第三章 名無しの君

 母が亡くなったのは、湊が四歳のときだった。
 彼女について、ほとんどのことは忘れてしまった。
 憶えているのは、嵐の夜になると、湊の名を呼びながら泣いていたこと。ママ、と呼ぶ声も聞こえないのか、彼女は泣き疲れて眠るまで、湊を離さなかった。
「みなと」
 今もまだ、母は何処か遠くで泣いているのだろうか。
 思い出など残っていないのに、幼い日の愛だけが、今も心に刻まれている。



1.
 梅雨を迎えたばかりの六月のこと。
 木枯総合病院の中庭は、しっとりとした空気に包まれていた。
「これ、おばあちゃんのですか? 海月館の整理をしていたら、出てきたんですけど」
 真っ青な紫陽花あじさいに、カスミ草を散らしたバレッタ。美しい髪飾りは、海月館の空き部屋から見つかったものだ。
「いいえ。たぶん、汐里しおりのね」
 一瞬、誰のことか分からなかった。二十四年の人生で、ほとんど耳にすることのなかった名前だ。
「ママの?」
「ママじゃなくて、お母さん、でしょう?」
 潮は呆れたように言う。
 祖母は昔から放任主義で、湊の行動にあれこれ口を出す人ではない。しかし、言葉遣いにだけは煩かった。親しい相手にも丁寧な口調になってしまうのは、しつこく言い聞かせられていたからだ。
 潮は言った。丁寧に話しなさい、丁寧にあつかってもらえるように、と。
「……ママは、ママですよ。形見だったんですね。見覚えがあるような、ないような。ママのこと、ほとんど憶えていないんですけど。似ていました? わたしと」
 母が亡くなったのは、湊が四歳のときだった。自殺だったらしい。そのせいか、ずっと母のことは教えてもらえず、写真の一枚さえ見たことはない。
 もう顔も憶えていない人だ。ただ、彼女を愛した幼い日の想いだけが、胸の奥に残っている。
「ぜんぜん似ていなかったわ。あの子は気が強くて、頑固で、一度決めると譲らない。湊ちゃんを産んだときもそうだったの。結局、湊ちゃんは誰の子どもだったのかしら」
 湊の母――遠田汐里とおだしおりという女性は、誰とも結婚することなく、独きりで湊を産んだ。湊の姓が、母方の遠田であるのもそのためだ。
「父のこと、おばあちゃんも知らなかったんですね」
「……好きにしなさい、と思っていたのよ。もう子どもではなかったもの、自分のことは自分で責任をとるべき歳だった。どんな結果になっても」
 良くも悪くも、潮は人の心に踏み込まない。
 潮には感謝している。行く場所のなかった湊を、この町に引き取ってくれた人だ。
 しかし、どうしようもない壁を感じることがあった。家族と呼ぶには遠く、余所余所しさが消えない。湊を引き取ったのも愛情ではなく、義務的な感情が強かったのだろう、と今でも思う。
 それで十分と思う反面、子どもの頃は寂しくもあった。だから、当時の湊が一番好きだったのは、潮ではなく凪だった。
「このバレッタ、湊ちゃんが貰ってくれる? もともと、汐里の形見は湊ちゃんにあげるつもりだったの。私も長くないだろうから」
「……おばあちゃん、どこが悪いんですか?」
「年をとったの。それなりに、色んなところが悪くなったのよ」
 皴の寄った目元、白髪交じりの髪、骨の浮き出た手。十年は短い歳月ではない。いつも元気で年齢を感じさせなかった潮は、湊が想像していたより老いた。
 潮は何の病気なのか、病状は命に係わるものなのか。何一つ教えてもらうことができないまま、今日まで時間が過ぎた。
 はぐらかされると、それ以上、強く出ることができない。十年間も傍にいなかった湊に、彼女が隠したがっていることを暴く資格はない。
「そんな怖い顔しないで。死んだ後のことを考えるのは、哀しいことではないのよ。残していく人に、できることはしてあげたい。その準備は死ぬときになってからでは遅いの。たくさん後悔してしまう。……後悔したら、凪の世話になってしまうから」
 木枯町で生まれた者は、皆、クラゲの姿をした海神から生まれ、彼女のいる海に還る。すべてを忘れて、空っぽになることで、母なる神の御許に導かれる。
 しかし、強い後悔を持った死者は、その後悔を忘れることができない。彼らの魂は海神の御許に還ることができず、さまよい、海月館を訪れるのだ。
「おばあちゃんは、凪くんの仕事のこと、どこまで分かっていますか?」
 遠田の家は、海神の託宣を受けた巫女の血筋だという。さまよえる魂を海神のもとに導く役目があり、いまは凪がそれを担っている。
「本当の意味では、何も分かっていないわ。凪以外、誰にも理解できないの。――あの子は選ばれたのよ、海神に。あの子の言葉を借りるなら、凪は神様の一部になった」
 穏やかな口調で語られるそれが、ひどく薄情に聞こえた。
「凪くんに、ぜんぶ押しつけるんですね」
 海神と遠田家に関係があるならば、本家筋の湊たちこそ当事者だ。不可思議な役目も、本来であれば、湊たちが担うべきものだったのかもしれない。
「あなたは昔から、凪のことになると他人事ひとごとではいられないのね。……むかし、あなたと凪の距離が怖かったの。今でも怖い。あまりにも近すぎる。相手の痛みを、まるで自分の痛みのように受け入れて。ひとつになって離れられないみたいで」
 湊は目を伏せる。ひとつになりたいと思ったことはある。ただ、結局のところ、その願いすら、幼い子どもの幻想だった。
 十年前の湊たちは、恋人と呼ぶには不健全で、歪な関係だった。二人は対等ではなく、いつだって支配されるのは湊だったのだ。
 あの頃の湊は、彼の支配を受け入れ、何もかも呑み込むことこそ、愛情なのだと信じていた。
「今はもう、そんなことないですよ」
「湊ちゃんがそう思っても、凪はどうかしら? あの子、あなたのことになると、とっても我儘だから。……きっと、汐里に似ているのは凪ね。そっくり」
 顔も憶えていない母に、海月館の青年が重なった。二人が似ているならば、むかしの湊が、凪を好きになったことは必然だ。
 ――亡くなって二十年近く経った今も、湊は母を愛している。
 祖母の車椅子を押しながら、中庭を歩く。いつものように、彼女は樹木の下、海神の祠に手を合わせた。
 季節柄、祠には、いつになく花や菓子等が供えられている。
「もうすぐ、慰霊祭ですね」
 慰霊祭。余所では馴染みのない、この土地ならではの祭事だった。
「湊ちゃん。今年は、私の代わりに墓参りしてくれる?」
「ママ、喜んでくれますかね?」
「みんな喜ぶわ。だって、湊ちゃんが帰ってきたんだもの」
 町に戻ってきたのが十年ぶりなら、慰霊祭の墓参りも十年ぶりだ。久しぶりに、亡き人に会いに行くのも悪くない。


 病院からの帰り道は、ぱらぱらと雨が降っていた。
 気に入りの傘の隙間から、やけに青い花々が目につく。
 町の至るところで紫陽花が咲き初めている。美しい青の花々も、薄雲に覆われた空も、柔らかな雨音も、湊は嫌いではなかった。
 ――紫陽花の季節になると、凪はいつも楽しそうに笑っていたから。
 海月館の近くまで来て、湊はふと顔をあげる。
 楽しそうな少女たちの声が、さざなみのように聞こえた。
 海月館に続く石段の脇には、小さな教会がある。
 夏用の制服にレインコートを羽織った女子高校生たちが、教会の門前でカメラを構えていた。
 あの年頃の子が持つにしては立派なカメラには、白いマジックで《木枯学園高校部》と書かれていた。
 私立木枯学園は、もともとは町にある唯一の高校として創立された学園だ。
 近年では中等部も作られ、近隣市町村に限らず、県外からも積極的に学生を受け入れている。
 木枯町の子どもは、中学生、あるいは高校生になると、たいてい木枯学園に通う。近隣市町村を含めた公立校に進学する者たちもいるが、数はさほど多くない。
 県外なる全寮制高校に進学した湊は、ずいぶんな例外だった。
 祖母の薦めで進学した当時、不思議なほど疑問に思わなかったが、今になって考えると不自然だった。この町を出て、遠く離れた場所に進学する理由が分からない。
 春、海神の身許に親友を送ってから、言い知れぬ違和感を覚えるときがあった。
 ――どうしてか、十年前、この町を出たときの記憶が曖昧なのだ。
 虫に食われた葉のように、記憶にいくつもの穴がある。その穴について、今まで意識しなかったことも異常だった。
 何か大事なことを忘れてしまっている気がした。
「遠田? 遠田、湊だよな」
 教会から、高校生の付き添いと思しき男が現れた。湊と同年代の男だったが、心当たりがなかった。
三上遼斗みかみりょうと。憶えていない? 小、中学の同級生だったんだけど」
 湊の戸惑いを察してか、向こうから自己紹介をしてくる。
「あ、……ごめんなさい、少し急いでいるので」
 頭が真っ白になって、うまく返事をすることもできない。
「そっか、いきなり声かけて悪かった。その……、また会えるか? みんな町を出たから、同級生に会うの久しぶりで! 遠田の実家って、この近くだったよな、たしか」
 ためらいもなく踏み込んでくる男に、湊は会釈をするだけで精いっぱいだった。振り返りもせず、海月館に続く石段を駆けあがった。
 同級生と言われても、まるで思い出せなかった。当時の湊は、放課後になるといつも凪と一緒だったので、同年代の子たちの輪から弾かれていた。
 ――死神。当時、影で囁かれていた湊の渾名だった。
 母の死をきっかけに木枯町に引き取られた湊を、心ない人々は、そう呼んだ。母が自殺した原因を、幼かった湊に見出したのだ。
「……三上って、菜々と同じ苗字ですね」
 木枯町では珍しい苗字ではないが、どうしても菜々を思い出してしまう。
 鳥居をくぐって、海月館の庭にさしかかった。
 異国人の造園家が設計したという庭は、むかしから凪の気に入りだった。
 真っ青な西洋紫陽花ばかり植えられた、梅雨こそ美しい庭である。雨上がりの空にも似た青い花が、少しずつ花開いて、庭を染めはじめている。
 ――なにかひとつ、青いもの。サムシング・ブルー。
 紫陽花の青に、古い記憶がよみがえる。
 子どもの頃、この庭で、凪と結婚式の真似事をしたことがある。花嫁には青いもの、と笑った凪は、紫陽花を摘んで、湊の頭に載せてくれた。
 あの頃は、いつか凪と結婚すると思っていた。そんな幸せが、当たり前のように訪れると信じていた。
 少女だった湊は、きっと幸福な花嫁になりたかったのだ。
 湊は思い出を振り払って、海月館の玄関扉を開く。
 あいかわらず薄暗い空間だった。照明の代わりに光るのは、クラゲの揺蕩う円柱型の水槽である。
 この奇妙な書庫には、町に戻ってから数か月経った今も慣れない。
「ただいま。……凪くん?」
 書庫で迎えてくれたのは、凪ではなく見知らぬ少年だった。十四歳くらいの男の子で、サイズの合わない学生服を着ている。
 あどけなさの残る顔立ちに、湊の胸は締め付けられた。
 海月館を訪れるのは、消えない後悔を抱いて、此の世をさまよう死者だけだ。湊よりもずっと年下の少年は、すでに死んでいるのだ。
「いらっしゃい」
 話しかけても応えないと知っていたが、つい、声をかけていた。じっと水槽を見つめる少年の表情が、あまりにも切なそうだったから。
「名前を探してほしいんだ。大事な名前だったのに、見つからない。……ずっと、ずっと探しているのにね」
 少年は微笑んで、水槽に額を寄せた。
 瞬間、湊はめまいがして、海底に引きずられるような感覚に呑まれた。冷たく暗い海の
 底へと、意識が沈んでいく。

 ●〇〇●〇〇●

 教会の長椅子は冷たく、ひんやりとしていた。
 学ランのまま寝転がれば、天井に描かれた絵が目についた。色とりどりのステンドグラスが嵌められた高窓、そこから差し込む太陽の光が、天井画を照らしている。
 俺には、芸術の良し悪しなんて分からない。けれども、とても美しくて、どこか神秘的で、この教会だけ別世界のようだと思った。
「また学校サボったでしょ」
 ショートカットの少女が、いきなり顔を覗き込んできた。木枯学園の夏服を着た彼女は、怒ったように目をつりあげた。
 唇は薄く、切れ長の目は鋭い。モデルみたいに整った顔をしているのだが、触れたら噛みつかれそうな、そんな迫力があった。
「なあに。迎え来てくれたの? 俺のこと」
「そうよ。月島つきしまの職員さんたち心配していたよ。あたしのとこにも連絡来るくらいなんだから。あとで謝りなさい」
「お前が同じ学校だったら、俺、サボったりしないのに」
「いくつ離れていると思っているの? 中学生。だいたいサボるなら別の場所にしなさいって。明日、結婚式の予定あったの忘れた? もうすぐ大人たちが準備に来るよ」
「ああ、物好きな奴らね。こんなボロい教会で結婚式って、俺だったら嫌だな。ぜったい幸せになんかなれない」
「他人の幸せにケチつけないの。意地悪いこと言うと、意地悪になるよ?」
「もともと意地悪いから、べつに? ねえ、結婚したいの、お前も」
 彼女は溜息をついて、俺の寝転んだ長椅子に腰かけた。
「いつかは、ね。花嫁さん、やっぱり特別で、幸せそうで、憧れるでしょ? みんなに大事にされて、お祝いされて、世界でいちばん綺麗だもの」
 彼女は、気の強そうな顔立ちに反して、ずいぶんと夢見がちだ。
 目に入れても痛くないくらい、母親から溺愛されているからだろうか。世の中の悪意などひとつも知らないような顔で笑いかけてくる。
 だから、一緒にいると怖くなるときもあった。隣にいたいのに、この綺麗な女の子のことを、俺が汚してしまうのではないか、と。
「明日の花嫁さん、サムシング・フォーするんだって。ほら、なにかひとつ古いものSomething Oldなにかひとつ新しいものSomething Newなにかひとつ借りたものSomething Borrowed
 よくそんな習慣を知っていたものだ。俺だって、教会の隣で暮らしていなければ、耳に挟むこともなかった。
なにかひとつ青いものSomething Blue?」
「うん。ぜったいに幸せになれると思わない?」
 うっとりと目を細めた彼女は、四つも年上なのだ。
 いつのまにか大人になって、知らない誰かと結婚して、遠くに行ってしまったら、いまの俺には追いかけることもできない。
「俺、用意してあげても良いよ。そうしたら、結婚してくれる?」
 声は上擦った。心臓の音が、身体中に響いている。少女は顔を真っ赤にして、困ったように目を伏せる。
「本当? ■■■」
 世界でいちばん綺麗な声が、優しく、俺の名前を呼んでくれる。たったそれだけで、どんなことがあっても生きていける気がしたんだ。

 ●〇〇●〇〇●

 湊は目を開いた。記憶は途切れて、いったん終わりを迎える。
 水槽の前にいる少年は、諦めたように笑った。湊に向けられた笑顔ではなく、記憶のなかの彼女に向けた笑顔だった。
 瞬きの間に、少年は指先から解けて、姿を消してしまった。
「帰っていたの? ずいぶん遅かったね」
 書庫の奥から、凪が顔を出してくる。
「今日、バイトだったので。帰りに、おばあちゃんのところにも寄ってきましたし」
 木枯町に戻って数か月。
 擦り切れそうだった湊の身体と心は、少しずつ快復している。ようやく、これからのことについて考える余裕が出てきた。
 今は短期のバイトを入れながら、新しい仕事を探しているところだ。
 いつまでも祖母に甘えて、海月館に居座りたくない。ついでに言うと、以前の住所から住民税の通知文が転送されてきて、通帳の残高が心配になった。
「バイトも仕事探しも止めたら? 結婚してあげる。永久就職」
 性質の悪い冗談だった。さきほどの少年の記憶に重ねたのだろう。
「凪くんと結婚したら、意地悪ばっかりされるじゃないですか」
「残念。昔は、あんなに俺のお嫁さんになるって言ってくれたのに。ずっと一緒にいてあげるよ? 死ぬまで養ってあげる」
「ほとんど無職みたいな人に言われても。どうやって生活しているんですか? みつるさんたちに援助してもらっています?」
 さまよう死者の後悔を紐解き、海神のもとに導く。
 だが、相手が死者であることを思えば、対価を得ることはできない。仕事というより、それは神に仕えるような、そんな印象だった。
 まさしく、遠い先祖――海神の託宣を受けたという巫女と同じだ。
「両親や満兄さんは町を出たって言ったよね。連絡もとっていないよ」
「霞でも食べて生きているんですか?」
「……潮さんの資産、いま管理しているの俺なんだよ。お金もだけど、他にも良く分からないものたくさん持っているだろう?」
 祖母の資産については、湊にも心当たりがあった。
 詳細は知らないが、潮は建物や土地を多く所有しており、他にもいくつかの利権を持っている。加えて、彼女自身も定年まで町役場に勤めていたはずだ。
「ぜんぶ好きにして良いって言われているんだ。でも、本当なら、湊が受け取るべきものだ。だから、湊の世話くらい俺がするよ」
 凪は、祖母の兄の孫で、近しい血縁ではない。だが、祖母ならば、凪のために全財産を渡すことくらいする。昔から、祖母は凪にだけ特別甘かった。
「おばあちゃんが凪くんにあげたものを、わたしが使うわけにはいきません。あと、凪くんに借りをつくったら、ろくでもないことになります。絶対に」
「いくら俺でも、彼女相手にひどい真似はしないけれど」
「ぜんぜん信用できませんし、そもそも彼女じゃないです。別れました」
「別れ話って、お互いの合意がないと成り立たないんだよ」
 湊はこめかみに指をあてた。毎回、頭痛がする遣り取りだ。
 こちらに戻ってから、ずっと凪の言動に振り回されている。十年前に捨てようとして、しかし捨てることのできなかった恋心が、いばら棘のように胸を刺した。
 優しくされると嬉しくなって、素気無くされると落ち込む。何気ない態度に一喜一憂してしまうことが、とても苦しかった。
 そのとき、海月館のドアベルが鳴った。振り返るが、当たり前のように館の扉は閉ざされて、窓も閉められている。
「今夜は客人が多いね」
 いつのまにか、制服姿の少女がいた。帰り道に見かけた、木枯学園の夏服だった。歳の頃は十七、八歳だろうが、ずいぶん大人びた顔立ちだ。
 さきほどの少年の記憶で、笑っていた少女だ。
「名前を探しているの、いちばん大切な名前」
 少女はすがるように、水槽に手を伸ばした。
 再び海底にひきずられる感覚がして、湊の視界は塗り替わる。

 ●〇〇●〇〇●

 夜の暗がりに、炎が揺れていた。
 海岸線に並んだ炎を、高台の庭から見下ろした。庭に咲く紫陽花の青に、遠い、遠い炎の色が混ざりあって、溶けていくような錯覚がした。
 ゆらりゆらり溶け合った色が、此の世と彼の世の境を分からなくするようだった。
 だから、手を伸ばせば、此の世から彼の世まで届く気がしたのだ。
 けれども、あたしは知っている。どんなに願っても、祈っても、あの子はもう、此の世に還ってくることはない、と。
 虫が這うような怖気が、足下から首筋へ伝っていく。めまいがするのは、この景色があまりにも惨たらしいからだった。
 神様。どうして、あたしから奪っていくの。還してくれないの。
「■■■」
 震える咽喉で叫んだ名は、夜風に攫われてしまった。
 あたしは自分の頭に触れて、乱暴に髪飾りを外した。
 薄闇で青く光るそれを、海岸線で揺れる炎の先へ、遠い遠い海の果て――あの子がいる場所へ投げてしまいたい。
 今さら《何か青いもの》を手に入れたって、幸せになんてなれない。
 なのに、この髪飾りだけが、あの子に繋がるものだから手放せない。
「約束したのに、名前をくれるって。ねえ、■■■」
 どれほど叫んでも、応えてくれる人はいない。そうと知りながらも、何度だって、あたしは名前を探してしまう。

 ●〇〇●〇〇●


 少女の記憶は、そこで途切れた。
 湊はブラウスの胸元を握る。同調した記憶に引きずられて、背筋が粟立った。深い絶望が流れ込んで、全身が氷のように冷える。
「名前を探しているの、いちばん大切な名前」
 泣きそうな声でねだった彼女は、空気に融けてしまった。
「同じ、後悔?」
 少年と少女は、同じように名前を探していた。
 生前に関わりのあった二人が、同じ後悔を持つ。偶然と呼ぶには、あまりにも出来過ぎている。
 彼らの探している《名前》とは、何を示すのだろうか。
「凪くんの仕事って、わたしにもできますか?」
 気づけば、湊はそんな風に質問していた。
「あの子たちのことが気になるの?」
「あの子たちじゃなくて、たぶん凪くんの仕事に興味があるんです。凪くんが海神の手伝いをしているなら、それはわたしにも関係あるのかなって」
 祖母は言った。凪は海神に選ばれた、と。その意味を知りたいと思った。
 凪は子どものように首を傾げた。
「今さら? 何も知らないで、無関係です、って顔して生きていたくせに」
「だから、教えてほしいんです、凪くんのしていること」
 凪は困ったように笑って、煙草に火をつけた。



2.
 遠田湊が、遠田凪という少年と出逢ったのは、母の葬式のときだった。
 湊の記憶なのか、それとも凪の話から想像したものなのか、今となっては分からない。しかし、映画のフィルムを再生するように、あの日のことを夢見るときがあった。
 小さな教会の隅で、四歳だった湊は膝を抱えていた。知らない大人たちが、棺で眠る母のもとを訪れるのを、ぼんやり眺めた。
 母と二人で暮らしていた場所から、木枯町に連れてこられて、ほんの数日だ。しかし、その数日で、優しかった日常が壊れたことを思い知らされた。
「湊ちゃん」
 顔をあげれば、スーツを着た少年がいた。
 彼は微笑んで、湊と視線を合わせるよう、膝を折った。
 人形のように綺麗な男の子だった。大きな目に長い睫毛、高い鼻梁、花弁を食んだような赤い唇。何もかもが完璧で、つい手を伸ばしたくなるような魅力があった。
「だあれ?」
「凪だよ、遠田凪。湊ちゃんのママの、イトコの子ども。ハトコだね」
「知らない」
「だよね。俺も湊ちゃんのこと、今日はじめて知った。床に座っていると寒くない? 湊ちゃんが寒いと、きっとママも哀しいって思うよ」
 湊は両目から大粒の涙を流した。
「ママ、みなとが嫌いだったのかな? だから、つれていってくれなかった?」
 誰も本当のことを教えてくれなかった。しかし、湊は知っている。母は痛くて苦しくて、自分から死を選んだのだ。
 湊が世界で一番好きで、誰よりも好きになってもらいたかった女の人は、湊ではない誰かを想いながら死んだ。
「ママは、湊ちゃんが好きだったんだよ。だから、一緒に連れていけなかったんだ」
「なんで? もう、我儘しないよ。ママだけで良い。なんにも要らないって、ちゃんと言うから。みなとのこと、置いていかないで」
「なんにも、要らないの?」
 泣きじゃくりながら、湊は何度も頷いた。
 置き去りにされることが嫌だった。独りにしないでほしかった。
「ぜんぶ、あげる。ママがいるなら、ママにぜんぶあげるのに」
 ショートケーキの苺、新しい本、可愛いぬいぐるみ。湊の好きだったぜんぶをあげるから、どうか離れず傍にいてほしい。
 凪は考えこむように、じっと湊を見ていた。
 黒目だと思っていたが、よく見るとその瞳は青だった。暗くて深い、きっと海の底はこんな色をしているであろう青だ。
「ねえ。俺じゃ、だめかな?」
 青い瞳に呑まれて、湊は呼吸を忘れた。
「湊ちゃんが全部くれるなら、ずっと一緒にいてあげる。絶対に置いていったりしない」
「ほんとう?」
 凪はそっと、小指を差し出してきた。湊は真似するように、小指を差し出した。細くて白い指先が、決して離れぬように、湊の指に絡みつく。
 凪は笑っていた。此の世でいちばん幸せそうに。

 ●〇〇●〇〇●

 翌日、湊は海月館近くの教会にいた。
 この小さな教会は、時折、結婚式や家族葬の会場となる。
 礼拝も典礼もなく、そもそも教会としての機能を果たしていない。ただ、町にある冠婚葬祭を取り仕切る会社が、手持ちの式場のひとつとして管理している、と聞いたことがあった。
 二十年も前のことだが、湊の母も、ひっそりと此処で弔われた。
 だから、教会といえば、どうしてもこの場所を思う。海月館を訪れた少年の記憶、その舞台が教会だったとき、真っ先にこの場所ではないかと疑った。
「ここ、鍵ないと入れないけど。どうかした?」
 いきなり肩を叩かれて、湊は竦みあがる。振り返ると、昨日、同級生だと名乗った男が立っていた。
「三上さん? そちらこそ、どうして」
 三上遼斗。菜々と同じ苗字を持つ人。
「後片付け。昨日、木枯学園の写真部に貸していたから。なか入りたいなら、鍵持っているから開けるよ」
「良いんですか?」
「良いよ。この教会、うちの会社の持ち物だから」
「……? 学校の先生じゃなかったんですか? 昨日、学生の子たちに付き添っていたから、てっきり」
「違う違う。ここ、たまに結婚式とか葬式やるだろ? あれを仕切っているのが母親の会社なんだ。昨日は鍵開けて、立ち会っただけ。引率の先生は別にいたよ」
「お母様の会社で働いているんですね」
「あー、それも違う。いつもは木枯総合病院の看護師。遠田は気づいてくれなかったけど、春にも一回会っているんだ。俺の担当、遠田潮さんのいる病棟だから」
「……あのときの、看護師さん?」
 春、祖母の病室を訪ねたとき、男性の看護師と顔を合わせた。すっかり忘れていたが、こんな容貌だったかもしれない。
「思い出してもらえて良かった。――おかえり、で合ってる? ぜったい町には戻らないと思っていたから、けっこう驚いているんだ。おばあ様も喜んでいるだろうな、遠田が戻ってきて。ああ、でも、うちに入院しているから一緒には暮らしていないか。いま一人暮らしか?」
「いいえ、同居人はいるんです。おばあちゃんが話していたみたいですけど、ハトコの凪くん。昔から、家族みたいに付き合いがあって」
 遼斗は一瞬だけ眉をひそめたが、納得したように何度か頷いた。
「遠田の好きな、親戚のお兄さん? 思い出した。学校が終わると、いつも真っ先に帰っていたよな。お兄さんが待っているからって」
「そんなことまで憶えていたんですか?」
「憶えているって。元気になったなら良かったよ、前は死にそうな顔していたから」
 遼斗に鍵を開けてもらって、教会のなかに入る。天井を見上げれば、あの少年が眺めていた光景と重なった。
「ここって、たまに学生が来たりしますか?」
「いや、昨日みたいなことは滅多にない。昔だったら、出入りしている子も多かったと思うけれど。もう建物は取り壊されているけど、ここ、昔は児童養護施設と一緒になっていて、教会もそこの持ち物だったんだ」
「ここに、施設があったんですか?」
 むかし、木枯町にもいくつか児童養護施設があった、と祖母は言っていた。まさか、こんなにも近所にあったとは思わなかった。
「俺たちが生まれる前の話だから、知らなくて当たり前だな。木枯町って、海の不幸が多いだろう? 身寄りのなくなった子たちを支援していたんだと。施設はなくなったけど、この教会は、うちが譲り受けたって聞いている。当時、関係があったらしいな」
 手がかりになりそうな話だった。教会にいた少年と少女。一人あるいは二人とも、施設にいた子どもの可能性がある。
 彼らの素性が分かれば、彼らの探している《名前》も分かるかもしれない。
「施設のこと気になるなら、母に訊いてみようか? 何か知っていると思う」
「良いんですか?」
「そんな手間でもないから。連絡先教えてくれるか?」
 湊はスマートフォンを取りだした。トークアプリに「三上遼斗」の名前が増える。
「アイコン、犬なんですね」
「うちの豆柴。可愛いだろ、良かったら今度見に来てよ。遠田は、これから暇? 俺、夜勤まで時間あるから、昼飯でもどう?」
 遼斗は何の気負いもなく、昼食に誘ってくる。久しぶりに会った同級生、それもまともに話したことのない相手だというのに遠慮がなかった。
 だが、その態度が有難かった。湊の事情など知らない、関係性の薄い相手だからこそ、気を張る必要がない。
「わたしで良かったら」
 遼斗が案内してくれたのは、洒落た内装の和食カフェだった。古民家を改築しており、看板の新しさに反して、どこか懐かしい雰囲気がある。
 店内のメニュー表には、臨時定休日として、六月のとある日が載っていた。
「もう慰霊祭の時期ですね」
 その日になると、木枯町は異様な雰囲気に包まれる。
 たいていの店は休業日となり、勤め人も早々と帰路に就く。寺という寺に墓参りの人々が集まって、賑わいが途切れることはない。
 そうして、夜になれば、人々は海岸線で炎をかざす。
 海に攫われてしまった死者の御霊を、海神の御許に送り出すために。
 眉唾な気もするが、一説によると炎は月光の見立てであり、海に浮かぶ月――海月くらげの暗喩でもあるらしい。
 要は、海の不幸で亡くなった者を、海神のもとに送る祭事だ。
 尤も、始まりがそうであったというだけで、今となっては死者全般を送る行事だ。実際、木枯町では、盆より慰霊祭のときに墓参りをする者が多い。
 慰霊祭は、この閉ざされた町特有の慣習だった。
「慰霊祭って言われても、俺たちにはあんまり関係ないよな。最後に海が荒れて、大勢死んだのって、俺たちが生まれた頃だろ」
「ひどい嵐だったみたいですね。祖母から聞いたことがあります」
「なあ、教会の児童養護施設のこと。なんで調べているか訊いても良いか?」
 慰霊祭のことで、思い出したのだろう。教会にあった施設は、海の不幸で身寄りのなくなった子どもたちを支援していたのだ。
「人を探しているんです。もう亡くなっているんですけど、教会と関係があったので、施設にいた人かと思って」
「故人か。……そっか、見つかると良いな」
「ごめんなさい。いきなり、色々お願いしてしまって」
「良いよ、困ったときはお互い様だから。その代わり、また飯でも行かない? みんな町を出たから、飯食う友達もいなくて暇なんだ」
「……はい、ぜひ」
 そのとき、窓の外から楽しげな声が聞こえた。
 木枯学園の制服を着た少女たちが、横並びで歩いている。テスト期間だろうか、ずいぶん早い下校だ。風に膨らんだブラウスの襟が、やけに眩しく感じられた。
「木枯学園の制服って、可愛いですよね」
「俺は見慣れているから、あんまり可愛いとか、そういうの考えたことないけど。遠田がそう言うなら、そうなんだろうな。遠田って、余所の高校だよな。県外? こっち残ると思っていたから、結構ショックだった」
「話したこともなかったじゃないですか」
 遼斗はわざとらしく溜息をついた。
「遠田が何も憶えていないのは、よく分かった。ちょっと良いなあって思っていた女の子が、いつのまにか県外に行ったんだから、ショックだろ? わりと好きだったんだ、遠田のこと」
 湊は一瞬、言葉を詰まらせる。しかし、あっけらかんとしている遼斗に、ちょっとした思い出話なのだと分かった。
「そんな風に思ってもらえたなら嬉しいです。《死神》でしたからね」
「知っていたんだ、あの渾名。興味ないと思っていた」
 両親がおらず、祖母に育てられた湊は、うわさの的になりやすかった。
 だが、遼斗の言うとおり興味はなかった。あの頃の湊は、何を言われたところで、凪さえいれば他のことは要らなかった。
 ただ、その渾名だけは印象的で、今も忘れることができない。
「すごく納得したから、憶えていたんです」
 子どもの頃から、心の何処かで疑っている。周囲が囁いたように、母が自殺した理由のひとつは、湊だったのではないか、と。
 ならば、彼女に死を齎した湊は、まさしく死神であった。
「あれ、みんな遠田と仲良くなりたかったんだよ。手段は最悪だったけど、遠田に気にかけてほしかったんだと思う。あの頃の遠田って、俺たちとなんて、仲良くなる気なかっただろ?」
「……はい。とても酷い態度だったと思います」
 他人との向き合い方、付き合い方、そういったことを知ったのは、社会人になってからのことだった。三上菜々と出会わなければ、今も分からなかっただろう。
 子どもの頃の自分が、いかに不誠実で、失礼な態度をとっていたか。
「そ。なんだか、遠田も変わったんだな。昔よりとっつきやすい」
 遼斗は白い歯を見せて笑った。

 ●〇〇●〇〇●

 海月館の朝は、意外なことに早い。
 死者が訪れるのは夜のことで、彼らの相手をしている凪も遅くまで起きている。それなのに、彼はいつ寝ているのか不思議なほど早起きだった。
 二階の自室からリビングに降りると、今日も凪の方が早かった。
「コーヒーで良い?」
 凪はインスタントコーヒーの瓶を傾けて、マグカップに粉を落とす。電気ケトルからは、勢いよく湯気が噴き出していた。
「ありがとうございます」
「何か分かった? あの子たちが探している名前のこと」
 湊はコーヒーを受け取って、教会に併設されていた児童養護施設について話す。
「凪くんは知っていました? 施設のこと」
「聞いたことくらいはあるけれど、潮さんの方が詳しいと思うよ」
「今日、お見舞いの日だから聞いてみます。凪くんも一緒に来ますか? おばあちゃんも喜ぶと思います。昔から、凪くんのこと大好きですから」
 下手をしたら、実の孫よりも可愛がっていた。単なる親戚の子どもに向けるには、あまりにも熱が入り過ぎていたと思う。
「誤解しているみたいだけど、潮さん、俺のことはそんなに好きじゃないんだよ。湊の近くにいると良く睨まれたよ。悪さするんじゃないかって、疑われていたんだろうね」
 あっけらかんと言っているが、実際に悪さをしていた男の台詞ではなかった。
 そもそも、この男は恋愛どころか親愛も良く分からない年頃だった湊を、うまく丸め込んで、いつのまにか彼氏という立場に収まっていたのだ。
 今になって考えると、めちゃくちゃなことが多すぎた。
 四歳の頃から一緒だった、仲の良い親戚のお兄さん。好きは好きでも、先立っていたのは親愛で、亡くなった母に向けた気持ちと変わらなかった。
 それを上手く転がして、恋に仕向けたのは凪だ。考えれば考えるほどろくでもない。
「おばあちゃん、わたしのこと心配していたんですね。ちょっと意外です。わたしのこと、あんまり興味なかったんだと思っていました」
 湊にとって、祖母の潮は淡泊な人だ。もちろん、冷酷なわけではない。突然押しつけられた孫娘を、不自由させることなく育てた人格者でもある。
 ただ、とにかく他人に踏み込まないのだ。あなたが決めたならそれで良いの、というのは、彼女の口癖でもあった。
「いや、興味はすごくあったと思うよ。もともと過保護な人だからね。ただ、それが原因で娘――汐里さんと揉めたから、湊には強く出られなかったんだよ」
「おばあちゃん。ママと仲悪かったんですか?」
 湊は眉間に皴を寄せる。頭のなかは疑問符だらけだ。
「それは、俺には何とも言えないかな。――潮さんの見舞いって、何時から?」
 凪は渋ったわりに、見舞いに同行してくれるらしい。
 折り畳み傘を持って、湊と凪は病院に向かった。梅雨時期なので、今日も薄墨を伸ばしたような曇り空だった。
「凪くんと歩くの、不思議な感じです」
「不思議?」
「凪くんのお見舞いに行くときは一人でしたから」
「ああ、そういう。湊が病院来るのなんて、俺が入院しているときくらいだったね」
「わたしは丈夫さだけが取り柄だったので。……凪くん、本当に元気になったんですね」
「疑っていたの?」
 凪は身体の弱い人だった。月に何度も通院し、頻繁に入退院を繰り返した。
 十年ぶりに再会した彼は、不規則な夜型の生活を送っているわりに健康で、煙草も吸えば飲酒もする。あの頃の苦しみが嘘のようだった。
「俺の体質は原因不明のものだった。確かな病名もなく、虚弱体質で片づけられる。……君がいなくなったから治ったのかもね。遠田の女は、男を誑かす魔女だから」
「魔女?」
「高台には魔女がいる。海底から現れた魔女は、町の男を攫って、殺してしまう。そういう噂があったんだよ、むかし」
「嫌なうわさですね」
「的外れでもないけどね。あの館は、海神に繋がっている。美しいクラゲの姿をした彼女は、海の魔女でもあるわけだ」
 性質の悪いお伽噺を、凪は愉しげに語った。海神の御許に死者を送っているわりに、凪はの女神に対して辛辣だった。
「遠田! 良かった、ちょうど会えて。今日、見舞いに来るって聞いたから」
「三上さん、こんにちは」
 祖母のいる病棟に入ると、向こうから遼斗が歩いてきた。
「せっかくだから、渡そうと思って。うちの母親が、写真を持っていたんだ、施設がなくなる数年前のものらしいけど」
 写真は、あの教会の前で撮ったものだった。数人の子どもと大人が並んでいる。端っこには、海月館を訪れた少年と少女も映っていた。
「ありがとうございます。ちょうど、こういうの探して……」
「誰? この馴れ馴れしい男」
 湊の御礼に被せるように、声は隣から聞こえた。あからさまに不機嫌な顔をした凪が、遼斗を睨みつけていた。
 初対面の遼斗に対して、あまりにも失礼な物言いと態度である。
「役に立てたなら良かった。何か聞きたいことがあったら、いつでも連絡して」
 遼斗は遼斗で、凪の言葉を無視するように笑っている。意外と肝が据わっているのか、受け流すことに慣れているのか。
「湊、潮さんが待っている」
 湊は腕時計を見る。たしかに、もうすぐ祖母と約束している時間だ。
「ごめんなさい、お見舞いの時間なので。あとで御礼しますね」
「俺も勤務中だから、このくらいで。また今度な」
 遼斗はひらひらと手を振る。凪の態度に気を悪くした様子はなく、ほっとした。
「ひとの知り合いに失礼なことしないでください。あんな睨んで、らしくないですよ」
 優しくて品行方正、弱音のひとつも吐かない健気な少年。昔の凪は、そういった余所行きの顔を、家族の前ですら崩さなかった。
 初対面の相手に、あんな乱暴な態度をとったことが不思議だった。
「どうせ気にしていないよ。潮さん、まだ生きている?」
 祖母の病室に入るなり、凪は憎まれ口を叩いた。
「凪くん! いい加減にしてください」
「残念ながら、まだ生きているわ。今日は凪も一緒なのね」
「おばあちゃん、ごめんね。これ」
 見舞い用に買ってきた果物を渡す。そのとき、間違えて、遼斗から受け取った写真も一緒になってしまう。
「まあ、懐かしい写真。どうしたの? 汐里でしょう、これ」
「ママ?」「汐里さん?」
 ちょうど、湊と凪の声が重なった。
「湊ちゃん、顔も憶えていないものね。写真も見せなかったから……。木枯学園の制服を着ているのが汐里よ。高校生のときかしら? 月島園つきしまえんで撮ったんでしょう」
「月島園って、教会にあった児童養護施設ですか?」
「よく知っているのね。汐里、高校生になってから毎日のようにお邪魔していたの。色々お手伝いをしていたみたいで、月島園の人からお礼をいただいたこともあるのよ。……凪も憶えていなかったのかしら? 汐里の顔」
「まともに顔を合わせたの、彼女の葬式くらいだよ。顔なんて憶えていると思う? ――汐里さん、海月館に来たよ」
 祖母は目を丸くして、それから肩を落とした。
「あの子に後悔なんてあるの? 自分の好きなようにしか、生きていなかったくせに」
 祖母の言葉が、やけに強く耳に残った。非難するような響きがあったのだ。
「こっちの男の子は、知っていますか?」
「……ごめんなさい。施設の子だとは思うけれど。仲良かったのかしら?」
 潮はわざとらしく首を傾げて、月島園の話を止めてしまった。


 病院から海月館に戻った途端、雨が降りはじめた。さあさあ降る雨は、まるで霧のように、あたりを白く曇らせていく。
「潮さん、嘘をついたね」
 紫陽花の庭で、ぽつり、と凪がつぶやいた。
「はい。男の子のこと、たぶん知っているんだと思います」
「潮さんは教えてくれないと思うけどね」
「そのあたりは、また三上さんに聞いてみます。……ねえ、写真の女の子が、わたしのママだって言われたとき、変だと思いませんでした? 年齢がおかしいんです。ママが死んだのは二十代のときでしょう?」
 海月館を訪れる死者は、死んだときの姿で現れると思っていた。実際、湊の会ったことのある死者は、死ぬ間際の姿をしていた。
「過去や未来、現在、そういうのは死んだ人間には意味のないものだから。海月館に来る死者は、自分の後悔と、いちばん関わりの深い姿になる」
 つまり、汐里が死後も忘れることのできなかった後悔とは、彼女が高校生の頃に起因する。きっと少年も同じだろう。
「ママが探しているのは、あの男の子の名前なんでしょうか?」
「気になるの? 汐里さんのこと」
 ――みなと。
 嵐の夜になると、彼女は湊の名を呼びながら泣いた。海底から響くような哀しい声が、脳裏にこびりついているのだ。
 湊を産んでくれた人。置き去りにされて、思い出など忘れてしまった今でさえも、母への愛は消えなかった。
「ママのことは気になりますよ、大好きでしたから。……でも、それ以上に。わたしは、凪くんの仕事を通して、凪くんのことが知りたいんです」
 凪は海神に選ばれたという。
 ならば、彼がこの町を離れなかったのは、自ら望んだのではなく、離れることができなかっただけなのかもしれない。
 凪の仕事を手伝うことで、離れていた十年を知りたかった。
 もう二度と会うことはないと思っていた。しかし、湊は故郷に戻ってきた。
 湊の親友は、生きていた頃の菜々は言った。
 凪のことを忘れなくても良いが、終わったことにしなさい、と。いまの幸せのために必要な苦しみだった、必要な恋だったと思いなさい、と。
 いまの凪と向き合うことで、ようやく、湊はあの頃の恋心を捨てられるはずだ。
「そう。君は、俺を終わったことにしたいんだね」
 湊は足を止めた。心を覗かれたのかと思った。
「また俺を捨てるの?」
「捨てたのは、凪くんでしょう?」
「違うよ。思い出せないかな? 何も。ねえ、なんで俺と別れたと思ったの?」
 記憶の片隅で、病室の白いカーテンが揺れている。いつか帰ってくる、という呪いの言葉と一緒に、凪の冷たい指を思い出した。
 凪が好きだった。あのときの湊のすべてだった。何もかも差し出したいと願った人につけられた傷は、今もこの胸にある。
 それなのに、傷つけられた理由が思い出せない・・・・・・・・・・・・・・・
 背筋が粟立つ。頭の奥で、激しい警鐘が鳴っている。
「凪くんは、憶えているんですか?」
「忘れることができたなら、俺はこんな町とっくに出て行ったよ。……俺だって、海月館に来る死者と変わらない。ずっと後悔していたよ、湊のこと」
 後悔。悔いたのは、湊と離れた十年間のことか。
 しかし、思うのだ。菜々の一件がなければ、湊は木枯町に戻らなかった。あのまま凪のいない人生を過ごした。
 同じように、凪も、湊のいない人生を歩むだけだ。
 悔いるほどの想いが、彼にあるとは思えなかった。本当に湊を好きならば、離れていた十年のうちに、何らかの行動を起こしている。
 何もせず、いつか帰って来るなんて祈るだけだったなら、その程度の気持ちだ。
 そうでなくては、湊はまた期待してしまう。彼だけが世界のすべてだった少女には、もう戻りたくなかった。
「十年も無駄にした。本当だったら、湊と結婚していたのに」
 凪は屈みこんで、庭の紫陽花を摘んだ。覚えのある光景だった。子どもの頃の凪は、雨露に濡れた紫陽花を摘んで、湊の頭に載せてくれた。
なにかひとつ青いものSomething Blue? ……ママも、受けとったのかもしれないですね」
 母の形見である紫陽花のバレッタ。あれは結婚したかった相手から贈られたものなのかもしれない。
「汐里さんは結婚していないけれど」
 凪の言うとおり、遠田汐里は未婚のまま湊を産んでいる。
「はい。でも、青いものを贈ってくれた人がいたはずです。ママの記憶、慰霊祭の日でした。高台から海岸線の炎を眺めていたから。……あの人は、髪飾りをしていました。青い色しか見えませんでしたけど、紫陽花のバレッタだと思うんです。ママの形見に、ちょうどそういうバレッタがあって。あれがサムシング・ブルー」
 海の不幸で、身寄りを失くした子どもたちを預かっていた施設。海の不幸で亡くなった人々、ひいてはすべての死者を弔う慰霊祭で、誰かの名を叫びながら泣いた母。
「ママが結婚したかったのは、たぶん海月館に来ていた男の子」
 おそらく、二人は幸せになれなかった。そうして、大切な《名前》を探すという、同じ後悔を抱えて海月館を訪れたのだ。


 その日の夜も、死者は現れた。
 男の子の姿はなく、制服姿の少女がぼんやりと立っている。
 恐る恐る、湊は手を伸ばす。海月館は特殊な場、と凪は教えてくれた。ここにいるときだけ、死者は実体を与えられる。
 不思議な気持ちだ。二十年も昔に亡くした母親に、こうして触れられるのは。
 幼い日に抱きしめてくれた腕は、想像していたよりも細かった。あのときの湊が思っていたより、母はずっと幼く、脆い人だったのかもしれない。
 湊はそっと、彼女と手を繋いでみる。しかし、その手が握り返されることはなかった。
 水槽のクラゲを眺めていた少女は、そっとガラスに額を寄せた。湊は目を伏せる。意識はまた、彼女の記憶と重なりゆく。

 ●〇〇●〇〇●

 紫陽花の咲く寺院の、緩やかな石段をのぼっていく。片手には花束を、片手には小さな手を繋いで。
「抱っこ」
 甘えた声に、あたしは足を止めた。
 手を繋いだ幼い娘は、宝石みたいな丸い瞳を潤ませていた。
 癖のない黒髪に、左目の下の泣きボクロ。あたしとは似ていない、あの子の生き写しみたいな女の子だった。
「湊。もう疲れちゃったの? 電車で、ずうっと寝ていたのに。もうちょっと頑張ってくれたら、ママは嬉しいな」
 お願いすると、湊は不機嫌そうに唇を尖らせる。その様子を、すれ違う人々が微笑ましそうに見ていた。
「みんな、いっぱい。ヤなの。お家帰る」
 人混みが苦手な娘は、行き交う人々が気になって仕方がないらしい。電車に乗るときも愚図っていたので、もう限界なのかもしれない。
「イヤイヤしないで? 今日はね、大好きな人に会う日なの。だから、皆、ここに来るんだよ」
「ママの好きなひと?」
「そう。ここにいるの。湊も好きになってくれたら嬉しいな」
 湊は泣きそうな顔で頷いた。もう少し頑張ってくれるらしい。
 やがて、石段の先にある墓地が見えてくる。墓地を囲うようにして、あちらこちらで紫陽花が咲き初めていた。
 胸が苦しくて、息ができなくなる。でも、そうしたら、きっと幼い娘は困ってしまうから、何でもない顔をして笑わないとダメだ。
 でも、どうやって笑えば良いのか、分からなくなってしまう。
 あなたの前で、あたしはどんな顔をしていたの?
「ママ?」
 あなたにそっくりな娘が、あたしを見つめている。だから、あなたに向けていたものと同じ笑顔を浮かべたい。
「ごめんね」
 そうしなくては、あなたにも顔向けできないのに、もう上手に笑えないのだ。
 あなたを弔い、あなたの分まで生きることが正しいと知っているのに、あたしの心は、この町に今も取り残されている。
 可愛い娘との未来よりも、あなたと過ごした過去を想ってしまう。
 視界の端で、紫陽花の青が揺れている。その青が、あの残酷な海を思わせて、足が震えてしまうのだ。
 あなたが、ここにいるなんて嘘。
 だって、あなたは海に還ってしまった。



3.
 施設の写真について、詳細が知りたい。
 そう伝えると、遼斗はすぐに対応してくれた。
 高台から駅の方まで降りて、商店街に向かう。
 目に入ったのは、《冠婚葬祭 みかみ会館》と看板だ。会社と思しき建物と、そこに隣接するように《三上》の表札を掲げた家があった。
 インターホンを鳴らすと、四十代くらいの女性が迎えてくれた。
「いらっしゃい……、どちら様?」
「遠田湊と申します。遼斗さんと、約束をしていて……」
「遼斗! お友達って、湊くん・・じゃなかったの⁉ 同級生って言うから、男の子かと思ったのに」
「母さん。遠田、困っているから」
 家の奥から顔を出して、遼斗は苦笑いを浮かべた。
「あんたが勘違いさせるようなこと言うからでしょ。珍しく家にいてほしい、なんて言うから何かと思ったら。そうよねえ、余所のお嬢さんと二人きりは良くないわよね。――ごめんなさいね、なか入って。何のお構いもできなくて申し訳ないけど、ゆっくりしていってね」
 座敷に通されると、可愛らしい豆柴が座布団で丸くなっていた。前に遼斗が話してくれた飼い犬だろう。
「ごめん、母さんが」
「大丈夫です、前の会社でも間違う人いましたから」
 みなと、という響きの名前は、男女どちらにも使われる。初対面の相手は、半分ほど湊の性別を間違える。
「すごく良い名前だけどな。何か由来あるの?」
「さあ? 母がつけてくれた名前なんですけど、もう亡くなっているので」
「……ごめん。無神経だった」
「気にしないでください。もう、そういうことで傷つく年齢でもないので」
 昔は、他人の家庭を羨んだこともある。凪がいるから大丈夫、と言い聞かせながらも、ごく一般的な家庭への憧れもあったのだ。
 凪には両親がいて、兄がいて、幸せな家庭があったから、なおのこと。
 とはいえ、すべて子どもの頃の話だ。
 今はもう、人にはそれぞれの苦悩があり、比べられるものではないことも知っている。自分の物差しでは、他人の苦悩を図ることはできない。
「いくつになっても、傷つくのは傷つくだろ?」
「三上さんは優しいですね」
「いや、普通だから。……昔から思っていたけど、遠田って変わっているよな。律儀っていうか、丁寧っていうか。同い年なのに、そんな喋り方されても困るんだけど」
「癖みたいなもので、なかなか治らないんです」
 幼い頃から、刷り込みのように祖母は言った。
 丁寧に話しなさい、丁寧にあつかわれるように、と。
 今思えば、それは両親のいない湊が生きやすいように、という配慮だった。結果的には、同級生の間でも浮くことになったので、いろいろ裏目に出ていた気はするが、祖母は彼女なりに湊のことを心配していたのだ。
「あの写真のこと、聞いても良いですか?」
「あー、せっかく来てもらったのに、大した話ができなくて申し訳ないんだけど。あの写真、施設がなくなるとき、貰い手がいないから引き取っただけらしい。母さんも詳しいことは知らないんだと」
「貰い手がいない?」
「ほとんど全員、亡くなっている」
「嘘ですよね?」
 現像された写真の日付は、三十年程前のものだ。だが、映っている人間の年齢を考えれば、全員が病気や寿命で死んでいるとは考えにくい。
「こんな不謹慎な嘘はつかない。《海神の怒り》だと」
「それは、わたしたちが生まれる頃に起きた?」
 この町は何十年かに一度、海に呑まれる。どれほどの災害対策を講じても、まるで運命づけられたように不幸が起こる。
 それを、人々は《海神の怒り》と呼んだ。
「だから、この写真について聞ける人はいない。俺、何処まで聞いて良いかな? 写真に、遠田の探している人が映っているのか?」
 湊は写真を取り出して、制服姿の少女を指差した。
「母なんです。それで、この男の子は、母と仲が良かった人」
「もしかして、父親? 遠田って、おばあ様のところで暮らしていただろ」
 湊も、その可能性を考えなかったわけではない。母は未婚だったが、湊が生まれたのだから、相手はいたのだ。
「たぶん、そうなんだと思います。忙しいのに、色々調べてもらってありがとうございました。あとは自分で探してみます」
「大して役に立てなかったけどな。何かあれば、遠慮なく言って。力になるから」
「いいえ、すごく助かりました。あの、御礼させてください、大したことはできませんけれど」
 親しい相手ならばともかく、湊と遼斗は同級生でしかない。それも、当時はろくに話したこともなかった。そんな相手にここまでしてくれた彼に、これ以上は甘えられない。
「じゃあ、慰霊祭の日は空けておいて。ちょっと付き合って欲しい場所があるんだ」
 それくらいの頼みなら構わない。ただ、言いにくそうにしていた遼斗の態度に、ひっかかりを覚えた。

 ●〇〇●〇〇●

 海月館の書庫には、水槽で揺れる水の音だけが響く。
「というわけで。もう、おばあちゃんに聞くしかないと思うんです」
「潮さんが話してくれるとは思えないけどね」
 凪は興味なさそうに、湊の話を聞き流した。視線は一度も手元の小説から離れない。昔から本の虫だったが、昔よりも悪化している。
 周囲を見渡せば、壁一面の本棚にびっしりと本が詰まっている。
 春に戻ってきたとき驚いたが、この不思議な空間も凪の趣味だと思えば納得できる。
 彼は昔から物語を読むのが好きだ。他人ひとの人生をなぞることが好きなのだ。
 病弱だった彼は、日常生活でさえも、あらゆる制限が付き纏った。できないことの方が、できることの何倍も多かった。
 自分にはできないことを、誰かの人生をなぞることで想像する。昔からそういう人だったので、遠田の家業は天職なのだろう。
 凪ならば、誰かの後悔に共感し、寄り添って、彼らを弔うことができる。
「あの男の子って、わたしの父親だと思うんです。おばあちゃんは、わたしの父親が誰か知っていて、ずっと隠していました。嫌いだったのかもしれませんね」
「嫌いなんて生易しい感情じゃないよ。そもそも、汐里さんが結婚できなかったのって、潮さんのせいだから」
「え?」
「過保護な人だって言ったよね? 娘の結婚相手も、それは理想が高かったみたいでね。いざ汐里さんが連れてきたのが、身寄りのない、しかも働きだしたばかりの若い男だったから激怒したんだって」
「身寄りがないのも、若いのも、その人の責任ではないと思うんですけど」
「そうだね。そんなことで非難されるのは理不尽だ。でも、反対する親は多いと思うよ。相手が悪いわけじゃないのは分かっても、感情は別だ。子どもを愛すれば愛するほど、何の苦労もしてほしくない。……納得いかない顔しているね」
「べつに苦労しても良いと思うんです。どんなに苦しくても、痛くても、耐えられることが、愛しているってことでしょう?」
 愛情とは、苦しいときにこそ試されるものだ。
「一緒に幸せになることは、たぶん付き合いの薄い相手でもできます。でも、一緒に苦しむことは、本当に好きな人としかできないと思うんです」
 幸せを分かち合うことは簡単だ。幸福とは、最も共感しやすい感情だから。
 相手の抱える苦悩や痛み、本当の意味では理解できない傷、どうしようもない弱さ。それらを見てもなお隣にいたいと思うことが、湊にとっての愛情だった。
「湊のそういうところ、俺は好きだけどね。でも、そういうところが付け込まれるんだよ。俺みたいな男に」
 凪は本を閉じると、そのまま立ちあがって、中央にある水槽に近づいた。ふわふわと水中を揺蕩うクラゲは、今日はずいぶん洒落た姿をしていた。
 書庫にいるクラゲは、日によって姿を変えている。
「前から不思議だったんですけど。それ、どうなっているんですか?」
 たいていは白いミズクラゲだが、たまに違う種類になっている。凪が中身を入れ替えたとは思えない。そもそも、彼がクラゲの世話をしているのを見たことがなかった。
「さあ? 本物のクラゲじゃないし、俺もよく分からない」
「分からないんですか」
「全部が全部、納得のいく理屈があるって思わないほうが良いよ。良く分かないけどそうなっていることって、世の中にはたくさんある。……ああ、でも、湊が戻ってからだね、こんなに姿を変えるようになったの」
「わたしのせい?」
「ここにいるクラゲは、たぶん概念とか、イメージみたいなものだから。館にいる人間の記憶を基にして、姿かたちを変えている。湊が色んなクラゲを知っているなら、姿を変えるのも納得かな。クラゲは好き?」
「眺めるのは好きです。菜々とも、よく水族館に行っていました。今日のクラゲも見たことありますよ、ハナガサクラゲ」
「ハナガサって花笠のことかな。名前まで洒落ているんだね」
 薄く青みがかった傘から、先端が赤紫をした触手が無数に伸びていた。華やかに飾り付けられたそれは、伝統芸能や祭礼のとき用いられる花笠と似ている。
「すごく綺麗でしょう? でも、ちょっと残念なこともあって。本当に綺麗なのは十日くらい、あとは色褪せるばかりで、触手も短くなってしまうんです。勿体ないですよね、ずっと綺麗なら良いのに」
 展示のタイミングによっては、綺麗な状態で見ることができない。美しいのはわずかなときで、あとは損なわれるだけ。
「ずっと綺麗なら、誰も綺麗なんて思わないよ。短いから美しさに価値がつく」
「なんだか凪くんみたいですね。昔の凪くんは綺麗だったから」
 当時、大人になるまで生きられない、と言われた少年には、何処か陰のある不思議な魅力があった。
 儚いからこそ美しい。あれは短命であるからこその美だった。
「それは、いまの俺が醜いって言いたいの?」
 凪は気を悪くした様子もなく、茶化すように言った。
「ハナガサクラゲは、すぐに色褪せますけど。醜くなった、と思うかもしれませんけれど。……でも、醜くても、長く生きていてくれる方が嬉しいです」
「醜くなった俺に、価値なんてないけどね」
 ナルシストともとれる発言だったが、事実、彼は美しかった。そして、自分が美しいから、周囲は大切にしてくれるのだと信じていた節がある。
 不自由な身体に苛立ちながらも、その儚さによって手にした美に固執していた。美しくなくなったら、誰も自分を愛してくれない、と思い込んでいた。
 どれだけ湊が言葉を尽くしても、凪は自分自身の価値を認めなかった。
「ハナガサクラゲは、嫌なんですね? なら、不老不死になりますか。不老不死だって、騒がれたクラゲがいるんですよ」
 菜々の旅行したとき、その土地の水族館に展示されていたクラゲだ。あれほど小さな生き物が、永遠の命を持っていることが不思議だった。
「それは俺も知っている、ベニクラゲだ。不老不死とは違うと思うよ。彼らは老化で死にかけたあと、また幼生に戻る。前の人生の続きではなくて、新しい命として始める。不老不死じゃなくて、たぶん生まれ変わりみたいなもの」
 たしかに、それは生まれ変わりと良く似ている。
 死んだ命が、もう一度新しい命として還ってくるとして――。
 それはもう、別の誰かなのだ。死者は永遠に戻らない、失われたものは代わりが効かない。此の世どころか、彼の世ですらも、ただひとつの存在だ。
「そう思うと、俺たちと似ているね。海神はね、生と死の二つの側面を持っている。生む神であり、死を呼ぶ神。命は循環しているんだよ、この町に限っては」
 木枯町の人々は、海神の御許を、いわゆる天国のような場所として想像する。
 しかし、実際は再生工場に近いのだろう。死んだ魂は、新しい誰かを生み出す資源となるのだ。
「天国なんて、何処にもないってことですね」
「あったとしても、そんなものは空の上。この町の人間には縁がない」
 凪はくすくす笑って、出窓の外を指差した。高台にある海月館からは、海岸線やその向こうにある海がよく見える。
 海岸線には、慰霊祭に向けて、炎を灯すための台がたくさん準備されていた。
「慰霊祭になると、俺たちは海に炎をかざす。海神の導きを真似て。でも、死者が海を渡るとき、その道筋は天に延びているわけじゃない」
 目を伏せると、菜々を見送った日のことがよみがえる。彼女は転々と浮かぶ光に導かれて海を渡った。
 渡った先は、いったい何処なのだろうか。
「俺はいつも思っているよ。死者は海を渡っているのではなく、きっとそのまま海に沈んでいく。海神がいるのは、深くて暗い海底だから。空の上に天国があるのなら、海の底は地獄なのかもしれないね」
 ぞっとするような、冷たい声だった。



4.
 慰霊祭は、梅雨の真中に行われる。
 木枯町の墓地は、世間一般で言うところの盆より、この日の方が賑わう。
 今でこそ死者全般を弔うための祭事だが、成り立ちを思えば、この町にはそれだけ海の不幸で亡くなるものが多かったことを意味する。
 この町は思い出したように海に呑まれる。まるで海神が――死を司る神が、あるいは死を齎す魔女が、海底から人々を呼び寄せるように。
「お待たせして、すみません」
 慰霊祭の日、遼斗が待ち合わせ場所に指定したのは、遠田家も檀家となっている寺だ。正確には、その墓地の前だった。
「いま来たところだから。悪い、付き合わせて」
 遼斗は険しい顔をしていた。何か言いだそうとしているのは分かるが、口に出すのを迷っているようでもあった。
「わたしもお墓参りに来る予定だったので、構いませんけど。……その、何か理由があるんですよね?」
 付き合いの浅い人間が一緒に訪れるにしては、墓地は不釣り合いだ。
「本当は、言うつもりはなかったんだ。というか、遠田と関わるつもりもなかった。教会で見かけたときも、春に会ったときみたいに気づかない振りをしようか迷った。――でもさ、やっぱりちゃんとした方が良いから」
 湊は黙って耳を傾けるが、話が見えない。
三上菜々みかみななって、知っているだろ?」
 思わぬ名前に、湊は足を止めた。
 菜々が亡くなったとき、彼女の両親とは連絡がつかなかった。そのため、彼女の遺体は従兄弟にあたる人物が引き取った、と人伝に聞いている。
「菜々の、従兄弟さん? 遺体を引き取った」
 遼斗の名前を聞いたときの違和感が、再び突きつけられる。
 三上は、木枯町では珍しい苗字ではない。あのときは偶然の一致として片づけたが、実際はそうではなかった。
「菜々の両親、とっくに町を出て、生きているのか死んでいるのかも分からないんだ。だから、俺の家が遺体を引き取った。菜々は俺たちを恨んでいると思うし、恨んで当然だと思うけれど」
「菜々は中学を卒業してすぐ、町を出たって聞いています」
 成人もしていない、義務教育を終えたばかりの少女だ。たった一人で生きていくのに、どれほどの苦労があったか。
 そんな彼女を誰ひとり探そうとしなかった。そのことが、彼女の育った環境の醜悪さを浮き彫りにする。
「ろくでもない親だったから。親戚連中みんな、あそことは関わりたくないって、菜々のことも見ないふり。……誰かが助けてやれば良かった。あんなことになるなら」
「菜々は、とても良くしてくれました」
「知っている。菜々の携帯、いっぱい写真あったから。こっちに戻ってきたのは菜々のせい? 仕事も辞めたんだろ」
「菜々のせいじゃないです。わたしは、いつか帰ってきたんだと思います」
 ――君はいつか帰ってくるよ。
 呪いのような凪の言葉がよみがえる。
 菜々が死ななくとも、いつか湊はこの町に戻ってきた。過去を忘れて、捨てたつもりになっても逃げられない。
 湊を形づくったのは、この町であり、海の底のような瞳をした男だった。
「いろいろ協力してくれたのは、菜々のことがあったからですね」
 付き合いの薄かった同級生に対して、やけに親切だとは感じていた。菜々への負い目が理由ならば納得できる。
「それだけじゃないけどな。知り合いがみんな町を出て行って、友達が欲しかったのも嘘じゃない。――慰霊祭の前に、遠田が戻ってきて良かったよ。菜々のところにも顔を出してやって。それが今回の御礼ってことで」
 遼斗は、菜々の眠る墓まで案内すると去った。墓前で手を合わせもしないのは、その資格がないと思っているからだろう。
 人は死んで終わりではない。
 誰かの死は、生きている人間に消えない爪痕を残す。関わりの薄かった従姉の死でさえ、遼斗に深い後悔を残した。
 菜々の墓前に手を合わせた湊は、そのまま遠田家之墓に向かう。
 先客がいたのか、すでに青い紫陽花が飾られていた。
 形見である紫陽花のバレッタを思えば、この花は母の愛した花なのだろう。彼女を知る誰かが供えてくれたのかもしれない。
「ママ」
 母に手を引かれて、墓地まで歩いた日がよみがえる。湊が忘れてしまった記憶を、彼女は死後も手放せない後悔として抱えていた。
 あのとき、母は誰の墓参りに来ていたのか。
 ふと、人の流れが、墓地の一角に固まっていることに気づいた。それぞれの墓に手を合わせた彼らは、墓地の片隅まで歩いて、もう一度手を合わせている。
 彼らの前には、大きな墓碑があった。石の表面には人名が刻まれている。
 湊はこれが何なのか察した。慰霊祭の日に、これだけの人々が手を合わせるのだから間違いない。
 今日このときまでに、海の不幸で亡くなった者たちの名が刻まれている。
「そっか。だから、慰霊祭の日だったんですね」
 墓碑に刻まれた名前のなから、目当てのものを見つけて、湊は唇を噛む。
 バラバラになっていたパズルのピースが嵌るような感覚だった。
 ――母が愛した人は、ここに名を刻まれたのだ。
 だから、彼女は嵐の夜になると、みなと、と名前を呼んでいた。


 墓参りを終えた途端に、外はひどい嵐になった。
 これでは、夜の行事は延期になるかもしれない。海はひどい荒れようで、海岸線で炎をかざすなど自殺行為だ。
 濡れ鼠になる前に、湊は木枯総合病院に入った。
「おばあちゃん」
 病室には潮一人だけだった。他の患者は慰霊祭に合わせて一時帰宅したのだろう。
「どうしたの? こんな日に。見舞いなんて良いから、家で大人しくしていなさい。また海が荒れる。あなた泳げないのだから、よけい危ないでしょう」
「危ないと思うのは、海に呑まれた人を知っているからですか?」
 潮は目を見張った。彼女が思い浮かべている人が誰か、湊はもう知っている。
「ママの結婚、反対していたんですよね。ずっと」
 祖母は湊に背を向けて、窓の外に視線を遣った。遠い日の記憶を重ね合わせるよう、荒れた空を見ていた。
「苦労すると分かっていたもの。汐里には幸せになってもらいたかったのよ。ほんの少しでも、傷ついてほしくなかった」
 凪が、潮のことを過保護と呼んだ意味が、ようやく分かった。
 この人は、娘に幸せになってほしかった。
 哀しいのは、その幸せが、あくまで潮の考える幸福だったことか。彼女は自分の理想どおりの幸福を娘に与えたかったのだ。
「諦めてほしかった、汐里にはもっと良い相手がいるもの。なのに、あの男、何度でも頭を下げにくる。一年、二年の話じゃなかった。認めてもらうまで籍は入れないって。……痺れを切らしたのは汐里の方よ。子どもができたら認めてくれると思ったのかしら。湊ちゃんがお腹にいるから、赦してほしいって」
 それは火に油を注ぐような行為だ。潮の性格からして激怒するに決まっている。母はそれを見越していながらも踏み切ったのだ。
「ママは、おばあちゃんに、おめでとうって言ってもらいたかったんですよ」
 祖母を無視して、結婚に踏み切っても良かったはずだ。それを選ばなかったのは、ただ一人の家族に祝福してほしいという願いだろう。
 サムシング・フォーなんて言っていた二人だ。彼らにとっての花嫁とは、皆から祝福されるべき、此の世で最も幸福な存在なのだ。
「あの男を最後に見たのは、ひどい嵐の夜だった。真っ青な顔で海月館に来て、汐里のことを許してほしいって言ったの。腹が立って追い返したわ。……あのとき、あの男を引き留めていたら、汐里は泣かずに済んだのかしら」
 潮は淡々と語った。決して湊を振り返らない。
「可哀そうで仕方がなかった。相手はもういないのに、日に日にお腹を大きくしていくあの子が。だから、産むのは止めなさいって言ったの。まだ若いから、やり直せるって。……汐里は怒って町を出た。次に会ったのは、あの子が死んだとき。ひどい話よ、あの子は好きに生きて、好きに死んでいったんだもの!」
 咽喉から搾りだすよう、潮は叫ぶ。彼女が大声をあげるところを見たのは初めてだ。
 淡泊な人だと思っていた。他人への興味が薄いと感じていた。湊の目は節穴で、祖母の心など何一つ分かっていなかった。
「でも、いちばん酷いのは私だった。本当だったら幸せになれたのに。私が意地の悪いことをしたから、みんな不幸になった」
「父が死んだのは、おばあちゃんのせいじゃありません」
「そうだとしても、その後は? 自殺するほど汐里が悩んでいるとき何もしなかった。あの子のことなんて知らない振りをして生きていた。私の言うこと聞かないなら、勝手に不幸になれば良いと思った」
 そっと手を伸ばして、潮の肩を抱く。
 彼女は透明な涙を流していた。湊よりも長く生き、様々なことを経験した女性は、ただ静かに泣いている。
 潮は、ずっと誰かに――死んだ母に、責めてもらいたかったのだ。
「ママは、おばあちゃんを恨んでいないです。だって、あなたはママの後悔じゃない」
 潮が自分を赦せなくとも、彼女はもう赦されている。館を訪れた少女が、祖母のことを忘れているのがその証だった。
 祖母の肩に頭を預けて、湊は目を瞑った。
 もしもの可能性を考えればキリがない。祖母が両親のことを認めてさえいれば、祖母の言うところの本当の幸せを手に入れたていたかもしれない。
 だが、そこにはきっと、いまの湊が好きなものや、愛していたものは存在しない。
「教えてくれますか? ママの好きだった人の名前」
 震える声で、彼女はその名を教えてくれた。
 それは湊が予想していたとおりの名前だった。


 海月館では、こぽり、こぽり、と水槽から泡が立ちのぼる。病院から戻ってきた湊に、凪は苦笑いをした。
「名前は見つかったの?」
 湊もつられるように、苦笑いをした。
 見つかった、という表現は正しくない。最初から、湊は彼らの探している《名前》を知っていた。
「ママが好きだった人は、嵐の夜に亡くなりました」
 この町は、思い出したように海に呑まれる。思い出したように、人が死ぬ。
 町を出た母は、慰霊祭の日だけひっそりと帰ってきた。湊を連れて墓参りをする母は、いつも祈るように手を合わせていた。
 彼女は愛する人を奪った海を、そこにいる女神を恨んでいただろう。それでも、祈らずにはいられなかったのだ。愛する人が、どうかの世で幸福になれることを。
 ――みなと。
 嵐の夜になると、母はその名を呼んだ。幼い湊は、それが自分の名だと疑いもしなかったが、本当のところは違ったのだ。
 母が呼んだのは、彼女に何かひとつ青いものを贈ってくれた人。
水都みなと。月島水都という名前だったそうです」
 みなと。字は異なるが、湊と同じ響きを持つ同じ名前だ。
「汐里さんは、この男の名前を探していて。この男は、自分の名前を探していたってことかな? おかしな話だね。どちらも名前くらい知っているだろうに」
 凪は首を捻った。汐里は月島水都の名前を知らないはずもなく、月島に至っては自分の名前だ。最初から知っている名前を探す意味はない。
「違いますよ。二人とも、わたしの名前・・・・・・を探していたんです」
 そこで、ようやく凪は思い至ったらしい。
「そうか。月島水都は、君の名前を知らない。君が生まれる前に死んだから」
 彼は名づけることのできなかった我が子の名前を知りたかったのだ。それが、彼が死んだとき抱いた後悔だった。
「ママも同じように、わたしの名前を探していました。正確には、月島さんが生きていたら、わたしに付けたであろう名前を。……ママは、わたしに名前をつけることができなかったから」
 愛する人を喪い、その人の子どもだけ遺された。日に日に不安を募らせていた彼女は、生まれた子どもに名前を付けることもできなかった。
 おそらく、湊の名前は月島水都が考える約束だったのだ。死んでしまった男が考えていた名は、永遠に知ることができない。
 だから、湊は父親と同じ《みなと》という名前になった。
 海月館に現れた両親は、二人とも我が子の名を探していたのだ。
 冷たい夜の風がいて、書庫の空気が揺れる。薄闇で淡く輝いたクラゲたちが、館に現れた死者を照らしていた。
 少年と少女は、まるで向かい合うように立っている。しかし、彼らの瞳には何も映らない。互いの存在を認識できずにいた。
 以前、死者は変わらない、と凪は言った。
 それは、どれだけ焦がれても、会いたい人には会えない、という意味なのだ。会った時点で、死者は変わってしまう。
 湊は二人の間に立って、片手でそれぞれの手を掴んだ。
 湊にできるのは、この人たちの娘として祈ることだけだ。
 かつて、湊の親友であった菜々は、すべてが無駄ではないと言った。痛みも苦しみも含めたあらゆることが、今の幸福のために必要なことだったと笑った。
 ならば、いまの湊がここにいるのも、二人のおかげだ。
「みなと。これがわたしの名前です。お願い、悔いたりしないで」
 父と同じ名を貰ったことを、光栄に思う。母が愛した人と同じ名前。母を愛した人と同じ名前なのだから。
 みなと、と震える母の唇が、その名を口にする。
 館内が蜃気楼のように揺らいで、夜の海へと変わりゆく。星の明かりも、月の光も飲み込んでしまう暗い海に、灯火のように光が浮かんだ。
 此の世と彼の世をつなぐ橋のように、暗い海に光の道をつくりだす。
 ふたりはそっと湊の手を離して、光に導かれるまま歩いていく。ふたりの視線が交わることはなかったが、同じように一度だけ振り返ってくれた。



5.
 穏やかな風が吹いている。
 海月館の庭には、雨露に濡れた青い花が咲く。大輪の紫陽花は、雨上がりの空の色にも似た、澄んだ青をしていた。
 十年前に凪と眺めた庭は、大人になった彼と見ても美しかった。
「凪くんは、いつもこんな気持ちなんですね」
 海に還った母も、この美しい庭を彼女の愛する《みなと》と眺めたのだろうか。そのときの彼らが、確かに幸福であったことを祈りたい。
「凪くんは、意味のないことだって言いますけど。死者の幸福を祈る人が、何処かにいたって良いじゃないですか。意味がなくても、何も変わらなくても。……凪くんがしていることは、すごく尊いことだって思います」
 死者は還らない。失われた命は戻らない、不幸な最期は覆らない。だが、亡くなった誰かのために、祈りを捧げる者がいることくらい許されるだろう。
 誰かの幸福を祈り、願うことに意味がないとは思えないのだ。
「湊は知らないから、そんなことが言えるだよ。死は、もっと後ろ暗いものだ。悲惨で、醜いものを突き付けられることの方が多い。心が磨り減っていくだけだよ」
「でも、凪くんは止めないんですね。この館にいる。……わたしも、いつかここに来るなら、凪くんに迎えてもらいたい。わたしが死んだら、きっとここに来ますから」
「いつも幸せそうな君に、後悔なんてあるの?」
「凪くんが、わたしの後悔になります」
 凪は火をつけようとしていた煙草を落とした。
 深くて暗い、海の底のような瞳を見つめる。彼の心を二度と見失わないように。
 意地悪で飄々としていて、何を考えているのか分からない少年だった。十年前の湊は、凪のことが好きである反面、彼に捨てられることが恐ろしかった。
 今ならば分かる。凪もまた怖かったのだろう。
 湊に置き去りにされることが、彼にとっての恐怖だ。病弱で、いつも死に怯えていた彼は、湊がどこかへ行ってしまえば追いかけることはできなかった。
「好きでした。何をしても、何処へ行っても、凪くんのことを思い出して。おかしいでしょう? 凪くん以外の楽しいことも幸せなことも、たくさんあったのに。……わたしが死んだら、きっとここに来るの。凪くんがわたしの後悔になるの」
 互いに爪を立て、その傷をなめ合うように寄り添った。幼かった恋は、ひどく身勝手で、相手がいなければ生きていけないと信じていた。
「いまも好きです。あなたのことが」
 すべて間違いだった。互いにひとつだと思っていた二人は、まったくもって一つではなかった。それを分かったいまならば、きっと凪を大切にできる。
「忘れたことはなかったよ。憎らしくて、恨めしくて。なのに、いちばん大事で」
 十年前の凪は、ずっと湊のことを試していた。
 傷つけても傍にいてくれること、罵っても好きだと言ってくれること、それが彼にとっての愛情の確かめ方だった。
 湊はそっと彼を抱きしめた。あの頃と変わらない薄い背中だ。肩口に額を当てて、湊は祈るように腕に力を込める。
「ありがとうございます。待っていてくれて。生きて、いてくれて」
 永遠の別れが訪れても、不思議ではなかった。病がちな少年は、大人になる前に死んでしまう、とずっと言われていた。
「帰って来いと思いながら、帰って来ないかもしれない、とも思っていたんだ。外の世界に出たら、湊は知ってしまう。俺が、どんなに醜いのかを」
「知っています。凪くんは、ひどい人。……でもね、醜くても良いの。凪くんは、あのクラゲにならなくて良いんです」
 一週間で色褪せてしまう、美しいハナガサクラゲ。けれども、美しさを失ってもなお、生きていてくれるならば、それで良かった。
 彼の醜さを、愛しく思っている。湊を傷つけずにはいられなかった弱さを、どうようもなく愛していた。
「君を愛して、君に優しくできる人なんて、俺以外にもたくさんいるよ」
「でも、わたしが優しくしたかったのも、一緒に苦しんでも良いと思えたのも、凪くんだけでした」
 十年前、凪が囁いた呪いがよみがえる。
 ――湊、きっと君は帰って来る。
 何処へ行っても、湊は必ず凪の隣に帰るのだろう。

 ●〇〇●〇〇●

 窓辺から差し込んで月明かりが、ベッドで眠る女を照らしている。
 彼女の髪を撫でながら、凪は灰皿に煙草を押しつけた。立ち込める煙は、昔、凪の命を削りとるものだったが、今となっては害を成さない。
 あの頃欲しかった健康な身体など、今さら欲しくはなかった。凪はただ、十年前と同じように、湊と二人きり生きていられたら、それだけで良かったのだ。
 この手に戻ってくることだけを願いならが、憎み続けた人。
 どれほど近くても、本当の意味では手に入らないと知っている。凪と違って、彼女には美しい脚がある。凪の手の届かない何処かに駆けて、凪の知らない男と幸せになっても、追いかけることはできない。
「いっそ、殺してしまいたいよ」
 この女を殺したら、苦しみも痛みもない安らかな日々を手に入れることができる。
 いつも、凪の心には相反する感情があった。湊を大事にしてあげたい一方で、消えない傷をつけたかった。
 凪よりも彼女を愛し、大事にできる人間など腐るほどいる。
 腐るほどいるというのに、こんな凪の手をとってくれた。それがどれだけ凪の心を満たし、惨めにしたのか、彼女には理解できない。
「愛しているよ。君だけは、神様にだって渡さない」
 すべてを奪われても、この女だけは凪のものだ。



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