花の魔女は二度燃える
第二幕-09-
食欲をそそる香りに、カグヤは目を覚ました。
いつのまにか、床に座り込んだまま寝てしまっていたらしい。背伸びをしながら顔をあげると、不機嫌そうな少年と視線が合う。
「……こんな状況で寝るなんて。魔女って、みんな図太いわけ?」
赤毛の少年だ。襟足だけ長い髪が、垂れ耳の兎のように揺れる。釣り目がちで、いかにも勝気な印象を受けるが、顔の造りは女の子のように可愛らしかった。
十代の半ば、カグヤと同じくらいの年齢だろう。
「ぼうっとしてないで、さっさと食べてよ。本当、なんで僕がこんな平和ボケした娘の面倒を見なくちゃいけないの?」
湯気の立つスープ、一切れのパンが載せられたトレイを差し出される。
「イヴ様の部下、ですか?」
イヴよりも飾りは少ないが、同じような軍服を着ている。
「腹心のね。そこらの雑兵と一緒にしないでよ」
「……はあ」
生返事をして、カグヤは渡された食事に手をつける。空腹は最大の敵。軍人だった母も、元軍医だった父も、食事を疎かにすると怒る人だった。
「うわ、疑いもせず食べるのかよ。毒でも入っていたら、どうするの? 信じらんない。お気楽な頭しているんだね、戦場も知らない小娘は」
カグヤは曖昧に笑った。戦場を知らないわけではないが、口にしたところで笑われるだけだろう。
「魔女には、人間の毒は効きません。わたしたちは人間の皮を被っただけの、まったく別の生き物ですから。イヴ様は、どちらに? 魔女の世話を、大事な腹心の部下に任せるなんて危ないですよ」
「忙しい方なんだよ」
「戦が終わった今、あの人が忙しいとは思えません」
長きに亘って続いた、西国との戦争は停戦を迎えた。
イヴは人生の大半を戦場で過ごした王子だ。つまり、戦場以外には居場所がなく、戦がなくなれば不要な王子ということだった。
「なんだよ、その言い方。誰のおかげで、いま平和に暮らせていると思ってんの? 西国との停戦条約は、イヴ様が結んだんだよ」
「そうですねえ」
停戦条約は、イヴが中心となって結ばれたとされる。王国民からすれば、イヴは戦を停めた功労者だった。
「そうですねえ、じゃないんだけど。本当なら、もっと讃えられるべき人なんだよ。分かってんの?」
「でも、讃えられていないんでしょう?」
少年は軍靴で床を蹴りつけて、不満そうに唇を尖らせた。
「……そうだよ。戦争が終わったら用済み、みたいにあつかって腹が立つ。離宮の火事だって、王太子派の連中はあれこれ言うしさあ。イヴ様はそれで良いんだろうけど、主人の悪口聞かされるこっちの身にもなってほしいよ」
「悪口。わたしの母が、離宮を燃やしたからですね?」
「はあ? なんでミレイユが離宮を燃やすんだよ。自分だって死んじゃったじゃないか。そうじゃなくて、重傷者あつかいになっている王太子のせい。だから、イヴ様が……」
言いかけて、少年は唇を閉ざした。これ以上は口を滑らせてくれないらしい。
「残念です。もう少しお喋りしてくれると思ったんですけど」
「むかつく。大人しそうな顔して、生意気なんだけど。イヴ様の前では余計なことするなよ。ひどい目に遭っても助けないからな」
「もしかして、心配してくれています?」
「違う! この能天気女、頭が空っぽの奴は黙っていろよ!」
「よく言われます、他の魔女から。カグヤはぼうっとしているから心配だって」
「そりゃそうだろね。お前、見るからにどんくさそうだもん! なんで、こんな魔女を娶ったりするんだ。趣味悪いよ、イヴ様!」
「趣味悪いですよね。ぜひ、御本人にも言ってあげてください」
食事を中断して、カグヤは少年の背後を指差した。
「もう仲良くなったのか?」
再会したときと変わらず、イヴは涼しげな顔をしていた。カグヤを閉じ込めていたことについて、少しも悪びれる様子がない。
「イヴ様! こいつ、聞いていた話と、ぜんぜん違うんですけど。気弱で大人しい子って言ってたじゃないですか!」
「十年前の話だからな。ディオン、悪いが二人きりにしてもらえるか?」
「ディオン君って言うんですか? 名前。わたしはカグヤですよ」
「お前は黙っていろよな!」
叫んだディオンは、はっとしたように口を押さえた。外に控えています、と気まずそうに出ていく。初対面のカグヤが心配になるくらい素直な子だった。
「仲良しだな、妬けてしまう」
「……イヴ様とだって、昔みたいに仲良しになれますよ。誠実にしてくれるなら」
「脅したことを怒っているのか?」
カグヤは首を横に振った。
やはり、この男はカグヤの怒りを勘違いしている。脅されて、訳も分からず部屋に押し込められたことも腹立たしいが、それは一番の理由ではない。
眠ったことで、頭の中が整理できたのか。あるいは、ディオンと話しているうちに考えが纏まったのか。今ならば、冷静に話を進められる気がした。
「いちばん怒っているのは、本当のことを隠して、半端な説明しかしてくれなかったことです。離宮の火事、王太子殿下は重傷らしいですね」
「王太子に限った話ではない、幼い弟たちだって火傷を負って、炎に怯えている。あの火事は、明確な殺意をもって行われた王族殺しだった」
当時、離宮には大半の王族が揃っていたという。幸いなことに王族からの死者は出なかったが、王太子や他の王子たちも被害に遭った。
「でも、イヴ様は無傷なんですね」
驚いたように、イヴは緑の目を揺らした。
カグヤは無意識のうちに勘違いしていた。母が離宮の火事で命を落としたならば、その場には母の仕えるイヴもいた、と。
「火事のとき、イヴ様は離宮にいなかったんでしょう?」
「……ああ、そうだな」
「離宮の火事が、本当に魔女の呪いによるものだったとして。犯人として疑われているのは、お母様ではありません。あなたでしょう? 魔女王子」
第二王子イヴには、その生まれを揶揄した呼び名があった。魔女王子。魔女を母に持つ、魔女から生まれた王子だ。
カグヤと目線を合わせるよう、イヴは膝を折った。
「正解だ。遠くないうち、犯人として祭り上げられるのは俺だ。真実であろうと、なかろうと。この首は、今回の件の落とし前をつけるのに、ちょうど良い」
「あなたは自分が捕まる前に、本当の犯人を探したい。犯人捜しのために、わたしのような魔女が必要でした」
「続けると良い」
肯定も否定もせず、イヴは続きを促す。
「あとは、あなた自身の問題です。母が、あなたから離れられなかった理由。魔女王子なんて言われるあなたが、それでも魔女を臣下にしなければらなかったのは、あなたが呪われているからです」
死に至る呪い。カグヤが識るなかで、最も悪辣で、最も悲惨な呪いだった。
「本当ならば、俺はとうの昔に死んでいる」
「死なせないために、母は新しい呪いをかけました。いいえ、かけ続けるしかなかった。あなたの持っている呪いは、それだけ強いものだったから」
魔女の呪いは、基本的に覆すことはできない。一度かけられた呪いは、成就するまで終わらない。故に、魔女の呪いに対抗する手段は決まっている。
目には目を、歯に歯を。そして、呪いには呪いを。
正反対の呪いを重ねがけすることで、最初にかかっていた呪いが成就しないよう邪魔をする。
「ミレイユが死んだ今、俺は呪いに負けてしまうだろう」
カグヤは片手を掲げた。指先からふわり、とカスミ草が零れゆく。溢れたものをイヴの口元に持っていくと、彼はそのまま食んだ。
花弁は、まるでイヴが食べたかのように、赤い舌に融けてしまった。
カグヤの身体から咲く花は、カグヤの魔力そのものだ。そして、魔力とは呪いをかけるために不可欠なものだった。
燃料のない車は進まず、電気の通っていない電化製品は動かない。同じように、魔力のない呪いも正常に働くことはない。
目を伏せて、意識を研ぎ澄ます。
かつて、母は教えてくれた。
魔女の呪いとは、因果を引っ繰り返すもの。組み立てるのではなく、遡ってゆくもの。未来を覆すことで、過去を変えるもの。
星の運命を書き換える力、と。
正直なところ、カグヤは母の教えの半分も理解していない。彼女の教えが意味するところが何なのか、今も分からない。
ただ、母と同じ魔女として、イヴに課せられた死という運命を書き換えてあげたい。
「母娘だな、やはり」
ゆっくりと目を開く。どうやら成功したらしい。
大きな手に、そっと頭を撫でられる。五歳の女の子にするような撫で方だったので、カグヤは笑ってしまった。
「ねえ、イヴ様。もう一度、《はじめまして》をしませんか? わたし、カグヤと言います」
「……? 知っている」
「いいえ、あなたが知っているのは、十年前のわたしです。――はじめまして、大人になったイヴ様。魔女のカグヤ、十五歳です。元軍医の父と、軍属だった母と三人家族、いちばんのお友だちは商家のエステル。林檎が好きで、熱いものが苦手。イヴ様のことも教えてください」
十年前のイヴは、カグヤのことを化け物ではなく、一人の女の子としてあつかってくれた。薬草園で髪を結えて、世界でいちばん可愛い、と慰めてくれた。その心根が、今も変わらないことを教えてほしい。
イヴはためらうよう口を開いては、閉じる。じっと見つめると、ようやく観念したように言った。
「第二王子イヴ、もうすぐ二十五歳になる。家族は、母親違いの兄弟たちがいる。同じ日に生まれた王太子の兄と、歳の離れた弟たち。好きなものは秘密で、嫌いなものはない。……はじめまして、十五歳のカグヤ」
再会してからはじめて、彼はカグヤの名前を呼んだ。その声は十年前と同じように、優しく響いた。