第四章 ふたり、海の底
ショートケーキの苺、新しい本、可愛いぬいぐるみ。
『あげます、凪くんに』
いつだって、湊は大事なものを差し出してくれた。
大して欲しくもないのに、凪はいつも彼女の持っている何かをねだって、譲ってもらうことを繰り返した。
はじめは嬉しかった。凪が願えば、どんな我儘を叶えてくれる彼女が愛しかった。
しかし、そのうち凪は不安になった。
可愛い笑顔で、何もかも差し出してくれる女の子。どこまでなら、彼女は赦してくれるのだろうか。
湊の心を試すように、傷つけることを止められなかった。どれだけ傷つけても傍にいてくれるのなら、それこそが愛の証だと信じた。
一番では満足できなかった。ぜんぶ欲しかった。
凪のことだけを、愛してほしかったのだ。
病室の白いカーテンが揺れて、月明かりが差し込んでいる。湊は涙を流しながら、すがるように凪の名を呼んでいた。
「湊」
乾いて切れてしまった唇で、少女を呼んだ。海の底みたい、と彼女がたとえた、暗く青い瞳で、責めるように彼女を見つめる。
ぜんぶあげる、と湊は言った。
凪が傍にいてくれるなら、凪にぜんぶあげる、と。
だから、すべてを失くしても、この女の子だけは凪のものにしたかった。置き去りになんてしたくなかった。
そうして、十九歳だった凪は、彼女に癒えることのない傷をつけた。この恋が、永遠に解けることのない呪いとなりますように、と願ったのだ。
1.
海月館の外では、しんしんと雪が降っていた。月明かりを帯びた白雪が、庭に薄化粧を施している。
気づけば、もう二月の半ばになる。
湊が故郷に戻ってから、一年近くの月日が流れた。
「凪くん、あと少しで誕生日ですね」
長椅子でスケジュール帳を開きながら、湊は凪に話しかけた。
「もう、そんな時期なんだね」
本棚を眺めていた彼は、湊に言われて、はじめて誕生日のことを思い出したらしい。
「お祝い何が良いですか? 行きたい場所があるなら、旅行とかにしましょうか。凪くんとは、遠出したことなかったでしょう?」
「旅行、ね。そんなお金あるの?」
「この前、はじめての給料日だったんです。仕事見つかって良かったです」
年が明けてから、湊は隣町の会社で働きはじめている。ひとまず数か月の契約だが、その間の収入でも、ふたり分の旅費くらいは出せるだろう。
「俺はずっと、面接落ちますように、って祈っていたんだけどね」
「ひとの不幸を祈らないでください。ちゃんと欲しいもの教えてくださいね? 凪くんって欲がないから、昔からプレゼントとか困るんです」
「また変なこと言っている。欲しいものなら、昔からたくさんあったよ。湊の持っているもの、いつも欲しがっていたの忘れた?」
たしかに、凪はしきりに湊のものを欲しがった。ちょうだい、と言われたのは一度や二度の話ではなく、その度に、湊は何もかも差し出した。
「でも。あれってぜんぶ、本当に欲しいものではなかったんですよね?」
背後から伸びてきた腕が、湊の両肩から首にまわった。しなだれかかってきた男の身体は、小柄で痩身であることもあって、子どものように軽い。
「分かっていたんだ?」
「今になって思うと、そうだったんじゃないかな、と。だって、わたしがあげたもの、すぐに壊したり、失くしたりして、大事にしてくれませんでした」
「そこに気づくあたり、可愛げがなくなったね」
「良いんです、可愛いの担当は凪くんなので。三十には見えません。学生服を着ても違和感ありませんよ、きっと」
「まだ三十じゃないよ。次で二十九」
「ロウソクの数に気をつけますね」
「二十九本も差したら、ケーキ崩れるよ。あと、この年になって、そういうのは恥ずかしいかな。実家でも、そんなお祝いしたことないよ」
実家。海月館のことではなく、凪の生まれた家のことだ。
「もしかして、誕生日、まだ家族とお祝いしています?」
子どもの頃、凪の誕生日を祝えるのは、翌日になってからだった。家族水入らずを邪魔するな、と、凪の兄からも釘を刺されていた。
「まさか。家族とは連絡とっていない、って言ったよね? こんな訳の分からない仕事しているなんて言ったら倒れるよ。あの人たちは現実主義だから」
「
凪には年の離れた兄がいる。顔立ちはそっくりなのだが、人懐こい凪と違って、あまり笑わない人だった。
「そう。湊の苦手な満兄さん」
「あの人、わたしのことが大嫌いだったんです。苦手にもなります」
顔を合わせる度に、嫌味を言われた記憶しかない。凪の病室で鉢合わせになると、気まずくて仕方なかった。
満にとっての湊は、大事な弟についた悪い虫だった。
「たしかに、湊には当たりが強かったね。……でも、本当は優しくて、とっても情が深い人なんだよ。冷たそうに見えるけど、誰かを切り捨てることができない。俺のことも大切にしてくれた。俺は、あの人を大切にできなかったけれど」
凪が生まれたのは、絵に描いたように幸せな家庭だった。しっかり者で情の深い両親、聡明な兄、病弱だけれど健気な弟。
家族の前では、凪は我儘ひとつ言わず、穏やかで優しい少年の皮を被り続けた。大事な家族に心配をかけたくなかったのだろう。
蚊帳の外にいた湊は、その美しく、愛情に満ちた家庭を羨んだこともある。湊には与えられることのないものだと知っていたから、なおのこと。
だから、家族と連絡をとっていない、という凪の言葉が信じられなかった。湊が町を離れていた十年の間、家族が仲違いする事件が起きたのだろうか。
「ご実家に戻らないのなら、誕生日は空けておいてくださいね。今年は日曜日だから、わたしもお休みです。御祝いしましょう、二人で」
はじめて、誕生日を一緒に過ごすことができる。凪の家族には悪いが、心から嬉しいと思ってしまった。
「お祝いなんて、本当は要らないんだけどね。欲しいものは、もう貰っているから」
「わたし、何かあげました?」
凪は嬉しそうに笑うだけで、答えを教えてはくれなかった。
冷たい冬風が、駅のホームを吹き抜けた。木枯町の駅名が書かれた看板が、薄っすら雪化粧をしている。
「油断した。今時期って、こんな寒いのか」
黒いニットにマフラーを巻いた三上遼斗(みかみりょうと)は、寒さのあまり歯を鳴らした。手袋をしていない手は真っ赤になっている。
豪雪地帯ほど積もることはないが、冬になれば雪がちらつく土地だ。海沿いということもあって風が強く、実際の気温より体感温度は低いかもしれない。
「コート、どうしたんですか?」
しっかり着込んだ湊は、思わず苦笑いをした。屋根もない、小さな駅のホームだ。遼斗のような薄着をしていたら、寒いに決まっている。
「いつもの癖で忘れた。車で通勤しているからコート要らないんだよ。病院の駐車場くらいしか歩かないし」
「そっか、いつも車なんですね。今日は電車で付き合わせてしまって、すみません」
木枯町は小さな自治体なので、ショッピングモールのような場所はない。
そういった買い物をするとなると、大きな都市まで出る必要があった。高速道路が近くを通っているので、ほとんどの住民は車で移動するのだが、あいにくと湊は車を持っていない。
「気にしないで。俺も、たまには電車使いたかったし、買い物にも行きたかったから。――あけましておめでとう、は遅すぎるか? 前に会ったの年末だったよな、たしか」
「おばあちゃんの病室で会ったときが、たぶん最後ですね。仕事はじめたので、ちょっと忙しくて」
夏の一件以来、遼斗とは連絡をとっていた。たまに会って、湊の亡くなった親友であり、遼斗の従姉だった女性――菜々の話をする。
「そっか、仕事見つかったんだよな。おめでとう」
「ありがとうございます。知り合いの誕生日までに見つかって良かったです。新しい仕事のお金で、プレゼントあげたかったんです」
新しい職も、凪のおかげで得たようなものだ。彼が世話をしてくれなかったから、きっと今も塞ぎ込んだままで、就職活動どころではなかった。
「プレゼント選ぶの、手伝えば良いんだよな? ちょっと意外だった。遠田って、全部ひとりで決めるタイプだと思っていたから」
「今回は、人の意見も聞きたくて。……欲しいものとか、あんまり言わない人なんです。でも、喜んでほしいから」
「彼氏か」
遼斗は唇をつりあげる。その顔は、湊をからかうときの菜々とそっくりだった。ろくに付き合いはなかったと言うが、やはり血の繋がりを感じずにはいられない。
最初はともかく、いま遼斗と友人のような関係でいられるのは、菜々と似ているからでもあった。
「なんで、分かるんですか?」
「遠田、すぐ顔に出るから。喜んでもらえると良いな」
湊は頷いて、赤くなった頬を隠すようにマフラーを引きあげる。
欲しいものは、もう貰っている、と凪は言った。しかし、湊は湊で、何か形あるものを贈りたかった。
「そういえば、おばあ様は知っているのか? その人のこと」
思わず、湊は手提げ鞄を落とした。
「……忘れていました。おばあちゃんに言うの」
「言った方が良い、その方が安心するだろうから。遠田のおばあ様、最近はあんまり調子良くないみたいだ」
「御見舞いに行ったときは、いつもと変わらない様子でしたけど」
祖母のもとには、できる限り顔を出すようにしている。この前会ったときは元気そうだったが、実際は不調が続いているのだろうか。
「親戚の人から聞いていない? ほら、いろいろ手続してくれる男の人」
おそらく、凪のことだろう。湊は首を横に振った。
「おばあちゃんたち、隠したがっているみたいで。わたし、こっちに戻ってきてから何も教えてもらえないんです。十年も戻らなかった、薄情な孫ですから」
「隠したいのは、遠田を薄情だと思っているからじゃないだろ。遠田の家族って、おばあ様だけで、でも、あの人は遠田を置いていく。こういうこと言いたくないけど、亡くなった後のことも含めて、いろいろ悩んでいるんだと思う」
耳に痛い言葉だった。
思い返すと、湊はいつも置いていかれる側だった。
父親であった人は、湊の名を知ることもなく海に還った。母は過去を想うあまり、自ら命を絶った。親友だった菜々は殺された。
遠くないうちに、祖母も湊を置いて、死出の旅に向かうのだ。
「慣れませんね、何度目でも」
子どもの頃、影で呼ばれていた《死神》という渾名は、きっと間違いではない。
湊自身、時折、自分のことを死神のように思ってしまう。身内や親友、近しい人ほど、湊を置いて死んでいった。
「何か言ったか?」
「いいえ。いろいろ心配してくれて、ありがとうございます。次におばあちゃんに会ったとき、ちゃんと話したいと思います」
結局、凪へのプレゼントは、紫陽花の彫られたガラス製の灰皿にした。遼斗の意見を聞くつもりだったのに、結局、見つけた瞬間に決めてしまった。
紫陽花は凪の好きな花で、煙草も今の彼にとっては好ましいものだから。
湊は、煙草を吸う凪のことを苦手に思っている。むかしの病弱さを知っているから、どうしても不安になってしまうのだ。
けれども、それは湊が勝手に不安になっているだけだった。
昔は煙草など認められなかったであろう彼が、喫煙を許されるくらい健康になった。そのことを、きっと喜ぶべきなのだろう。
海月館に戻ったときは、すでに日が暮れていた。
教会の横にある石段を、一段、一段と上っていく。頂上にそびええる古びた鳥居、その先にある海月館のことを、湊は彼の世と此の世の境のように思うことがあった。
生と死が混じり合う場所だから、きっと、あの館には死者が訪れるのだ。
玄関扉を開ければ、いつもどおり書庫には凪の姿があった。
「遅かったね。連絡しても反応ないから、何かあったかと思った」
スマートフォンには、いくつか凪からのメッセージが入っていた。帰りが遅くなったことを心配してくれたようだ。
少々過保護だと思ったが、心配してもらえるのは嬉しかった。
「ごめんなさい。これ、お土産です」
今日行ったショッピングモールの最上階には、小さな水族館がある。規模を考えるとペットショップと大して変わらないのだが、つい立ち寄ってしまった。
「よりにもよってクラゲ? 毎日見ているのに」
クラゲを象ったクッキーだ。アイシングされた模様が意外と凝っていて、売り場では人気商品として紹介されていた。
「綺麗でしょう? クラゲ」
「あんまり好きじゃない。気味が悪いから」
「毎晩見ているのに?」
書庫の水槽では、いつもクラゲが揺蕩っている。
「毎晩見ても、気味が悪いと思うよ。湊が戻って来てから、おかしな種類になっているときも多いから」
「そういうものですかね?」
種類によっては、触手が毒々しい色をしていたり、暗がりで発光したり、同じクラゲでも印象はずいぶん異なる。
湊はクラゲを眺めることが好きで、綺麗だとも思うが、気持ち悪くて直視できない人間はいるかもしれない。
「ずっと、この普通のクラゲでいてほしい」
「ミズクラゲ? いちばん無難な姿ですよね、漢字にもぴったりです。クラゲって《海の月》と書くでしょう?」
今日の水槽は、ミズクラゲが浮かんでいた。クラゲと言って誰もが思い浮かべるのが、この青白く、透き通るように美しいクラゲだろう。
「たしかに月みたいだ」
「英語でもそうなんですよ。ミズクラゲは
「ああ。そのままだね」
「ついでに言うと、
そう考えると、木枯町の海神がクラゲの姿をしていることも腑に落ちる。死者が海神の御許に向かうとき、その道を照らすクラゲは月のように輝く。
そんな風に思っている湊を余所に、凪は違うことを考えていたらしい。
「海に浮かぶ月って、水に映った月みたいなものだよね。クラゲは、そもそも水の月とも書くことがあるから」
「水に映った月?」
「幻ってことだよ。そこにあるようで、本当は何処にもないもの。俺がクラゲを苦手に思うのは、そういうところ。ぜんぶ幻みたいで怖いんだよ」
そのとき、電話の鳴る音が響いた。スマートフォンではなく、館に引かれている固定電話だった。
「また勧誘ですかね?」
固定電話は、あまり使われない。たまに祖母の知り合いから電話が来ることもあるが、たいていはネット回線や宝飾関係のセールス電話だ。
「はい、遠田です」
電話口の人物は、木枯総合病院と言った。驚いた湊のことなど知る由もなく、相手は努めて冷静に事情を話しはじめる。
話を聞きながら、湊の頭は真っ白になった。
まともに対応できないまま、通話は切れた。落ちつかなくてはならないのに、指先まで冷えてしまって、全身が小刻みに震える。
病院からの連絡は、祖母の危篤を告げるものだった。
容体が悪化して、集中治療室に移ったという。覚悟してください、という言葉が耳に残った。
「おばあちゃんが」
少ない言葉で、凪はすべてを察したらしい。
「病院までついて行こうか?」
「……いえ、凪くんは残ってください。お客さんが来るかもしれませんから」
これから訪れる夜は、死者たちの時間だった。忘れられない後悔を抱える誰かのために、凪はここにいるべきだ。
青ざめた湊を、凪はそっと抱きしめる。
「大丈夫。まだ、あの人は死なないよ」
根拠のない慰めだ。だが、凪がそう言ってくれただけで、何とか立っていられるような気がした。
2.
病院に駆けつけたとき、祖母は面会謝絶だった。
関係者から説明を受けるものの、頭は上手く働いてくれない。つい先日まで笑いかけてくれた人が、死の淵をさまよっていることを認めたくない。
「身内に連絡したと言っていたから、誰かと思えば。よりにもよって、君か?」
人気のない待合室で、湊は振り返った。
深夜の病院と不釣り合いな、ビジネススーツ姿の男性だ。仕事帰りに駆けつけたのか、ネクタイは緩んで、袖口が少し皴になっていた。
「
凪とよく似た面差しだが、印象はまるで違う。いつも微笑んでいた凪と違って、彼は滅多に笑わない人だった。
遠田満は、凪の兄にあたる男だ。
湊や凪とは年が離れていたので、一緒に遊んだ記憶はない。だが、いつも湊を目の敵にする人だった。
「まさか木枯町に帰っていたとは。潮さん、わざと隠していたな」
満は恨めしげに唇を歪める。今はもう、三十の半ばも過ぎただろう。それなりに歳を重ねているが、冷たい表情は、あの頃と変わらなかった。
「満さんこそ、町を出たんじゃないんですか?」
「町にはもう住んでいない。潮さんの病状が悪化した、と連絡が来たから、駆けつけただけだ。両親と違って、私はそう離れたところにいるわけではないから」
満が言った地名は、木枯町から八つほど離れた駅だった。車ならば、一時間もかからない距離にある。
「ありがとうございます、峠は越えたみたいなので」
「知っている。医者から聞いた」
「……来てくださるの、初めてじゃないですか? もしかして」
満は呆れたように、わざとらしい溜息をついた。
「君が木枯町にいないとき、誰が潮さんの助けをしていたと思うんだ? あの人は自分のことは自分でしたがるが、足も悪いし、年齢を考えれば限界があるだろう」
湊は口をつぐんだ。満の言うとおりで、湊が帰ってくるまで、祖母は一人で生きていたわけではない。
湊は、祖母の助けをしていたのは、海月館にいる凪だけと思い込んでいた。しかし、実際は違ったのだろう。
「詳しい病状は聞いているか? 潮さんは隠したいだろうが、もう限界だろう」
「覚悟してください、とは言われました」
「そうか。長くはないと思っていたが。君が町に戻ってきた途端に、これか」
「……わたしのせいだって、言いたいんですか」
暗に、湊が町に帰ってきたせいで祖母が死ぬ、と満は言っているのだ。
「君は、昔から死神のような子だったからな。君の周りにいる人間は、みんな死んでいく。どうして、今さら町に戻ってきた? ――
湊は呼吸を忘れた。何を言われたのか、まったく理解できなかった。
「何、言って」
「それとも、凪がいないから戻ってきたのか? 今さら戻ってくるなら、どうして、あのとき凪と一緒にいてくれなかった」
「あのとき……? 凪くんは、今もこの町にいるじゃないですか」
両肩を強く掴まれる。そのまま近くの壁に叩きつけられる。満の指が肩に食いこんで、ギチギチと骨が軋む。
「凪は死んだ! 俺の弟は、君が殺したようなものだろう?」
金縛りにあったかのように、瞬きひとつできなかった。
凪の兄、凪の家族である人は、彼が死んだなど冗談でも口にしない。いつだって、彼らは凪が死ぬことを恐れていたのだ。
――
湊は腕を振りあげて、満の身体を押し返した。
病院を飛び出して、海月館までの道のりを駆ける。石段を登って、雪化粧した紫陽花の庭を抜けて、館へと飛びこんだ。
薄暗い書庫で、凪は水槽の前に立っていた。
宙を見上げながら煙草をふかす彼は、どこを見ているのか分からない、途方に暮れたような目をしていた。
おぼつかない足取りで、彼のもとに向かう。
「どうしたの? そんな泣きそうな顔をして」
満は嘘つきだ。今だって、凪はこの館にいるではないか。
「凪くんは、ここにいますよね?」
凪は煙草を床に落とすと、ゆっくり手を伸ばしてきた。
湊の手に絡みついたのは、白く細い指だった。真冬の海のように冷たくて、およそ生きている人間の体温とは思えなかった。
窓辺から月明かりが差し込んで、水槽を照らす。月光に輝くクラゲたちは、融け合い、交わり合うように触手を絡めていた。
「やっと思い出してくれたんだね。俺が何なのか」
血の気のない唇が、美しい笑みをつくる。
めまいと、ひどい頭痛がする。火にくべた鉤針で、脳みそをかき混ぜられているかのようだった。
思い出してはいけない。思い出したら、おかしくなってしまう。
だが、頭はひとりでに嫌なことばかり結びつけていく。
慰霊祭のとき、遠田家之墓には、青い紫陽花が供されていた。あれはきっと故人が愛した花で、墓に眠るのは、その青い花を愛した人だ。
あのときの湊は、それが母親に捧げられた花と勘違いした。真っ青な紫陽花が好きだった人を、他にも知っていたのに。
湊を閉じ込めるように、凪は水槽に手をつく。囲い込まれた湊は、力なく座り込んでしまう。
暗くて深い、海の底のような瞳に魅入られて、呼吸さえも忘れてしまう。凪は微笑んで、そっと水槽に額を寄せた。
「ねえ、湊。一緒に死んでくれる?」
その台詞をきっかけに、走馬灯のように記憶がよみがえった。
十年前、彼は同じ言葉を口にした。
●〇〇●〇〇●
窓辺で、白いカーテンが揺れている。
夜の病室は静まりかえって、まるで俺と湊の二人きり、世界から取り残されてしまったかのようだった。
「俺は死ぬんだって。最初から、そう決まっていたんだよ」
子どもの頃から、いつ尽きるかも分からぬ命に怯えていた。
不自由ばかり強いられて、苦しみばかり与えられて、明日は目覚めることができないかもしれない、と恐怖していた。
それでも、ひとつ、またひとつと年齢を重ねるごとに、未来に期待した。
もしかしたら、湊と生きる未来が手に入るかもしれない。
大好きな女の子を、幸福な花嫁にしてあげられるかもしれない。
そのときは、もう一度、青い花を贈ろう。純白のドレスを着て、青い花を飾った人は、きっと世界でいちばん美しく、愛しい顔をしているはずだ。
ばかみたいに、未来を夢見てしまったのだ。そんなものは幻想で、この命は、最初から尽きることを運命づけられていたのに。
月明かりが、セーラー服の少女を照らしている。黒々とした瞳からは、大粒の涙が零れている。
彼女の瞳が、昔からずっと苦手だった。潤んだその瞳に見つめられると、どうすれば良いのか分からなくなる。
優しくしてあげたいのに、ひどく傷つけてしまいたい。
「俺が死んだら、湊はどうするのかな。何処か遠くに行ってしまう?」
「凪くん」
冷え切った指で、湊の手を掴んだ。細くて小さな手を、ずっと離したくないと思った。彼女が何処か遠くへ行ってしまうのが、ずっと怖かったのだ。
他の何を奪われても、この子だけは欲しかった。
「湊。君はきっと、帰って来るよ。……何処か遠くに行っても、必ず帰って来て」
まるで呪いの言葉だ。けれども、言わずにはいられなかった。
「帰って、来なかったら?」
それは俺の知らない場所で、俺のことを忘れて、幸せに生きていくということだ。そんなこと赦せるはずなかった。
彼女が何処か遠くに行って、帰って来ないと言うのならば――。
「ねえ、湊。一緒に死んでくれる?」
最後まで連れて行こう。ここで尽きる命なら、本当に欲しかったものくらい、道連れにしても、きっと赦されるはずだ。
神様。俺から、すべて奪うならば。
せめて、この女の子だけは、俺に与えてほしい。
●〇〇●〇〇●
凪の腕のなかで、湊は震えることしかできなかった。
あの病室を知っていた。心の奥底に沈めていた記憶が、泡のように浮かんできた。
凪はきつく湊を抱きしめた。その身体は実体を持っているのに、湊にはもう、得体の知れない何かとしか思えなかった。
――海月館では、死者は実体を持つ。
最初から実体を持ち、この館に居座っていた死者がいたことに、湊は気づくことができなかった。
「ぜんぶ諦めた、我慢したよ。手に入らないものばかりだった。俺の命も、人生も、最初からダメになるって決まっていた。海神がそうした。……でも、ひとつくらい俺のもとに残っても良いだろう? 湊くらい、俺のものにしたって赦されるはずだ」
あの夜、凪は死んだ。
湊と一緒に笑っていた、湊の愛した少年は、もう二度と戻らない。
暗くて深い、青を知っている。それは凪の瞳の色であり、十五歳だった湊が沈んでいった絶望の色だ。
「君は帰ってきた。俺のもとに」
十年前の凪が遺した呪いがよみがえる。
死んでしまった彼は、町を出ていった湊を、どんな気持ちで見送ったのだろう。
十年が流れた。大人になれなかった十九際の少年は、大人になってしまった湊をどんな気持ちで迎えたのだろう。
いつだって、湊を傷つけるのは凪だった。それは同時に、彼を傷つけるのも湊だったということなのかもしれない。
「帰ってきたのに、どうして、俺はまだ苦しいのかな。いつまで、こんな惨めで、醜いままなんだろう?」
そっと唇が触れた。塩辛い味がして、湊は自分が泣いていることに気づいた。
ここにいるのに、と思った。
その唇は熱を持たなくとも、遠い日の凪のままだった。一緒にいてあげる、と言って、手を差し伸べてくれた男の子のまま、湊を抱きしめてくれている。
どうして、こんなにも心が痛くて、息ができないのだろう。
凪の手を振り払って、湊は海月館を飛び出した。あの夜、一緒に死んでほしい、と願った彼を置き去りにしたように。
夜の墓地は、眠ったように静かだった。
スマートフォンで遠田家之墓を照らせば、大振りの紫陽花が供されていた。季節外れの紫陽花をわざわざ仕入れて、墓前に捧げた人がいる。
紫陽花を好きだったのは、凪だった。海月館の庭で、ふたり紫陽花を眺めた日々が、鮮やかによみがえる。
「いまさら、どの面さげて墓参りなんてする」
「……満さん」
振り返った先に、凪の兄は立っていた。湊のいない十年間、墓前に紫陽花を供え続けた人は、怒りに声を震わせていた。
「最期に、凪がなんて言ったか教えてやる。あの子は、君の名前を呼んで、君に会いたいと願いながら死んだ。私や両親のことなんて見向きもせず。あれほど凪に愛されながら、凪の死に立ち会いもしなかった、薄情な君の名を」
一緒に死んで、と言った凪を想うと、息ができなくなる。
いつ訪れるか分からない死に怯えていた彼は、誰とも分かち合えない痛みを抱えていた。
そして、それが海神の与えたものだと、彼は最期になって知ったのだ。
理不尽だったろう。その理不尽を与えた海神を憎んだ少年は、海神の一部となった。生と死の循環、海神という仕組みを動かす歯車となった。
「凪が生まれたとき、潮さんは言った。この子は大人になる前に死ぬでしょう、海神に選ばれたから、と。バカげた話だ、誰がそんな言葉を信じる? けれども、弟は訳の分からない予言のとおり死んでしまった」
満は怒りを堪えるように、拳を強く握っていた。
「死ぬなら、凪以外にふさわしい人間がいただろう! 君が死ねば良かった。君が死んでも、誰も苦しまなかった。でも、凪は違う! あの子は、私たち家族にとって一番の宝物だった」
満の言うとおりだ。湊が死んでも苦しむ人はいない。心から湊を案じてくれるはずの人たちは、湊を置いて死んでいったのだから。
「わたしだって、凪くんが苦しいのが嫌でした。凪くんが痛いのが、いちばん怖かったんです。……っ、満さんに、何が分かるの⁉ あなたには、凪くん以外にも大事なものがあって、大事にできたものがあったじゃないですか! 誰も、あなたを置き去りにしなかった!」
凪が生まれたのは、絵に描いたような幸せな家庭だった。しっかり者で情の深い両親、聡明な兄、病弱だけれど健気な弟。
湊には手に入らない幸福が、そこにはあったのだ。
羨ましくて、妬ましかった。あんなにも幸せならば、ひとつくらい分けてほしいとも願った。
そのひとつだけ――凪だけが、湊が心から欲しいものだった。皆が、湊を置き去りにしていくなかで、彼だけが約束をしてくれた。
「凪くんだけでした! ずっと。ずっと一緒にいるって、約束してくれたのは」
記憶がよみがえってしまう。鍵をかけて、知らぬふりをしていた痛みが、暗く深い海底から浮かび上がってくる。
ベッドに転がされた薄っぺらな身体と、白布に隠された美しい貌。何度呼びかけても、あのときの彼は、もう湊の名を呼んでくれなかった。
満に背を向けて、墓地を飛び出す。街灯の少ない坂道を駆け下りて、海端へと出れば、あの日の記憶が走馬灯のように駆けめぐる。
夜の香りがした潮風と、冷たい海の色を覚えている。
震える身体を叱りつけて、海を覗き込む。消波ブロックに足を伸ばして、そのまま冷たい海水に触れたとき、湊は声にならない悲鳴をあげた。
――全部くれるなら、ずっと一緒にいてあげる。絶対に置いていったりしない。
そう約束してくれた人を、湊は裏切ったのだ。
一緒に死んで、と言った凪の願いを叶えることができなかった。ただ一人きり、失意の底で死なせてしまった。
十五歳の湊は、凪の死を受け止めることができなかった。
冷たくなった凪の遺体に背を向けて、夜の海に向かった。彼を裏切った罪悪感に押しつぶされて、海へと飛び込んだ。
港の人間が通報しなければ、そのまま溺れて、助かることはなかった。
海から引きあげられた湊は、凪の死を忘れてしまった。
忘れたままにさせたかった祖母は、湊を町から追い出して、遠くにある全寮制の高校に入れた。町に呼び寄せることもしなかった。
それが十年前の真実だった。
遠田凪は、湊が好きだった人は、とうの昔に死んでいる。
3.
紫陽花が、庭のそこかしこに咲いている。梅雨の曇り空を晴らすような、冴え冴えとした美しい青だった。
中学校から帰宅するなり、湊は黒いセーラー服のまま庭に飛びこんだ。東屋に少年の姿を見つけて、じゃれるように肩に飛びつく。
「今日、結婚式だったみたいですよ」
東屋で本を読んでいた凪は、ゆっくり顔をあげる。
「結婚式。すぐ下の教会?」
「はい。花嫁さんが出てくるところが、ちょうど見えたんです。すごく綺麗でしたよ。頭にね、青いリボンを飾っていて」
今日の花嫁は、髪に青いリボンを編み込んでいた。白いウエディングドレスより、その青の方が、不思議と印象に残った。
「サムシング・フォーのひとつかな?」
「ぜんぶ揃えたら、幸せになれるってやつですね」
凪は本を閉じると、東屋の外に出た。庭に咲いた紫陽花をひとつ、萼ごと乱暴に摘んでしまう。
「
まるで花冠のように、湊の頭に紫陽花が載せられる。
「予約ってことで良いかな?」
意味を理解して、湊は声にならない悲鳴をあげる。恥ずかしくて両手で顔を覆うと、楽しげな笑い声が降ってくる。
「ずっと、一緒にいてくれるんですか?」
「湊が嫌じゃないなら、ずっと一緒にいるよ」
「死がふたりを別つまで?」
結婚式の誓いを思い出す。病めるときも健やかなるときも――どんなときも、いつか死がふたりを別つまで離れない。
「違うよ。死んでからもずっと一緒だ」
そのときの凪が、どんな顔をしていたのか。終ぞ、湊が知ることはなかった。
●〇〇●〇〇●
祖母との面会が許されたのは、彼女が危篤状態になった数日後のことだった。
病室を訪れると、彼女はいつもどおり湊を迎えた。
峠は越えたという医師の言葉は、きっと嘘ではない。ただ、もう長くないというのも、本当のことなのだろう。
湊がこの町に戻る前から、祖母はずっと自分の死を覚悟していたはずだ。
「ごめんなさいね。仕事も始まって、たいへんな時期だったのに」
「仕事のことは気にしないでください。お休み貰っているので」
身内の危篤だ。良い顔はされなかったが、渋々、休みは認められた。ただ、きっと今の契約期間が終わったら、契約の更新はされないだろう。
「凪のところには、帰っている?」
「いいえ。少し頭を冷やしているところです」
さすがに海月館に戻る勇気はなく、近隣のホテルを転々としていた。
「そう。ぜんぶ思い出したのね?」
「満さんと会ったんです」
祖母は苦く笑った。
「満なら、きっと本当のことだけ話したのでしょうね。あの子も、あとで見舞いに来てくれるみたいなの。仕事も忙しいでしょうし、ご家庭もあるのに。また面倒をかけてしまったわ」
「満さん、ずっとおばあちゃんのこと助けてくれていたんですね」
以前、遼斗が言っていた《いろいろ手続してくれる男の人》は、凪ではなく満のことだったのだ。
湊が知らなかっただけで、満はずっと祖母を気にかけてくれた。
「あの子は借りを返しているだけ、と言うのでしょうけどね。――凪が生きていた頃の入院費用とか、そういったお金、ぜんぶ私が出していたの。満は律儀な子だから、それで私の面倒まで見ているのよ。本当は憎いでしょうに」
今思えば、凪の生まれた家は特別裕福だったわけではない。両親も一般的な会社員で、共働きとはいえ、凪のような子どもを支えられるほどの収入はなかった。
「おばあちゃんがお金を出したのは、凪くんが病弱だった原因が、海神にあったからですか?」
凪は、たまたま弱く生まれついたのではない。これと言った病名もなく苦しみ続けた彼は、はじめから弱く生まれるよう運命づけられていた。
「死者と海神を繋ぐのは、同じ死者でなければ。凪の役目を担った人は、みんなそうだったの。――死んだ人の後悔なんて、死んだ人にしか共感できないでしょう?」
死者の後悔を紐解くならば、それは同じ死者でなければならない。かつて命を与えられて、死んでも忘れることのできない後悔をした者だけが、その役目を果たせる。
「最初から、凪くんは死ぬことになっていたんですね」
祖母は視線を逸らした。それが何よりもの肯定だった。
「ねえ、湊ちゃん。あなたは、クラゲを見るのが好きなのよね? 前に教えてもらったのだけど、水族館では、他のクラゲのエサとなるために飼育されるクラゲがいるそうよ。凪は、そのクラゲと似ているの」
「はじめから食べられるために。死ぬために、生まれたんですか?」
菜々と訪れた水族館。クラゲの企画展示を思い出した。
あのとき菜々は言った。はじめから食べられると決まっていて、エサにしかなれないならば、そんな命に生まれた意味はあるのか、と。
「私の旦那さんと同じ。擦り切れて、襤褸切れみたいになって、役目に耐えられなくなると代わりが生まれる。そういう仕組みになっているのよ」
死者の後悔は、死者にしか共感できない。
しかし、共感とはある種の暴力である。死んでも忘れることのできなかった後悔に触れ続ければ、心は擦り切れて、限界は訪れる。
死者は変わらない。しかし。死者の後悔に触れる凪だけは、おそらく例外だ。
「凪は海神に選ばれた。その仕組みの一部となった。あの子は何処にも行けない。壊れるまで、あの場所にいるのよ」
ひどい話だった。だが、それを訴えたところで、海神に意志などない。彼女は慈悲深い神ではなく、あるべきものをあるべき場所に導く仕組みでしかない。
そんな存在に、いったいどんな恨み事が言える。
「凪が好き? 今も。でも、湊ちゃんは凪がいなくても生きていけるわ」
離れていた十年間が、まさしく凪のいない人生だった。凪以外の楽しいことも、幸せなことも、此の世にはたくさんあった。
いま彼の手を離せば、そうやって生きていくことができる。
「死者を愛するのは不毛よ。誰も認めてくれない。……何度も、おかしくなった私が夢を見ているだけと思った。大好きな人と一緒にいるのに、ずっと、ずっと地獄にいるみたいだった」
祖父について、湊は何も知らない。
だが、凪と同じだったならば、若くして亡くなったのだろう。祖母が娘に固執し、過保護になったのも、娘こそが夫の生きた証だったからかもしれない。
祖母は死者を愛し、その幻のような人に寄り添った。湊を産んだ母も、死んでしまった男を愛し、その愛に殉じて命を絶った。
彼女たちがそうであったように、湊も喪われた人を愛している。
「凪くんと一緒なら、地獄でも良いんです」
海の底には、きっと地獄がある。
死者の後悔が渦巻くそこで、凪はただひとり、不条理な神の一部となってしまった。
その苦痛を分けてもらうことはできなくとも、同じように苦しむことはできる。
十年前、怖じ気づいた湊は、凪と苦しむ道を選べなかった。
あのときの湊は、凪と一緒に幸せになりたかった。遠い日の庭で、彼が紫陽花の花をくれた記憶を諦めることができなかった。
青い花を飾って、凪だけの花嫁になりたかった。
それはもう叶わない夢だ。しかし、幸福な花嫁にはなれなくとも、今度こそ一緒に地獄に落ちる覚悟がある。
あの夜、振り払ってしまった手を、今ならば握ってあげることができる。
「これも血かしら。湊ちゃんだけは、と思っていたのよ。なのに、遠田の女は、死んだ人間ばかり愛してしまう」
祖母は目を伏せて、悔いるように両手を合わせた。
病室の外に出ると、気まずそうな遼斗が立っていた。
「三上さん?」
私服なので、休日なのだろう。わざわざ職場まで来てくれたのは、湊が訪れることを知っていたのかもしれない。
二人は病棟を出て、ロビーまで移動する。
「……その、大丈夫か? あんまり思い詰めるなよ。話くらいなら聞くし、何か力になれることがあれば言ってほしい」
木枯総合病院の看護師として、遼斗は祖母のいる病棟を担当している。祖母の病状を、湊よりも正確に把握している。
「なら、ひとつ聞いても良いですか? 夏に、病院で写真をくれましたよね。あのとき、わたしは一人でしたか?」
奇妙な質問だと思ったはずだ。しかし、遼斗は真剣に答えてくれた。
「一人だった。遠田は、一人で見舞いに来ていたよ」
あのときの遼斗には、凪の姿が見えていなかった。だから、凪の失礼な態度に怒ることもなかったのだ。
湊が気づかなかっただけで、そこかしこに手がかりはあった。
「俺からも質問して良いか? 遠田の言う凪さんって、もう死んでいるんだよな?」
「十年前、ここで亡くなっています」
「そっか。この病院、院内での異動はあっても、めったに転勤はないから。凪さんのこと憶えている看護師もいて。……だから、遠田のおばあ様、認知症が疑われていたんだ」
「凪くんの話でもしていましたか? もしかして」
「そう。まだ凪さんが生きているかのように振る舞うんだ。ただ、それなりの年齢だから、そういうこともあるか、と納得した。問題は、遠田が親戚のお兄さんと同居しているって言ったこと」
遼斗にその話をしたときは、まだ凪の死を忘れていた。当たり前のように同居人として説明した覚えがある。
「十年前のこと、うわさ話しか知らないけど。遠田が町を出て行った原因、自殺未遂って言われていたんだ。親戚のお兄さんに不幸があって、海に飛びこんだって」
「だいたい合っていますね」
湊が入水自殺を図ったのは事実だ。すべて忘れていた十年間、海やプールに近づくことが苦手だったのも、そのことが原因だった。
「合っているのか、外れてほしかった。親戚のお兄さんが凪さんなら。遠田は死んだ人間と暮らしていることになる」
「でも、指摘するわけにはいきませんよね。昔、それで海に飛びこんでいる女に」
遼斗の気遣いは、ごく普通のことである。どんな行動に踏み切るか分からない相手を刺激したくはない。凪が死んでいることは、とても口に出せなかったのだ。
「もう、そんなことしないよな? 俺、ここで遠田が死んだりしたら嫌だ。友達が死ぬのなんて見たくもない。菜々にだって、顔向けできない」
遼斗は眉をひそめた。その表情が菜々と重なる。
親戚として疎遠だったわりに、彼女たちは意外と似ている。顔だけではなく、世話焼きなところが、特に。
「あの頃は、大好きな人が死んだら生きていけないって思っていたんです。そんなことなかったのに」
高校生になったとき、はじめて普通の人が生きる世界を知った。
同年代の子たちは、すぐに絶望し、すぐに元気になる。湊にとっては些細なことを、世界の終わりのような悲劇としてあつかった。
嫌でも気づかされた。凪を世界のすべてと感じていたのは間違いだった、と。
湊のすべては凪だった。好きも嫌いも、喜びも苦しみも、すべての理由は彼だった。それがどれほど歪なものだったかも知らなかった。
やがて社会に出ると、湊は菜々と出逢う。
世界には楽しいものが溢れていることを教えてもらった。菜々があちこちに連れ出してくれたのは、世間ずれした湊を心配してのことだった、と今ならば分かる。
菜々と過ごした四年は、かつての湊が知らなかった幸福そのものだった。そして、それは凪のいない幸せだった。
「嫌なこと言っても良い?」
「どうぞ」
「好きなの? 今でも。相手は死んでいるのに。凪さんじゃなくても、遠田を幸せにしてくれる人はたくさんいる。……好きな人の不幸なんて、誰も願わない。遠田が幸せになることを、凪さんも願っていたと思う」
だから、バカな真似はしないでくれ、と遼斗は零した。あまりにも真っ当で、あまりにもまぶしい言葉だった。
「三上さんは、自分が死んだら、好きな人には幸せになってほしいって思うんですね。――凪くんは逆でした。何処か遠くで幸せになるくらいなら、苦しんで、不幸になってほしい、と願っていました」
「……悪い。そんな男のどこが好きなの」
遼斗のような人間には、おそらく理解できない感情だ。彼は、好きな人の幸福を当たり前のように祈ることができる。
きっと、相手を傷つけるばかりの愛情なんて知らない。
凪は違った。湊のことを好きだからこそ、自分のいない場所で幸せになることが赦せなかった。彼にとって、それは一番の裏切りだった。
「ずっと一緒にいるって約束してくれたのは、凪くんだけだったんです。絶対に、置いていったりしないって」
冷たい教会の片隅で、膝を抱える湊を見つけてくれたのが凪だった。そのときに交わした約束を、彼は死ぬまで――死んでからも守ろうとした。
『ねえ、湊。一緒に死んでくれる?』
よみがえるのは、生きている彼と最後に交わした言葉だ。
あの男は、地獄の底まで、湊を道連れにするつもりだったのだ。置き去りにしないと約束したから、最後まで連れていこうとした。
たぶん、たったそれだけのことだったのだ。
タイミング悪いのか良いのか、遼斗と別れた途端、スーツ姿の男とすれ違った。
「満さん。これからおばあちゃんのところですか?」
時刻は夕方の六時過ぎだ。急ぎ仕事を終わらせて、病院まで駆けつけたのだろう。
「君は、いま行ってきたところか。あの人のことだから、どうせケロリとしているんだろう。そういう人だからな」
「おばあちゃんのこと、ありがとうございました。今までも」
「借りを返しただけだ。今でも凪にバカなことを言ったのは許していないが……。あの子があの年まで生きられたのは、潮さんの支援があってのことだ」
「すごく、不本意って顔していますよ」
「いろいろと複雑なんだ。大人になる前に死ぬ。あんな言葉のせいで、うちの両親は、潮さんが凪を殺したと思っている節がある。心から礼を言うのは難しい」
満は左手で額を押さえた。その拍子に、薬指で銀の指輪が光る。
「本当に、御結婚されていたんですね」
「……いきなり何だ。潮さんから聞いていないのか? 子どもだっている」
年齢を考えれば不自然ではないが、家庭を持っている姿が想像できなかった。
「あなたは、ずっと凪くんのこと引きずって、一人で生きていると思っていました」
「そんな訳あるか。凪は死んだ。人生の楽しいことなんて何も知らないで、狭い世界で力尽きた。私は、あの子の分まで色んなことをして、幸せになる。長生きして、家族に囲まれて死ぬと決めている」
満はもう、心の整理がついているのだ。彼にとって、凪は過去の人間だった。海月館に残って、何処にも行けずにいることなど知る由もない。
「君も、自分の人生を考えなさい。私たちの知らないところで、凪じゃない人間と勝手に幸せになってくれ。そうしたら、あの子の墓前で言える。お前の好きだった女は、お前のことなんて大して好きじゃなかった、と」
「満さん、昔からわたしのこと嫌いですよね」
「嫌いにもなる。どれだけあの子を可愛がっても、凪はいつも君に夢中だった。羨ましくて仕方なかった」
言い捨てて、満は病棟に消えていった。
4.
海月館の庭は、薄っすら雪化粧をしていた。月明かりが雪に反射して、不思議なくらい明るい夜だった。
東屋のベンチに、遠い日の凪を見つけた気がした。
昔から、彼は紫陽花の庭を眺めるのが好きだった。梅雨入りになると庭から離れないので、いつ体調を崩すか気が気でなかった。
紫陽花の咲き誇る庭で、凪は花をくれた。真っ青な紫陽花を、花冠のように頭に載せてくれた。
あの頃、当たり前のように続く未来を信じていた。凪の儚さを知りながらも、ずっと一緒にいられる、と夢を見ていたのだ。
館の扉を開くと、薄闇に淡い光が浮かんでいた。水中を揺蕩うクラゲたちが、月の光のように淡く輝いている。
水槽の前にいる凪は、十九歳の少年のままだった。
「誕生日おめでとうございます」
プレゼントを押しつけると、凪は不思議そうに瞬きをした。
「もう戻ってこないかと思ったよ」
「十年前みたいに?」
凪はプレゼントの箱を開けた。紫陽花の彫られたガラス製の灰皿が、仄暗い書庫で煌めく。
「湊にしては趣味が良いね」
「そのわりには、嬉しそうじゃないですね」
「もう、本当に欲しいものは貰えないだろうから。――俺はね、湊がいるなら、他はもう要らなかったんだよ。ぜんぶあげる。ぜんぶ湊にあげるから、ここにいてほしかった」
懐かしい台詞だ。昔、それを言ったのは湊の方だった。
「あげられるものなんて、ほとんどないのに。……俺に遺っているのは、もう湊への気持ちくらいだ」
凪が海月館に留まるのは、海神の一部となったからだ。
しかし、それだけが理由ではないのだろう。彼とて、他の死者と同じように後悔を抱えて、此の世をさまよっている。
この人は、湊のせいで海に還ることができなった。
「わたしが、凪くんの後悔なんですね」
十年前、一緒に死んで、という凪の願いを拒んだ。何もかも忘れて、凪の手が届かない遠い場所で、凪のいない幸福な時間を過ごした。
この町に置き去りにされた凪は、それをどんな気持ちで受け止めたのか。
「後悔だって言ったら、今度こそ叶えてくれるの? 俺の願いを」
冷たい手が、湊を床に引き倒した。かつての非力さが嘘のように、呆気なく、彼は湊を床に転がす。
圧し掛かった彼は、湊の首を両手で掴んだ。
「できないくせに。湊は、俺の願いを叶えてなんてくれない。君は遠くに行く、あの日のように俺を置き去りにして。……っ、俺の知らない場所で、俺を忘れて、幸せになってしまう」
「凪、くん」
湊の首を絞める手に、少しずつ力が籠められていく。その手はたしかに実体を持っていたが、この場所でのみ許された幻だった。
湊はきっと、海に浮かぶ月を眺めている。本当に此処にあるのかも分からない、不確かな幻想を見つめている。
それでも良かった。たとえ、ここにいる凪が、湊の妄執だとしても構わない。
「ぜんぶ、あげます。凪くんが傍にいてくれるなら、ぜんぶ凪くんにあげる」
幼い日、置いていかないで、と泣いた湊を、凪だけが見つけてくれた。
不自由な身体に縛られて、心のうちに毒を抱えながら、苦しみ喘ぐように生きていた人だ。湊を大事にしてくれるのと同じくらい、湊を傷つけたのも彼だった。
けれども、彼だけが湊を置いていかなかった。
最後まで連れて行ってくれようとした。
「連れていってください。海の底でも、地獄でも良いの。……でもね、そのあとは、一緒に生きてください」
首を絞める凪の手に、そっと自らのそれを重ねる。真冬の海のように冷たい手に、少しでも熱を分け与えるように。
「俺は、もう死んでいるのに?」
「でも、あなたはここにいます。わたしと一緒」
憐れな人間を助けてくれる、慈悲深くて都合の良い神はいない。
亡霊となった凪は、海神という大きな仕組みの一部となった。見知らぬ死者の後悔に寄り添って、この暗くて深い、地獄のような場所に囚われる。
せめて、その苦しみを分かち合い、一緒に傷つく道を選びたい。
「あなたが
薄闇のなか、まるで月明かりのように、美しいクラゲが輝いている。暗がりで触手を絡める彼らは、寄り添い、そっと交わり合った。
あのクラゲのように、いつまでも離れずにいたい。互いに伸ばした手が、二人の運命に絡みついて、永遠に解けないことを祈りたい。
冷たい滴が、雨のように頬を打った。海の底のような、深い青の瞳が潤んで、大粒の涙を溢れさせている。
「いつか、あなたを連れ出してあげます。暗くて深い、海の底から」
ここが暗い海の底でも、地獄でも構わない。
いつか必ず、彼を優しい場所に連れて行ってみせる。