第一章 宛名知らずの遺書
夕暮れの美しい日のことだった。
湊が会社を出たとき、まるで夕立のように彼女は降ってきた。
緩く巻かれた茶髪のロングヘア。グレーのパンツスーツは、長身ですらりとした彼女に良く似合う。涼しげな青のアイシャドウは、湊が誕生日に贈ったもので、会社でもプライベートでも良く使ってくれた。
「みなと」
花弁のように可憐な唇に、名を呼ばれた気がした。
湊の親友は、地面に落ちる直前、まるで花開くように笑ったのだ。此の世でいちばん愛しい人に向けるような、とても幸せそうな笑顔だった。
あれは夕暮れの美しい日のことだった。彼女は潰れて、太陽よりも赤い血だまりとなった。
1.
四年勤めた会社を辞めたのは、春の足音がする、三月の終わりのことだった。
最後の一か月は、有給休暇として消化した。退職の挨拶に伺ったとき、湊のデスクは綺麗に片付けられていたと思う。眉間に皴を寄せた上司や、気づかわしげな同僚と何を話したのか、もう憶えていなかった。
つい先日のことなのに、頭のなかが霧に包まれたように、すべてが遠く感じられる。
「ただいま」
二両編成の電車を降りて、《
小さな駅には自動改札もなく、久しぶりに買った切符を駅員に渡す。あらかじめ頼んでいたタクシーに乗って、木枯(こがらし)総合病院、と行先を告げた。
車窓から見えるのは、喧騒のない穏やかな町だ。人口二万弱、その情報も十年前のものなので、今はもっと減っているかもしれない。
町並みはそれなりに変わったが、坂道が多く、高低差のある地形は変わらない。
十五歳のとき町を離れて、十年近く経った。今さら故郷に帰るとは思わなかった。
十分もしないうちに、タクシーは木枯総合病院に着く。複数の自治体の基幹病院でもあるため、長閑な町には不釣り合いなほど大きい病院である。
十年前は古くて雰囲気のある病院だったが、ずいぶん小綺麗になった。どうやら外壁を塗り直したらしい。
目当ての病室には、ベッドで上半身を起こした老女がいた。他の患者は検査中なのか、病室には彼女だけ残されている。
「おばあちゃん」
祖母である遠田
「湊ちゃん?」
幼い頃に亡くなった母の代わりに、湊を育てたのは祖母だった。そんな彼女は、十年ぶりに顔を合わせる孫娘の名を、昨日も会ったかのように呼ぶのだ。
「何処のお嬢さんかと思ったわ。綺麗になったのね。素敵な恋でもした?」
「残念だけど、素敵な恋はひとつもありませんでした」
短大に通っていた頃、バイト先のカフェに仲の良い後輩がいた。二つ年下の美大生だった彼は、明るく思いやりのある青年だった。こんな湊のことを慕って、バイトを辞めるときは好きだとも言ってくれた。
しかし、どうしても恋愛対象として見ることができなかった。顔を合わせる度に、いつだって昔の恋人と比べてしまった。
「湊ちゃんは、今でも
凪。その名前に胸が痛む。祖母の言うとおり、いまも彼が好きなのだ。
彼よりも綺麗な人はいなかった。彼よりも湊を分かってくれる人はいなかった。そんな風に過去にすがって、癒えない傷のように、昔の恋を捨てられずにいる。
「ごめんなさい、ずっと帰らなくて」
「良いのよ、湊ちゃんの人生だもの。元気でいてくれるなら、何処で、どんな風に生きても。……でも、なんだか疲れた顔ね。ちゃんと食べて、ちゃんと眠っている?」
湊は目元に触れる。コンシーラーで隠しているが、まともに眠れず、黒ずんだ隈がとれない。食欲もなく、貧血のせいか身体は鉛のように重たかった。
「いろいろあって、少し疲れてしまったんです。……ねえ。どうして、帰って来て、なんて言ったんですか?」
故郷を離れた十年間、必要最低限の連絡しかとらなかった。祖母のことも、町のことも知らない振りをして、意地を張って、遠く離れた場所での生活を続けた。
「そうねえ、しばらく入院することになったから、家の管理をしてほしかったの。湊ちゃんは、私の我儘で帰ってきたのよ。仕方なく」
それは湊の心を軽くするための嘘だった。あくまで自分の我儘で呼び戻した、と祖母は優しい嘘をつくのだ。
とある出来事から、精神的に不安定になって、会社に行くことができなくなった。どうすれば良いのか分からなくて、恥知らずにも祖母に連絡をとった。
十年も帰ることのなかった湊に、帰ってきてほしい、と祖母は言ってくれた。
十五歳のとき、高校進学のために町を出た。思い出も何もかも捨てたつもりだったが、結局、湊の帰る場所はこの町しかなかったのだ。
うつむいた拍子に、ベッドサイドで置かれた新聞が見えた。わざわざ取り寄せたのだろうか。このあたり新聞ではなく、東京の地方紙だ。
『■■製菓。飛び降り自殺』
湊が見出しを読んでいることに気づいたのか、祖母は新聞を仕舞う。■■製菓は、つい先日まで、湊が働いていた会社である。
「長旅で疲れたでしょう? 暗くならないうちに、今日は帰ったら? はい、
祖母の掌には実家の鍵があった。幼い湊がつけたクラゲのキーホルダーが、当時のまま飾られている。
「ずっと不思議だったんですけど。どうして、海月館なんですか?」
祖母の家は、高台にある古めかしい洋館だ。十年前まで一緒に住んでいたが、海月館という呼び名の意味は知らなかった。
町で語られる
「きっとすぐに分かるわ。おかえりなさい、湊ちゃん」
祖母は笑っているのに泣いているような、そんな顔をしていた。
木枯総合病院を出て、夕空の下を歩く。
病院と海月館は同じように高台にあって、入り組んだ坂道で繋がっている。子どもの頃に何度も通った道を、湊の身体は覚えていた。
やがて小さな教会と、その傍にある石段が見えてくる。長い石段をのぼって、頂上にある古びた鳥居をくぐれば、赤銅色の瀟洒な洋館が迎えてくれた。
お伽噺に出てくるような、何処か浮世離れした館だ。此の世のものではないような、そんな不思議な雰囲気があるのだ。
「……、え?」
玄関扉は、鍵をまわす前から開いていた。
恐る恐る扉を押すと、薄闇に青白い光があった。電球ではなく、円柱状の水槽から零れる光だ。
水槽をたゆたうのは、花嫁のヴェールにも似たクラゲたち。青白い触手を絡め合い、交わり合う彼らは、月明かりのように輝いている。
あたりを見渡しながら、水槽に近寄る。
小さな図書館。そんな印象を受ける書庫だった。出窓のある面を除き、部屋の壁すべてが本棚になっており、びっしりと本が収められていた。
十年前、祖母と暮らしていた頃は、このような空間はなかったはずだ。
「おかえり」
男の声がした。少し掠れて、独特の響きがある声だった。
水槽の向こうにある長椅子に、男がひとり座っていた。
男は、海の底ような、暗く深い青の瞳をしていた。日本人にしては珍しいその目が、子どもの頃から苦手だった。すべて見透かされて、彼の前だと些細な嘘もつけなくなるのだ。
咽喉が渇いて、金縛りにあったかのように瞬きすらできない。
ずっと忘れることができなかった男だ。
高校進学のために町を出たときも、短大から就職したときも、仕事を辞めて故郷に戻った今でさえも、彼のことが頭から離れなかった。
あたたかで優しい思い出としてではない。
まるでためらい傷のように、何度も痛みと一緒によみがえる記憶だった。無残にも散った初恋は、決して癒えることない傷となった。
「
故郷を出てから十年近く、それなりに町並みは変わり、祖母も老いた。しかし、この男だけは十年前と変わらない。
時間の流れに逆らうかのように、
あの頃と違って眼鏡をかけているが、あいかわらず人形のように整った貌をしている。
長い睫毛に縁どられた目は大きく、もうすぐ三十とは思えないほど可愛らしい。色白で背が低く、痩身であるためか、どこか少年のようでもあった。
四つ年上のハトコであり幼馴染。そして、十年前に付き合っていた人は、あの頃と同じ顔で笑っていた。
「どうして、凪くんがいるんですか」
心臓を握りつぶされたかのように、ひどく胸が痛かった。
「同じ質問を返すよ。どうして、町にいるの? 逃げるように出て行ったくせに」
「館の管理をするために戻ってきたんです。誰も住まなくなった家は傷むでしょう? おばあちゃんが入院したから、家の世話をしないと……っ、凪くんがいるなら、帰ってきませんでした!」
「ああ。潮さんの代わりって、湊だったの? 俺もここに住んでいるから、今日から二人暮らしだね」
「ホテル探してきます」
「ふうん、潮さんの気持ちを無駄にするんだ? あの人、病気してから、ずっと体調が悪いのに、君のために住む家まで用意して。――本当だったら、湊なんて石を投げられてもおかしくないのにね。ろくに連絡もとらず、十年も戻らないで」
「……っ、それは! ねえ、凪くんだって嫌でしょう? わたしと一緒に住むなんて。わたしのこと嫌いなんですから」
「潮さんが良いなら、俺が嫌がる理由はないけれど」
十年前に別れた恋人など、凪にとって大した問題ではないらしい。もう湊には興味もないから、同居人が増えたところで嫌悪感もないのか。
凪は穏やかに微笑んでいる。彼が何を考えているのか分からなくて怖い。
湊は拳を握って、荒れくるう感情を抑えようとした。
この夏で二十五歳になる。子どもの頃と違って、それなりに感情を取り繕うこともできるはずだ。これ以上、凪の前では動揺したくなかった。
「……凪くん、まだ木枯町に残っていたんですね。出て行ったと思っていました」
「両親や兄さんは、もう町にはいないけどね。俺だけ残っているんだ。この町には潮さんもいるし、あの人は俺にとっても祖母みたいなものだから」
湊と凪はハトコにあたる。湊の祖母と、凪の祖父が兄妹なのだ。
遠田家は古くから木枯町に根づく家だが、親族はわずかしか残っておらず、必然的に距離は近くなる。祖母は実の孫のように凪を可愛がり、湊と凪も家族のように親しかった。
いつも凪を追いかける湊を、金魚の糞、と言ったのは凪の兄だった。
「いまは何をしているんですか。体調は? 働けるくらいになったんですか?」
「体調は見てのとおり、もう病院の世話にもなっていないよ。仕事は、……強いて言うのなら、遠田の家業になるのかな」
「家業?」
遠田の家に、家業と呼ばれるような仕事はない。定年前の祖母は町役場の職員であり、凪の両親もごく普通の会社員だったはずだ。
「すぐに分かるよ。夜が来るから」
直後、古びたドアベルの音がして、湊は振り返った。しかし、ベルの音に反して、扉はかたく閉ざされたままだった。
「いらっしゃい」
凪の声は、湊の隣に向けられていた。
いつのまにか、人影があった。
明るい茶髪の女性だ。緩く巻いたロングヘアが、ほっそりとした首筋に流れている。ルージュの塗られた唇は艶やかで、思わず視線が釘付けになる。
グレーのスーツが良く似合う、涼やかな目元の美人だ。
「
背筋が粟立つ。乱れた心臓の音が、身体中に響いた。
どうして、彼女がここにいるのか。
菜々はクラゲの水槽を眺めながら、ゆっくりと首を傾げた。そうして、思い出したように唇を開く。
「手紙を届けてほしいの。とても大事な手紙だから」
耳に心地よいアルトの声まで、湊の親友と同じだった。
ほとんど無意識のうちに、湊は彼女の肩を掴んだ。掴むことができてしまって、湊は床に崩れ落ちた。
長椅子にいる凪が、おかしそうに肩を揺らす。
「可哀そうに。夢だと思いたい?」
生々しい感触が手に残っている。いま触れた菜々の身体は、血の通った生身のようだった。そんなことはあり得ない、と誰よりも分かっているのに。
「……だって。だって、菜々は」
湊が務めていた会社の、四つ年上の先輩。社員寮で同室だった彼女は――。
「菜々は、もう
燃えるように赤い、夕焼けの美しい日のことだった。
会社を出た湊の前に、夕立のように彼女は降ってきた。十階建てのビルの屋上から飛び降りた彼女は、地面に落ちる直前、まるで花開くように笑ったのだ。
――みなと。
名を呼ぶ甘い声が、脳髄を揺らす。
堪らず、湊は嘔吐する。
震えが止まらなくて、情けない悲鳴が零れる。
ここにいる菜々の横顔は美しいが、その顔が潰れてしまったのを見た。夕焼けよりも真っ赤な血だまりと、ぐしゃぐしゃになった彼女の遺体を忘れもしない。
まぶたの裏に、脳の奥にこびりついて、繰り返し夢見る最期だった。
「そうだね。
「なら、あれは? あの人は誰ですか⁉」
湊は叫んだ。悪い夢を見ているかのようだった。
「ここは
凪は唇をつりあげて、まるで悪魔のように笑った。
湊はすがるように親友を見つめる。しかし、彼女は湊の視線に気づくことなく、そっと水槽に額を寄せるだけだった。
瞬間、視界が暗闇に染まる。冷たい海へ沈むように手足が動かない。
遠くに淡い光があった。それは幾千、幾万のクラゲたちだ。夜に灯された道しるべのように、彼らは白く美しい肢体を揺らしていた。
●〇〇●〇〇●
インターフォンが鳴って、あたしは慌てて扉を開ける。
「遠田湊です。今日から、よろしくお願いします」
短大を卒業したばかり、この春から社員寮で同室となる女の子は、そう言って頭を下げた。
一度も染めたことのないような艶やかな黒髪に、何処かあどけなく、少女のような面差しは、あたしとは正反対だった。
けれども、不思議と、この子となら上手くやっていけるような予感があった。
小さなキャリーケースひとつ。たったそれだけしか私物を持ってこなかった彼女は、きっと大切な物をぜんぶ捨てて、何処かから逃げてきた子だから。
「三上菜々です。あなたの四つ上。よろしく」
ずいぶん昔、故郷を出たときの自分と、その姿が重なった。この子はきっと、遠い日のあたしと同じだ。
2.
三上菜々と出逢ったのは、湊が入社してすぐのことだった。
背が高く、モデルのように綺麗な女性だった。
四つ年上で、部署も異なる彼女と親しくなったのは、社員寮で同室だったことが大きい。二人とも木枯町出身という嘘みたいな偶然も重なって、会社の誰よりも仲が良かった。
昼休みは二人で食事をとり、プライベートでも毎週のように出かけた。互いに家族と疎遠になっていたので、本当の姉妹のように過ごした。
だからこそ、菜々の死が耐えられなかった。
どうして、彼女はたった二十八歳で命を絶ったのか。
「大丈夫?」
湊は薄っすら目を開いた。いつのまにか長椅子に座らされていた。
眠っていたのか、あるいは気絶していたのか。どちらにせよ、薬に頼ることなく意識を失ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
眼前で、凪がひらひらと手を振っている。
「いきなり倒れるから驚いたよ。貧血? 睡眠不足? どちらもかな」
気を失う前、頭のなかに無数のクラゲが浮かんでいた。冷たい海に沈むような感覚のあと、懐かしく、不思議な光景を見た。
あれは、菜々の記憶なのだろうか。大学を卒業したばかりの湊が、自己紹介をして、頭を下げていた。
「菜々は?」
書棚に囲まれた空間に、もう菜々の姿はなかった。
「また何処かをさまよっている。海月館に死者が現れるのは夜だけだから」
「……死者。でも、わたし菜々に」
「触ることができた? ここが特別な場所だから、形を与えられるだけ。べつに生き返ったわけではないよ」
「幽霊みたいなものだって、言いたいんですか?」
「幽霊なんて可愛いものじゃないけれど。湊は、そういうの苦手だったね。俺の見舞いで病院に泊まると、いつも勝手にベッドにもぐりこんで。あとで潮さんや看護師さんに叱られて大変だったよ」
「茶化さないで。本当に、あれは菜々なんですか?」
凪は水槽を揺蕩うクラゲを指差した。
「
「この町で知らない人間がいると思いますか?」
それはこの町にだけ息づく、神様のことだった。
港町である木枯町は、昔から海神を信仰してきた。繰り返し語られる海神の物語は、町で育った人間にとって、最も身近な神話である。
「クラゲの姿をした神様。わたしたちを産んだ母、還る場所」
木枯町の海神は、美しいクラゲの姿をしていた。
彼女は命を生む女神であり、死んだ魂を導く死神でもある。
夜になると海面に明かりを灯し、さまよえる死者の魂を安らかな場所に導く。安らかな場所が何処なのか知らないが、いわゆる天国のような土地、と想像している人間が多いのだろう。
昔から、この町は海の不幸が多い。どれだけ防災対策を講じても、覆すことのできない運命のように、何十年かに一度、必ずたくさんの人々が犠牲になる。
その度に、人々は海神に祈ってきた。海に攫われて戻らなかった人たちの安寧を。
その祈りは、やがて海神の教えとなり、死者すべてを悼む信仰となったのだ。この町は今も昔も神話と共にあった。
「神様はいると思う?」
「新興宗教の教祖にでもなるつもりですか。凪くんにぴったり、うさんくさいから」
「新興宗教も何も、昔から遠田はそういう家系だよ。木枯町の海神を祀り、海神の神託を受けた巫女の血筋だ。海神の手足、海神の
「ばかにしているんですか?」
「なら、
湊は唇を噛んだ。昨夜、たしかに菜々は海月館にいたのだ。四年間、誰よりも近くにいた親友を見間違うことはない。
「死んだ人が、海神のもとに導かれるなら。……菜々だって、きっと。さっきのが夢でも、夢でなくても。ちゃんと海神のもとに還ったんでしょう?」
菜々の御霊はすでに海神の御許で眠っている。今さら湊にできることはない。
凪は首を横に振った。
「ほとんどの死者が、死んだときすべて忘れてしまう。記憶も想いも忘れて、空っぽになることで海神の御許に還れるんだ。……でも、たまに現れる。どうしても忘れることのできなかった後悔があって、さまよう人が。彼らを海神のもとに導くのが、俺の仕事」
「菜々に、どんな後悔があるっていうんですか?」
凪はタブレット端末をとって、通信用アプリを開く。そのままクジラのアイコンをタップすると、誰かとのトーク画面が現れる。
メッセージはなく、ただ複数のURLが張り付けられている。凪は、そのうちの一つを開いて、湊に見せてきた。
今年の真冬、東京の地方新聞に載せられた記事だ。
「二月十四日。東京都郊外にあるビルの屋上から、女が飛び降りた」
関東地域を中心に展開する中堅の製菓会社――■■製菓の本社ビルから、女性職員が飛び降りた。警察は自殺として片づけ、報道でもそのようになっている。
三上菜々。
湊の親友は、屋上から飛び降りて、その短い命を散らした。目の前で、赤い血だまりとなってしまった。
彼女の最期が脳裏をよぎって、薬なしでは眠ることもできなくなった。日常生活を送ることも困難になり、彼女の自殺から程なく、湊は退職した。
湊は故郷に帰ってきたのではない。親友の死から逃げてきたのだ。
「菜々の自殺が、菜々の後悔と関係が?」
「だから、死後も彼女はさまよっている」
あれほど悲惨な最期を迎えながら、安らかに眠ることも許されないのか。
菜々が死んだとき、会社は不祥事をもみ消すよう沈黙を守った。それに抗議する家族が菜々にはいなかった。彼女の死は蔑ろにされ、都合よく片付けられた。
友人でしかなかった湊は何もできず、すべて終わってしまった。
「凪くんが言っていること、信じられません」
「そうだろうね。こんなオカルト、生きている人間には必要ない」
「けれど。さっきのは、死んだ菜々が迷子になっているって、ことですよね? 死んだ後も、苦しんでいるんですよね」
「迷子、ね。そんな呑気なものじゃないけど」
「菜々が迷子になっているなら、ちゃんと眠れるようにしてあげたいです。……わたしにも手伝わせてくれますか? 凪くんの言う、お仕事」
つい子どものような物言いになってしまったが、言わずにはいられなかった。
今の湊には、凪の仕事が救いのように感じられた。
菜々が自殺するほど苦しんでいたことに気づけなかった。生前の彼女に何もしてあげられなかった負い目が、これで軽くなるのではないか、と思ってしまった。
見殺しにしてしまった彼女を、今度こそ助けることができるかもしれない。
「だめ。いまの君には任せられない」
「どうして? わたし、菜々とは友だちだったんですよ」
凪はゆっくりと首を横に振った。
「今日も潮さんのところ行くの? 午後から検査だから、お見舞いなら午前中にした方が良いよ」
「待って! 凪くん!」
追いすがる湊に応えず、凪は館の奥に消えていった。
木枯総合病院。湊の訪れを予期していたのか、祖母は優しく迎えてくれた。
「海月館に凪くんが住んでいるなんて、聞いていません」
湊は苦虫を潰したような顔になる。
一人暮らしの祖母に代わって、館の管理をする。そういう建前で、湊は木枯町に戻ってきた。同居人がいるとは想像もしなかった。
「ごめんなさいね、てっきり伝えたものとばかり。あの子は遠田の家業を継いだから、海月館にいてくれないと困るの」
「海神のところに、死んだ人を導く?」
あらためて口にすると、うさん臭い話だった。
「遠田はね、海神の神託を受けた巫女の家。もともと海月館のある場所には、海神を祀る神社があったのよ。遠い昔の地震で崩れてしまって、鳥居しか残っていないけれど」
もともと神社があったならば、洋館とそぐわない石段や鳥居も納得できる。凪が話したことは嘘ではなく、たしかに遠田の家は海神と関係が深いのだろう。
「昨日、海月館に人が来たんです」
夢幻と考えた方が、よほど納得できる。しかし、たしかに菜々はあの場所にいた。
「そう。ねえ、湊ちゃんは神様を信じる?」
「たぶん、おばあちゃんの言う神様は信じていません」
正月になれば神社に参拝し、困ったときは神頼みもする。しかし、神が実在するとは信じていない。湊だけでなく、多くの人間がそうだろう。
「凪と同じね。あの子は言ったのよ、神様は《運命》みたいなものだって」
「凪くんが言うと、詐欺みたいですね」
潮は口元に手をあてながら笑う。同じように感じていたらしい。
運命。つまり、神様とは思っていないのだ。海神のもとに死者を送ると言いながらも、凪は神を信じていないのか。
「神様は、私たちをあるべき場所に導くための仕組みなの。意思があるものでも、まして慈悲深い存在でもない。ただ、あるものを、あるべき場所に導くだけ」
凪の言う《運命》とは、あらかじめ定められた、その人が辿るべき道のことだ。
この町の人間は、母なる海神から生まれて、その御許に還る、と定められている。
海神は死んだ者を憐れみ、自らの御許に導くのではない。彼女はあるものをあるべき場所に導く仕組みでしかない、と凪は解釈している。
「昨日、海月館に来たのは、わたしの親友だったんです」
「三上菜々さん? 湊ちゃん、そんなに電話してくれるわけじゃなかったから、よく憶えているわ。珍しいと思ったのよ、お友達の話をしてくれるの」
湊は唇を引き結んだ。そうしなければ、涙が溢れてしまいそうだった。
どうして、彼女は自殺したのか。
死後も忘れられないほどの後悔があるならば、最期は不幸だったのか。ならば、何故、地面に落ちるとき、湊に笑いかけたのか。
後悔があるのは湊も同じなのだ。彼女が死を選んだ理由を知りたい。
いつも一緒だった。他人と距離をとって、抜け殻のように生きていた湊に、たくさんのことを教えてくれた人だった。自分のことを悪く言われても怒らないくせに、湊のためには何度も怒ってくれた。
誰よりも湊を心配して、まるで家族のように心を砕いてくれた。
大好きだった。彼女のことなら何でも知っているつもりだったのに、孤独のうちに死を選ばせてしまった。
「湊ちゃんのお友達は、とても深い後悔があるのね。海月館に来る死者は、みんなそう。海神の御許に還るためには、ぜんぶ忘れて空っぽにならなくてはいけないのに。空っぽにできなくて、さまよっている」
「わたし、神様なんて信じていません。海月館にいたのが、本当に菜々なのかも疑っています。でも、あれが菜々でも、わたしの妄想だったとしても! 菜々のためにできることをしたい」
「凪は、ダメと言ったのね」
「どうして? わたし、菜々のために何もしてあげられなかったんです。きっと苦しんでいたのに、何も気づけなかった。だから、せめて。死んだ後くらい」
「それは、本当に亡くなったお友達のためかしら? ……死んだ人はね、永遠に死んだままなの。その後悔が消えて、海神の御許に行けたとしても、生き返るわけではない。死んだ人のために何かをしても、死んだ人はもう救われないの」
震える湊の手を、そっと祖母が握った。
「遠田さん、遠田潮さん。検査のお時間ですよ」
外からの呼びかけに、腕時計を見る。凪の言っていた検査の時間になったのだ。
病室を訪ねてきたのは、若い男性看護師だ。湊と同年代くらいの青年である。折り畳み式の車椅子を抱えた彼は、驚いたように目を丸くしていた。
「ええと、いつも話してくれる凪さん? ではないですよね。親戚の男の子」
「凪はお留守番なの。この子は孫の湊よ。少し前まで町の外で働いていたのだけれど、私がこの調子だから戻ってきてもらったの。あなたと同じくらいの歳かしら?」
看護師は何か言いたげに頬を指でかいて、一度だけ頷いた。
「同い年です。良かったですね、お孫さんが帰ってきてくれて。遠田さん、同居しているご家族はいらっしゃらないでしょう? ずっと心配だったんですよ」
「あら、ご心配ありがとう。あなたの御実家には、まだお世話になりたくないから。もう少し長生きするわ」
気安い会話に、祖母と看護師の仲の良さが窺えた。それは、彼女がずいぶん前から病院の世話になっている証だった。
「それじゃあね、湊ちゃん。またいつでも遊びにきて」
看護師は祖母を車椅子に乗せて、検査に向かった。病室に取り残された湊は、両手で顔を覆った。
「自分のことばっかり」
車椅子が必要なほど、祖母が弱っていることも知らなかった。同じように、親友だと思っていた菜々のことも、本当は何も知らないのかもしれない。
病院から海月館への帰り道、すぐに凪と顔を合わせる勇気がなかった。湊は遠回りするように、高台の病院から海端へと向かった。
舗装された海岸を歩いていると、たくさんの船が浮かぶ港が見えてきた。木枯町は、東、西、南の三方を海に囲われており、東側には大きな港があるのだ。
鉄道の便こそ悪いものの、大都市に続く高速道路が近くを通っていること、空港からも遠くないこと、いくつかの要因が合わさり、町の大きさに不釣り合いなほど立派な港だった。
「ばか! あれじゃ流れないだろ⁉」
海端の道路で、ランドセルを背負った小学生たちが騒いでいる。彼らは消波ブロックを指差して、ひとりの男の子を責めていた。
「どうしたんですか?」
「こいつ、手紙投げるの失敗したんだよ。宿題だったのに」
消波ブロックには、瓶詰された手紙が引っかかっていた。これを海に投げようとして、失敗したらしい。
「取りに行く! それで良いでしょ⁉」
消波ブロックに降りようとした少年を、湊は慌てて止めた。
「溺れたら危ないです、海は怖いんですから」
「でも」
あからさまに落ち込む少年に、湊は眉を下げた。
「ここで待っていてくれますか?」
湊は消波ブロックに降りて、慎重に屈みこんだ。
ゆるく打ちつける波が近づいて、めまいがした。
いつの頃からか、海やプールに近づくと身体が強張ってしまう。溺れた記憶もないのに、息が苦しくて、冷たい海底に引きずられるようだった。
瓶詰の手紙を拾って、なんとか海へと放り投げる。
「お姉さん! ありがと」
「いえ。届くと思いますか? あの手紙」
子どもたちは不思議そうに顔を見合わせた。
「届くよ。だって、誰かが読んでくれないと、手紙じゃないもん」
相手のいない手紙は存在しない。手紙を書くとき、そこに籠められているのは、届きますように、という願いなのだ。
『手紙を届けてほしいの。とても大事な手紙だから』
昨夜、海月館を訪れた菜々の言葉がよみがえる。
彼女が手紙を探しているならば、それは誰に宛てたものだったのか。
夕方になって、ようやく湊は海月館に戻った。
「おかえり」
書庫の長椅子で、煙草を銜えた凪がタブレット端末を操作していた。
湊は無理やり煙草を取りあげて、近くの灰皿に押しつけた。凪は目を白黒させたあと、自らの唇を寂しそうに指でなぞる。
「ひどいな。人のものを勝手にとるなんて」
「どうして、煙草なんて。お医者さんの許可は貰っているんですか」
子どもの頃から、凪は身体が弱く、入退院を繰り返していた。喫煙など許されるとは思えない。
「心配してくれるの?」
「煙が嫌いなだけです。……ねえ、菜々に会わせてもらえませんか。今夜も海月館に来るんですよね? 菜々が手紙を探しているなら、見つけてあげたいんです」
「それは誰のため? 三上菜々は死んだ。死者は変わることができない。彼女の後悔が消えたところで、その苦しみが、不幸な死が消えるわけじゃない」
心臓を握りつぶされたように、胸が痛む。
病室で祖母が言ったとおり、死者は永遠に死者なのだ。
菜々の魂が海神の御許に導かれたところで、死後も強い後悔を抱くほど不幸だった、彼女の人生が報われるわけではない。
「なら、凪くんは? 誰のために、こんなことをしているんですか」
「自分のため。仕事だよ、こんなもの。死者の安らかな眠りとか、彼らの幸福を祈るとか、そんなもの知らない。
冷たい言葉だった。しかし、やけに強く胸を打った。
「うん。……わたしも、同じ。菜々のためではなくて。わたしは、わたしのために知りたいんです。どうして、菜々が死を選んだのかを」
湊の知らなかった菜々を知ることで、彼女の死を受け入れたい。ただのエゴイズムに過ぎないとしても、そうすることで彼女を弔うことができる。
凪は、今度はダメと言わなかった。
彼はタブレット端末を見せてきた。表示されているのは、地方新聞のネットアーカイブスだった。
「友達に頼んで、いくつか三上菜々の新聞記事を拾ってもらったんだ。連日ではないし、大きくもないけど、わりと定期的に記事があって驚いたよ。三上が死んでから、もう一か月半も経つのにね。まだ新しい記事が出てくる」
「遺書とか、見つからなかったんです。自殺の理由が分からないから、思い出したように取り上げられる。そうじゃなかったら、うちの会社なんて話題になりませんよ」
湊のいた製菓会社は、社員寮などを含めいくつかの不動産は所有していたが、会社の規模自体はそれほど大きなものではない。
遺書も見つからず、自殺の動機も分からない。不可思議な菜々の自殺がなければ、注目を集めることはなかった。
「彼女は手紙を届けたいんだよ。とても大事な手紙を遺したから」
「手紙が、遺書だって言いたいんですか?」
「さあ? けれども、そこに彼女の遺志が隠されているのは間違いない。手紙を見つけて、届けてあげたら、三上はもう迷わない」
「菜々の手紙を、わたしたちが見つけるんですか? どうやって?」
昨夜、菜々は湊の呼びかけに応えなかった。意思疎通どころか、簡単な遣り取りさえできるとは思えない。
「彼女の魂が憶えている、死後も捨てらなかった後悔を。……ほら、夜が来るよ」
昨夜と同じように、古びたドアベルの音がした。
扉も開いていないのに、何処からともなく冷たい風が吹く。いつのまにか、書庫には美しい女性がいた。彼女はヒールを鳴らしながら、あちらこちらを歩きまわる。
やはり湊のことは感知できないのか、視線が交わることはなかった。
ふと、菜々はクラゲの水槽の前で立ち止まった。水槽に桜貝のような爪を立て、彼女はそっと額を寄せる。
「手紙を届けてほしいの。とても大事な手紙だから」
瞬間、湊の意識は暗い海底へと誘われる。息もできないほどの冷たさに襲われて、酩酊したように、天も地も分からなくなった。
ただ、幾千、幾万ものクラゲが、遠くで道しるべのように輝いていた。
●〇〇●〇〇●
深夜のオフィスは薄暗くて、古くさい時計の音だけ響く。
年季の入った事務机、窓際には黄ばんだブラインド。入社したときから所属する経理部のオフィスは、あいかわらず陰気だ。
「もう、終わりにしたいんです」
机に肘をついた男は、苛立たしそうに、あたしを睨みつける。
「今さら何を言うんだ。バレたらクビでは済まない」
「これ以上続けるくらいなら、その方がマシでしょう?」
「誰が、お前を取り立ててやったと思っている。散々良い思いしておきながら、自分だけ今さら善人面か」
「……あなたには、とてもお世話になりました。感謝しています。だから、もう止めるべきです。こんなことを続けたって、いつか裁かれるんですから」
彼は聞く耳を持たなかった。両の手をきつく握り合わせる姿には、職を転々としていた自分を拾ってくれた頃の誠実さはなかった。
もしかしたら、出会った頃に感じていた誠実さなんて、勘違いだったのかもしれない。本当に誠実な人間なら、こんなバカな真似はしない。
「失礼します」
溜息をついて、オフィスを後にする。
――分かってほしい。もう取り返しのつかないことになっていることを。
社員寮に戻って、部屋の鍵を開けると、控えめに電球がついていた。
「ただいま。湊、もう寝ちゃった?」
半分に仕切ったスペース、湊の方を覗き込めば、彼女はぐっすり眠っていた。途中まで帰りを待っていてくれたのか、共有のテーブルにマグカップが二つ並んでいる。
眠る湊は、寝返りひとつ打たない。この頃は繁忙期で、ずいぶん疲れているようだったから、きっと朝まで起きないだろう。
自分のスペースにある引き出しから、レターセットを取って、テーブルに並べた。
青地に白いクラゲが描かれた封筒に、切手を貼った。いまは宛名を書く勇気がなくて、郵便番号まで書いたあと、すぐにひっくり返してしまう。
このレターセットは、都内の水族館に行ったとき、湊とお揃いで買ったものだった。ちょうどクラゲの企画展示をしていた時期で、土産物屋でも特集していたのだ。ふたりして子どもみたいに笑いながら、いろいろなグッズを買いそろえた。
ペンを片手に、湊へ、と便箋に書いては、何度もくしゃくしゃに丸める。書き出しの言葉が浮かばなかった。何を書いても、見苦しい言い訳になる。
スーツのポケットに入れていたスマートフォンが着信を告げる。
表示された苗字に、あたしは目を伏せた。
オフィスで別れたばかりの上司の名前。四十代半ば、経営者の一族で、親族だからこそ、若い頃からずっと経理部長を務めている。
こんな時間に部下の女に連絡するくらいなら、家に帰って、奥さんと娘さんの顔でも見ていれば良いものを。
スマートフォンの電源を落とす。画面が暗くなる直前、二月十日の文字が見えた。とうに日付を越えていたらしい。
丸めた便箋を見渡して、それから覚悟を決めるように、強くペンを握った。
「ごめんね、湊」
今度は便箋を丸めることはなかった。
『湊へ。この手紙があなたのもとに届いたなら、あたしはもう隣にはいないと思う』
背後で、小さな寝息がする。家族のように、本当の妹のように思っていた。でも、きっと、もう湊と一緒にいることはできない。
●〇〇●〇〇●
冷たい掌が、そっと頬を撫でた。無意識のうちに、その手に指を絡めてしまう。
「大丈夫? ずいぶん深くまで引きずられていたみたいだ」
凪の声に、湊の意識はようやく現実に戻ってきた。
「いま、の」
「記憶のかけらだね。死んだらぜんぶ忘れて、海神のもとに還るのに。三上みたいに後悔があると、それに関係する記憶だけ断片的に憶えている。遠田の人間は、その記憶を追体験することで、死者の後悔を探る」
つまり、さきほど湊が体験したのは、菜々の記憶なのか。
さきほど、彼女の記憶では、スマートフォンの日付が二月十日となっていた。菜々が飛び降りたのは二月十四日、バレンタインの日のことだ。
手紙を書いていたのは、彼女が死ぬ三日前のことなのだ。
「菜々、手紙を書いていました」
「君に宛てた手紙だったね。貰っていないの? 三上から手紙」
「いいえ、何も。手紙を書いていたことも、はじめて知りました。……遺品にあったのかどうかも、分かりません」
菜々が死んだとき、遺体を引きとったのは従兄弟にあたる男だったという。
彼女の両親とは連絡がつかず、仕方なしに親戚が対応したのだ。従兄弟によって菜々の私物は処分され、血縁でもない湊のもとには何一つ残らなかった。
菜々の死から、しばらく病院にいた湊は、すべてが終わってからそれを知った。
水槽の前に立った菜々を見る。彼女はもう一度、水槽に額を寄せた。
●〇〇●〇〇●
淡い花柄のカーテンが揺れている。
こだわりのない湊に代わって、カーテン等の共有のものを選ぶのは、いつだってあたしの役目だった。
「菜々。聞いていますか?」
半分に仕切った、湊のスペースにはベッドと収納棚しかない。あたしが送った化粧品、香水、キャンドルなどが、やけに浮いていた。
出会ったときから、この子はそうだった。人や物への執着が薄くて、どこかぼんやりと生きているような、そんな危うい雰囲気があった。
「なあに? 明日の中華なら、もう予約したけど。バレンタインに中華ってどうなの? 湊と外で食べるの久しぶりだから、楽しみだけど」
「中華は楽しみですけど、そうじゃなくて。今日、どうして会社休んだんですか? 経理部長、心配して、わたしのとこにまで来ましたよ。体調不良ってことにしましたけど、無断欠勤になるところだったんですから」
いまだにスーツ姿の湊は、部屋着のあたしを見て、眉をひそめた。怒っているのではなく、心配してくれているのだろう。
「上手くやってくれたのね。ありがと」
「勝手に休んだりするの、良くないですよ。その、変なうわさも流れているのに」
うわさ。心当たりは十分にあった。
「いちいち気にしていたら会社なんて行ってられないもの。堂々としていれば良いのよ。不倫なんてしていないんだから」
唇からは、するすると言葉が飛び出た。しかし、後ろ手では、爪が食い込むほど強く拳を握っていた。
「本当? でも、個人的な連絡先も交換していますよね。たくさん電話かかってきました、菜々が寝ているとき」
同室なので、互いの私物が混ざることもある。湊のことだから、意図的にあたしのスマートフォンを見たわけではないだろう。
しかし、今回ばかりは流すことができなかった。
「信じられない。勝手に見たの?」
「……寝ぼけていたから、自分のと間違えたんです。勝手に見たのは、すみません。でも、疚しいことがないなら問題ないですよね?」
「ああ、そう。あたしのこと疑っているの。不倫しているって思いたいなら、どうぞ。そんなことしていないけど」
自分でもぞっとするくらい冷たい声だった。たいしたことない、湊は心配してくれているだけと分かっている。
そう思うのに、うまく笑うことができなかった。ひどく傷つけられてしまう。きっと、あたしは湊にだけは疑われたくなかったのだ。
――屋上の風に吹かれながら、そんな風に、あたしは昨夜のことを思い出した。
「どうして、言うことを聞いてくれないんだ」
男は額に青筋を浮かべて、詰るように言葉をぶつけてきた。けれども、あたしは少しも傷つかなかった。
だって、この人は、あたしの大切な人――湊ではない。
世話になった。恩義もあった。だけど、この人はあたしを必要としていたのではなく、ただ使い勝手の良い駒が欲しかっただけ。
黙って睨みつけると、相手は怯む。
「もう終わりにしましょう」
そう言った次の瞬間、あたしの身体は屋上から突き飛ばされていた。
真っ赤に染まった夕焼け空が、炎のように美しかった。
思わず伸ばした手の先では、塗りなおしたばかりのネイルが光っていた。
屋上の低いフェンスの向こうに、焦ったような人影がひとつ。
十階建てのビルの屋上から落ちて、助かるとは思えない。けれども、頭からつま先にかけて駆け巡ったのは、恐怖よりも先に、言葉にできない安心感だった。
地面に落ちる直前、目を丸くした若い女と視線があった。癖のない黒髪に、左目の下の泣きボクロ、年齢のわりに童顔で少女めいた姿が好きだった。
何の疑いもなく、一心に慕ってくれた。実の家族よりもずっと大事にしてくれた。彼女に必要とされたとき、生まれてはじめて、息ができたような気がした。
だから、彼女に恥じない自分でいたかった。汚れているのが嫌だった。
「みなと」
その声は、音になったのか。
それさえも分からず、すべては消えてしまった。
●〇〇●〇〇●
床にうずくまって、湊は両手で顔を覆った。
落下していく身体、死の間際に見えた湊の姿。あれはまさしく、菜々が死んだときの記憶だった。
「菜々」
それからのことは、もう何度も思い知っている。
喧嘩別れした親友は、もう二度と湊に笑いかけてはくれない。
「喧嘩の原因は、なんだったの?」
凪が出窓のカーテンを開けた。すっかり夜が明けて、まぶしい朝日が飛びこんでくる。館内には、もう菜々の姿はなかった。
「菜々は、入社してからずっと経理部にいたんですけど。そこの上司と関係があるって、うわさがあって。菜々は否定していたから、ずっと何も言いませんでした」
証拠があったわけではない。だが、実しやかに囁かれた悪意あるうわさだった。
「でも、あのとき問い詰めた?」
「亡くなる数カ月前くらいから、菜々、急に付き合いが悪くなったんです。前までは、いつも一緒にいたから、不倫なんてしていないって信じられました。けど、予定が合わなくなって、菜々が何をしているのか分からなくて……」
「そんなとき、三上のスマホに上司から電話があった。だから、焦った?」
「不倫しているなら止めないとって、思ったんです。良くないことだから」
「湊が不倫を良くないって思うのは勝手だけど。君には関係ないよね? 外野が下手に首を突っ込むと、ろくなことにならないよ」
凪の言うとおりだ。実際、事実関係を確認せず、不倫していると決めつけて、菜々と口論になった。そうして、彼女は死んでしまった。
「わたし、きっと菜々を傷つけたんです。もしかしたら、そのせいで菜々は」
彼女が死を選んだ理由は、いまだ明らかになっていない。湊との喧嘩が引き金となっていたとしても不思議ではなかった。
「ばかなことを考えて、自分を責めるのは止めた方が良いよ。三上菜々は殺されたんだよ。思いっ切り突き飛ばされたくせに、もう忘れたの?」
凪は呆れたように、湊の肩を強く押した。落下するときの浮遊感を思い出して、湊は思わず口元を押さえる。
たしかに、菜々は何者かによって突き落とされていた。
「どうして? 菜々が殺される理由なんて」
「三上の手紙、受け取りに行こうか。きっと、すべて分かるから」
湊は一度だけ目を伏せるから、覚悟を決めるように凪を見あげた。真実を知りたい、知らなくてはいけない。
3.
菜々が生きているとき、都内にある水族館に行ったことがある。
「綺麗」
クラゲの企画展示をしていた時期だった。有名な写真家とコラボレーションした展示で、いつもは水族館に来ないような客も多かったことを憶えている。
「知っている? クラゲって、クラゲのエサになるらしいの。ほら、あのミズクラゲっていうのかな。白くて柔らかそうな」
華やかな写真とクラゲの対比に夢中になっていたとき、ふと菜々が零した。
「普通のクラゲですか?」
おそらく、クラゲと聞いて真っ先に思い浮かべる種類だ。
企画展には珍しいクラゲも多く展示されているが、世間一般で言うところのクラゲは、透けるように白い、あのクラゲを意味する。
「そう、むかし何かの本で読んだんだけど。水族館でミズクラゲを繁殖させるのは、他のクラゲの餌にするためでもあるみたいなの。……はじめから食べられると決まっていて、エサにしかなれないなら。そんな命、生まれた意味なんてあると思う?」
「クラゲ、嫌いなんですか?」
「綺麗だから好きよ。でも、木枯町のことを思い出してしまうから苦手」
湊は水槽に手をかざして、そっと目を伏せる。
「わたしも、ちょっと苦手です。クラゲみたいな人を思い出すから」
クラゲの生態や分類、難しい話までは分からない。ただ、クラゲを眺めることが好きで、姿かたちや名前ばかり覚えてしまった。
苦手なのに好きで、気がかりなのは、クラゲを見ると、ある男を思い出すからだ。
遠田凪は、湊が知る誰よりも美しい少年だった。そして、手を伸ばしてもすりぬけていくような、気まぐれで掴みどころのない人でもあった。
湊の我儘を叶えて、世界でいちばん大切な姫君のようにあつかってくれたが、その実、湊のことはお気に入りの玩具程度にしか思っていなかったのかもしれない。
いつも心のうちに毒を抱えて、儘ならない現実に打ちのめされていた人だった。
病弱で不自由ばかり強いられた彼は、世の中に溢れるたくさんのものに怒っていた。穏やかそうな面差しに、激しい憎悪を隠して笑っていた。
そういった凪の本質を知っていたのは、おそらく湊だけだ。湊以外の誰か――実の両親や兄の前ですら、彼は弱さを曝け出すことができなかった。
健康な身体で駆けまわる湊を、時折、親でも殺されたかのように憎んで、容赦ない言葉の刃で痛めつけた。その度に、凪はきつく眉を寄せた。湊を傷つける彼の方が、よほど痛くて苦しそうだった。
だから、差し出せるものがあるならば、すべて差し出した。
それが凪のためになると信じていた。何もかも凪のために捧げなければ、彼に嫌われてしまうとも恐れていた。
あの頃の湊は、彼に嫌われたら生きていけない、と本気で思い込んでいた。
「たまに話してくれる、元カレさんのこと?」
「……はい。そう、なるんですよね、きっと」
彼氏と呼んで良かったのか、いまだに悩むことがある。ただ、湊の人生において恋と呼べるものがあったならば、凪への気持ちだけだった。
呪いのような初恋が、最初で最後の恋だった。
「忘れろって言っても、忘れられないのよね? でも、もう良いんじゃないの。苦しんだりしなくて」
菜々は、まるで慰めるように湊の手に触れた。
「苦しむ?」
「湊の事情は知らないけど、あたし、あんまり身内に恵まれなくて。親も親戚も恨んだし、幸せそうな子たち見ると殺してやりたいって、ずうっと思っていたけれど」
湊は驚いた。普段の彼女は、後ろ暗い感情を口にしない。誰かを羨み、憎むような感情からは縁遠い女性だと思っていた。
「でもね、あたし、今は不幸だなんて思わないの。ぜんぶ必要なことだった。苦しかったことがあったから、今があるんだって思っている。……だからね、その最低な男のことは、忘れなくても良いけど、終わったことにしなさい。いまの幸せのために必要な苦しみだったってことで納得するの。ね?」
胸が詰まって、湊は何も言えなかった。隣にいる親友は、とても強い人だった。湊もいつか、何もかも無駄ではなかったと思えるだろうか。
置き去りにした初恋を、本当の意味で終わらせて。あの恋は無駄ではなく、必要な恋だった、と笑えるだろうか。
「菜々は、どうしてそう思えるようになったんですか?」
「だって、湊と会えたから」
菜々は唇をつり上げて、まるで少女のように笑った。
●〇〇●〇〇●
今日の木枯町は、風も波も穏やかで、雲ひとつない晴天だった。町を歩くにはちょうど良い気候である。
「三上が手紙を書いているとき、封筒に郵便番号を書いたの憶えている? あれは木枯町のものだった。彼女はこの町へ手紙を送ったんだ」
湊は思い出す。封筒に宛名はなかったが、凪の言うとおり郵便番号だけは記されていたのだ。
「そんなところまで見ていたんですか」
見えたとしても一瞬だろうに、よく憶えていたものだ。
「忘れっぽい湊と違って、記憶力は良いんだよ。三上は木枯町の生まれだから、手紙を送ったとしたら実家だろうね。俺が学生の頃だと、この町って、まだ個人情報の保護も緩いから助かる。ねえ、渡したもの出してくれる?」
湊は頷いて、出かける直前、凪から渡された封筒を取り出した。中身は小冊子で、木枯中学校一年二組住所録と印字されていた。
「同級生だったんですか? 菜々と」
木枯町は、そう大きな町ではない。いまは私立の中等部が設立されているが、凪や湊が学生だった頃は、中学校は公立のもの一つだった。
凪と菜々は同い年なので、必然的に、二人は中学の同級生になる。
「まともに話したことはないよ。でも、悪目立ちする女だったからよく憶えている」
「凪くんにだけは言われたくないと思いますよ」
今も整った顔をしているが、少年時代の凪は天使のように愛らしかった。何処にいても目立って、まるで誘蛾灯のように、子どもも大人も引き寄せていた。
「それは、どうだろう? 俺、あまり学校には行けなかったから。……三上ね、いつも悪いうわさが流れていたよ。あまり良くない両親だったみたいだ。三上も家に居場所がなかったのか、夜に出歩いているのを補導されたりもしていた」
「菜々、両親と色々あったみたいで、中学を卒業してすぐ木枯町を出たんです。ずっとバイトしながら転々として、うちの会社も最初はバイトで入りました。お世話になった人に引き立ててもらって、正式な社員になったんです」
「引き立てたのが、不倫のうわさがあった人?」
「はい。だから、いつまでも悪いうわさが消えなくて」
住所録をもとに、ふたりは菜々の実家を目指す。いくつかの坂道をくだってはのぼり、しばらくすると白壁の建物が見えてきた。
「ここが、菜々の実家ですか?」
年季の入ったアパートだった。部屋番号ごとに並べられた集合ポストには、大量のチラシが詰められており、住人たちは郵便物も確認しないらしい。
「二〇三号室だね。ポスト開けてくれる?」
「勝手に開けて良いんですか?」
ためらいながら、湊は二〇三号室のポストを開ける。そこには、菜々の記憶にあったクラゲの封筒があった。
丁寧に糊を剥がすと、封筒と同じデザインの便箋が現れる。
湊へ。
この手紙があなたのもとに届いたなら、あたしはもう隣にはいないと思う。
まずは、謝らせてほしい。あたしは、あなたが思うほど立派な人間でも、正しい人間でもなかったことを。
十九歳のとき、バイトから正規職員になって十年が経ちました。あたしはずっと、あることに加担していました。
許されることではなかった。けれども、拒むこともできなかった。
だって、ぜんぶバレたら、あたしは昔の生活に戻らなくなちゃならない。もう嫌だった。この仕事に就くまで、湊には言えないようなこともたくさんあった。今の居場所を手放したくなかった。だから、ずっと言われるままにしてきた。
けれども、今日、もう終わりにしたいと言いました。
もう取り返しはつかないけれど、いつかバレるなら、罪を打ち明けるべきだと。
そうしないと、もう湊の隣にはいられない。
あなたと出逢ってからの四年間、とても幸せでした。
大人しくて真面目で、融通の利かないあなたが大好きだった。だから、悪いことをしている自分が許せなくなった。
償いたかった。ぜんぶ償うことができたら、いつかまた、湊の隣にいられるかもしれない。
――湊。あたしを大事にしてくれて、ありがとう。
実の家族よりもずっと、あなたを家族のように愛している。
手紙の文字は、最後に向かうほどに歪んでいた。きっと、この手紙を残すことを、菜々は最後まで迷っていたのだ。
便箋の隙間から、名刺ほどのサイズのメッセージカードが出てきた。そこには、何処かのURLとユーザー名、パスワードが書かれている。
「海月館にあったタブレット端末、鞄に入っている?」
湊は小さく頷いた。海月館を出るとき、持たされた物のひとつだ。
「メッセージカードを写真に撮って、ここに貼りつけて。向こうで、開いてくれると思うから」
言われるがまま、湊はタブレット端末を起動させた。凪に指示されるまま、通信アプリを開く。
クジラのアイコンがひとつだけ浮かんでいる。《
『なかに保存されていたもの送る』
菜々が遺したURLは、どうやらオンラインのストレージサービスだったらしい。インターネット上にデータを保存するもの。
保存されていた内容は、複数枚の写真や音声ファイルだった。
「これ、何ですか?」
「横領の証拠」
「……え?」
「経理部に何人いるか知らないけど、相当うまくやっていたんだろうね。監査や検査も、形だけで機能していなかったのかな? それとも、そっちもグルだったのかな」
「会社のお金を、盗んでいたってこと?」
「そうだよ。ひとつひとつ解説しようか? 横領のことを何処かに打ち明けようとして、三上は殺されたんだよ」
「……じゃあ、殺したのは」
「三上の不倫相手として、うわさになっていた経理部の部長かな。たしか経営者の一族なんだよね? 人事にも融通利かせられたなら、ずっと経理部に居座ることもできる。バイトだった三上を正社員にしたのもこの男なら、三上だって逆らえない。恩義もあったし、不安定な生活に戻りたくなくて、ずるずる協力したんだろ」
「そんな! 菜々は殺されたって、警察に言わないと。自殺じゃなかったって!」
「言ってどうするの? 誰も信じないよ、死んだ人間の記憶を覗きました、なんて。横領の件が真実だとしても、それを苦に自殺した、で片づけられる。警察が自殺と結論づけたなら、俺たちにできることはないよ」
「でも、この人、今も普通に生活しているんですよ⁉ 菜々は殺されたのに」
退職するときも、何食わぬ顔で会社に出勤していた。そのうえ、菜々の死後、入院中だった湊の見舞いにまで来ていた。
遣る瀬無さでいっぱいだった。
簡単に自殺と結論付けられたのは、菜々のために戦う親類がいなかったからだ。孤独な身の上が、菜々の自殺を肯定する助けとなった。
殺された。その事実を示す決定的な証拠はなく、それを覆すこともできない。
「でも、これは湊の会社に送ろう。三上が殺された事実が明るみになるか分からないけれども。横領の調べが進めば、もしかしたら余罪として追及されるかもしれない」
慰めるように、凪はそう言った。
湊は海月館に戻って、菜々の手紙を指でなぞる。
「菜々は、どうして手紙なんて、まわりくどいことをしたんでしょうか」
横領の一件を知らせるならば、他にも安全で確実な方法があった。届くのかも分からない手紙を実家に送ったところで、湊のもとまで届くかは怪しい。
「相手を説得できると思っていたんじゃないかな? 今はバレなくても、いつか罪は明らかになる。傷が浅いうちに罪を認めた方が良い、と諭すつもりだったんだよ」
「じゃあ、この手紙は保険ですか?」
「そうだね、保険みたいなものかもしれない。ただ、三上は殺されてしまってから、その保険が後悔になった。もしくは……」
湊の後ろから、凪は手紙を覗き込んだ。彼が吸っていた煙草の煙が流れてきて、湊は咳き込んでしまう。
「煙、嫌いだって言いましたよね」
湊は火のついた煙草を取りあげると、乱暴に灰皿に押しつけた。
「湊」
顔をあげたとき、唇に柔らかなものが触れた。かさついた唇だった。
「禁煙してほしいなら、慰めてくれる? 口寂しくなる前に」
「……凪くん、本当、最低ですよね」
「そんな嫌そうな顔されると傷つく。むかしは喜んでくれたのに」
「付き合ってもいない相手に変なことしないでください。わたしのことなんて、好きじゃないくせに」
「好きだよ。そもそも、俺は別れたつもりもないけれど」
湊は耳を疑った。彼と付き合っていたのは十年前の話だ。その頃の恋人関係など、とっくになかったことになっているはずだ。
「ばかじゃないですか? 凪くんのことなんて、もう」
「好きでしょう? 俺のこと。今も昔も、湊は俺のことが大好きだから」
込みあげた激情は、得体の知れない不気味さにかき消された。怒りを通り越して、あまりにも気味が悪くて、湊は何も言えなかった。
「いまは菜々のことだけ考えさせてください。どうして、意地悪するんですか」
届かなかった手紙は、湊のもとに届いた。今夜、ようやく親友を見送ることができる。終わったはずの恋に惑わされている余裕はなかった。
「面白くなくて。湊が三上のことばっかり考えるのが」
そうして、夜が訪れる。
ドアベルが鳴って、菜々は海月館を現れた。
あいかわらず、菜々は湊のことを認識しない。それでも良かった。湊は菜々の胸元に、そっと手紙を押しつける。
「ちゃんと届きましたよ」
菜々はゆっくりと瞬きをしたあと、憑き物が落ちたかのように笑った。
館内の景色が揺れて、夜の海へと変わりゆく。星の明かりも、月の光も飲み込んでしまう暗い海に、まるで灯火のように光が浮かんだ。
それは此の世と彼の世をつなぐ橋のように、光の道をつくりだす。
菜々は振り返らない。死んだ彼女にとって、湊はもう別世界の住人で、決して交わることのない相手なのだ。
まるで本能に導かれるように、菜々は光の方へと歩き出す。
そう、振り返るはずがなかったのに――。
ほんのわずか、彼女の首が動いた。そうして視線が交わった。湊の大好きだった、切れ長の目が、たしかに湊を捉えた気がした。
さようなら、と言えなかった人。
姉のように慕い、親友として愛しながらも、その気持ちの半分も伝えることのできなかった相手だった。
彼女は罪を犯した。悪事に手を染めながら、湊の隣で笑っていた。
それでも、湊は彼女を嫌いになることができない。寄る辺もなく、ぼんやりと生きていた湊に息を吹き込んで、人間らしさを教えてくれたのは彼女だった。
「菜々!」
行かないで、と引き留めたくなる手を堪えて、声の限り彼女の名を叫んだ。届かなくとも、伝えられなくとも、その名を何度も繰り返す。
歩きだした菜々は、やがて光の果てに消えた。湊は声をあげて泣きじゃくる。
「泣き顔、本当にブスだよね」
「……最低」
「最低な男でも、君の泣き顔くらい隠してあげられるけど」
困ったように眉をさげた凪は、それから両手を広げた。湊はためらいながらも、そっとその胸に額を寄せた。
次々と流れる涙が、頬を伝っては涸れなかった。
菜々の事件は、どうなるのか分からない。
死人に口はない。横領の件はもみ消されて、菜々が殺された事実も明らかにならないかもしれない。
「菜々」
彼女の最期を幸福と言ってはいけない。彼女の受けた痛みを、哀しみを、湊がつけた傷を忘れてはいけない。
ただ、願わくは美しい親友が、安らかな海で眠りにつくことを。
生きている間に届かなかった手紙が、湊のもとに届いたように。この祈りも、どうか海神のもとに届きますように。
4.
凪の手元にあるタブレット端末で、クジラのアイコンが揺れる。通話を求めるそれに、凪はすぐさま画面をタップして応じた。
「
『……おい、朝から気持ち悪い声を出すんじゃねえよ』
「友人に対して、ひどいな。心配ごとが片付いて、ほっとしているだけなのに」
画面の向こうで、高校時代の友人は眉をひそめているだろう。
最後に顔を合わせたのは十年ほど前だが、どんな表情をしているのか、手にとるように想像できた。
『お前が上機嫌だと、ろくなことがない。新しい記事が出ていたから、送ってやる。これで満足か? あの女、帰ってきたんだろ』
通信アプリには、新聞記事のURLが貼り付けられていた。東京の地方新聞、本日の朝刊のようだった。
「湊が帰ってきたこと、勇魚に教えたかな?」
『教えてもらわなくても分かるに決まってんだろ。こんな地方新聞の記事まで漁らせておいて。死ね、地獄に落ちろ、ストーカー野郎』
「残念。それは難しいかな」
勇魚は返事をせず、通信を切ってしまう。
頼りになる友人であり、凪の家業を手助けしてくれる協力者。そんな立ち位置である友人は、口の悪さに反して、仕事ぶりは丁寧なのだ。
いつだって、凪の求めているものを提示してくれる。
勇魚が送ってくれた地方新聞の記事は、■■製菓の横領について報じていた。
経理部の部長が、十数年に渡って数千万の金を横領していた。会社側は告訴に踏み切るらしい。
末尾では、自殺した女性職員との関係についても触れられている。三上菜々を殺した罪も含めて、すべての真実が明らかになれば良いと思う。
そうすれば、彼女を想って、湊が泣くことはない。
「あら、お友だちと電話していたかと思えば、今度は新聞記事? 珍しいわね、あなたが新聞を読むなんて。世の中のことなんて興味ないでしょう?」
ふと、頭上に影が差して、凪は顔をあげる。
長椅子にいる凪の手元を覗き込むように、潮は車椅子を近づけてきた。湊の祖母であり、凪にとってもあらゆる意味で無下にできない老婦人は、皴だらけの指でタブレットの画面を叩く。
「気になることがあったんだ。もう、どうでも良いことだけど」
死者のことなど、どうでも良いのだ。
凪が死者を海に還すのは、彼らの後悔を消して、その魂の安寧を祈るためではない。まして、意思などあるかも怪しい海神のためでもない。
凪は自分のために、この海月館にいることを選んだ。
「あなたにとって、世の中のほとんどがどうでも良いことでしょう? 湊ちゃんのこと以外は、ぜんぶ」
笑顔で毒を吐いた老婦人に、凪は肩を竦めた。
「潮さんだって似たようなものだ。死んだ旦那以外のことは、どうでも良いんだ。自分だけまともな人間のふりするのは止めたら? 苛々するから」
「ごめんなさいね。でも、もう少しの我慢よ。遠くないうちに死ぬから」
一時退院した潮は、また病院に戻ることになっている。自宅療養の話もあったが、潮はそれを湊に明かさなかった。
自分の世話をさせるために、湊を呼び戻したわけではない、と。それも嘘ではないだろうが、本当の理由は別にあるのだろう。
「湊と二人きりにしてくれるのは、俺への償いかな?」
潮は問いに答えず、目を細めるだけだった。
「今回のこと、湊ちゃんから聞いたの。あなた、大事なこと黙っていたでしょう? ――三上菜々さん、私が入院する前から海月館に来ていたわ。二月の半ば過ぎだったかしら。なのに、あなた三上さんのことは放っておいて、何もしようとしなかった」
「さあ、どうだったかな」
凪はさりげなく潮から目をそらした。
「三上さんの手紙、彼女の御実家から見つかったそうね。よく知っているわ、あのアパートは遠田の持ち物だから。今は人を住まわせていないから、三上さんの御両親が暮らしていたのは、ずいぶん前の話ね」
「ふうん。それは知らなかったな」
「誰も住まわせていないから、ポストに届いたものは知り合いに頼んで廃棄してもらっていたの。でもね、彼女、変なことを言うのよ。二〇三号室にクラゲの封筒が届いたら、そのままにしてほしいって、私から連絡が来たって」
「……潮さん」
「三上さんが海月館に来たとき、あなたは彼女の記憶を見て、湊の居場所を知ったのね。親友が目の前で亡くなったのよ、仕事は続けられない。身内は私だけだから、あの子は木枯町に戻ってくる」
「でも、それだけでは足りない。湊が何処にも行けないよう、引き留める何かが必要だった。俺が三上のことを放っておいたのは、そのため。これで満足?」
降参だった。最初から、この老女は凪の思惑も何もかも知ったうえで、湊を木枯町に呼び戻したのだ。
「ねえ、凪。あなたの願いは叶ったのかしら? 大好きな湊が帰って来たのよ」
見透かすような老女の視線が、昔から苦手だった。
子ども染みた凪の執着を、尽きることのなく一人の少女に向けられていた想いを、誰よりも知っていたのが彼女だから。
「変わらないって信じていたのに、湊はずいぶん変わった。あの子はもう、俺の知っている女の子じゃない」
凪の知る彼女は、十五歳の女の子だった。
いつも凪に嫌われることを恐れていた、可哀そうな少女。凪のためにすべてを差し出して、ぜんぶあげるから嫌わないで、とすがってくる子だった。
だが、今の湊は、もう凪にだけ依存していた子どもではない。
「哀しい? 湊の十年を知らなかったことが」
「哀しいのか、苦しいのか、痛いのか。そんなことも、俺にはもう分からないよ。ただ、やっぱり湊のことが好きで。憎たらしくて、妬ましくて、ぜんぜん可愛げなんてないのに、俺にはとても可愛く見える。不思議でしょう?」
「不思議ではないのよ。私だって、亡くなったおじいさんのこと、あんな難しい男はいないって思うのに、やっぱり一番可愛くて好きな人だもの」
「それは、今も?」
潮の夫は、ずいぶん昔に亡くなっている。
「死が二人を別つなんて大嘘ね。死んだあとだって大好きで、いまでもあの人が傍にいるみたいだもの。あなたの前でそんなこと言ったら怒られてしまう? 私ね、あの人の魂が永遠に隣に在れば良いと思うの。海神様にだって渡したくないわ」
その気持ちは、分かるようで、分かりたくない気持ちだった。
死者を導くことが、凪に課せられた役目だ。海神の手足として、凪は此の町で生まれ、死んでしまった魂がさまようことを認めてはいけない。
「もう、こんな時間なのね。そろそろ出るわ」
腕時計を見て、潮が車椅子に手をかけた。
「予定があるの?」
「湊ちゃんとね、お買い物なの。あの子ったら、負い目に思っているのよ。十年間も帰らなかったこと、ろくに連絡もしなかったこと。……気にしなくて良いのに。あの子が生きてくれるなら、それだけで幸せなのに」
「良い御身分だね。俺を仲間外れにして、湊とデートなんて。どこ行くの?」
「秘密。女同士の」
潮は微笑んで、館を出て行った。
石段をどうやって降りるつもりかと思ったが、どうせ誰か人を呼んでいるのだろう。
自らの薄っぺらい身体、細い腕を見て、凪は自嘲する。どのみち、凪には潮を背負って石段を下りることはできない。
ひとり残された凪は、クラゲのたゆたう水槽に近寄った。
「女同士の秘密、ね。何が女同士だよ、どいつもこいつも、べたべたして。……本当、むかつく。大嫌いだよ」
海神のもとへ還った、三上菜々を思う。
凪には与えられない、凪とは違う、湊の特別を手に入れた女。亡くなった親友のことを、湊が忘れることはない。
「忘れられるくらいなら、癒えない傷にしてほしい。最低な女だ」
ビルから突き落とされた菜々は、地面に落ちるとき幸せそうに笑った。
あの笑顔に嫌悪感を覚えるのは、凪が彼女と同類だからだ。愛する者の傷となりたい、永遠になりたい、と死の間際に願った菜々の気持ちが、凪には痛いほど分かる。
凪は疑っている。三上菜々は、もしかしたら、死んでも構わない、と考えていたのではないか、と。
横領事件が明るみになれば、彼女は湊と一緒にいることができない。罪を償ったところで、湊が待ってくれるとも限らない。
いつか忘れられてしまうならば、いっそのこと――。
そんな狂気が彼女の心に潜んでいたとしても、凪は驚かない。
真相は闇の中だ。確かなことは、彼女は湊に癒えない傷を遺し、湊にとっての永遠となったことだけだ。
「みなと」
無意識のうちに零れた名は、此の世でいちばん美しく、いちばん憎たらしい名前だ。
果たして、置き去りにしたのは、どちらだったか。
思い出などなかったことにして、この町を離れた湊か。それとも、誰よりも大切だった少女に、癒えることのない傷を残した凪か。
「愛しているよ、せかいで一番。誰にも、神様にだって渡したくない」
凪は水槽に額を寄せて、そっと目を閉じた。
――凪くん。
遠い日の、柔らかな少女の声がする。
何度も繰り返し、ためらい傷のように思い出しては、彼女が帰ってくることだけを祈り続けた十年間が、ようやく報われる。
凪の愛した、無垢で無知で可哀そうな女の子はもういない。それでも、凪にとって、彼女が特別であることは変わらない。
世界でいちばん憎たらしくて、いちばん可愛い子。
彼女に出逢ったことが、凪の人生にとって一番の不幸だった。