にも色々と条件はあるんだけど、これだけは必須だね」
魔女語による定義付け。
詰まるところ、それはどのようなことを現実に反映させるか言葉に示す、ということだろう。エデルが巻き込まれた時の魔術の場合は、この胸元に刻まれた魔女語こそが定義付けに当たるはずだ。
「思い浮かべた瞬間にそれが現実になるわけではないのですね」
「そんな莫迦げた真似ができるのは神だけだよ。だからこそ、――四百の夜を超えて、月の光が導く朝で、花は朝焼けに咲く。たったこれだけの定義付けで、人間一人を過去に招くことは不可能だ」
彼が魔術について嘘をついていないならば、道理にかなっていることだった。わずかばかりの言の葉では、あまりにも情報が少なすぎる。
「だから、君の身体を調べさせてほしいんだ」
「わたしの身体を、ですか?」
エデルは調味料を適当に鍋の中に振りながら聞き返す。魔女文字が刻まれているのはエデルの身体であるため、調べる必要があるという言い分は尤もだった。
「胸元以外にも魔女文字が刻まれているんじゃないかな。背中や
項は自分では見にくい場所だし、そもそも君は魔女文字を読むことができない」
「仰る通りですね。……でも、何処にも文字なんて刻まれていませんでしたよ」
ディートリヒに言われずとも、エデルは招かれた直後、与えられた部屋で自分の身体を隅々まで
検めている。背や項などの見にくい部位でさえ、鏡を使って徹底的に調べたのだ。
「自分で確認したの? 随分と気が利くんだね」
あまり信用していないのか、彼の声には揶揄するような響きが込められていた。
「信用できないなら、あとで思う存分調べてくださっても構いません。丸裸だろうが何だろうがなってさしあげますよ」
自棄になっているせいもあるのか、必要ならば何をしても構わない気分だった。異性の前で一糸まとわぬ姿になろうが、どうでも良かった。
「……僕が言うのも変だけど、君、少しは恥じらいを持ちなよ。僕が知っている女の子は、そんなはしたないこと言わないんだけど」
「生憎と貴方の知る女の子には相応しくない場所で育ったので」
王城でイェルクと一緒に育てられたエデルを、彼が相手にしてきたであろう箱入り娘たちと同じにしないでほしい。エデルは蝶よ花よと愛でられるために、今日まで教育を受けてきたわけではない。
「結局、新しい手がかりはないんですね」
器に湯気の立つスープを注ぎ、籠にいれていたパンと一緒に彼の前に差し出す。眉をひそめたエデルを見て、ディートリヒは肩を竦めた。
「そうなるね。でも、まだ、こちらに来てから二十日程度だろう? もう少し気楽に構えなよ。帰れないことはないのだから」
気楽に構えることなどできるはずもなかったが、曖昧に頷いて誤魔化した。
帰りたい気持ちに嘘はなく、今すぐイェルクの傍に行きたい。だが、彼がエデルを不要だと思っているならば、帰ったところで何になると言うのだろうか。
――エデルの価値など、イェルクに不要と判断された時点で消え去っている。
「あ、そうだ。今日は朝から外に出るから用意しておいてね」
パンを口に含んだディートリヒは、事も無げに言った。
「……そういうことは、早めに言ってください。もう、朝になります」
窓の外で白み始めた空を指差して、エデルは肩を落とした。
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