花の魔女は二度燃える
第一幕-05-
結局、それからのカグヤは、四六時中、イヴの後ろをついて回った。彼は鬱陶しがることもなく、ただ不思議そうに、その様子を眺めていた。
「懐かしいな、これ」
子ども部屋の本棚に、イヴが手を伸ばした。そこには絵本がずらりと並んでいる。
「イヴ様も、小さい頃に読んでもらいました?」
「むかし、ミレイユに読んでもらった。あれは、俺が赤子の頃から傍にいる。子守唄を歌ってくれたのも、絵本を読み聞かせてくれたのも、ミレイユだけだった」
「お母様の声、とっても綺麗ですよね」
母の声は、誰が聴いても美しいと讃えるだろう。絵本の読み聞かせも、たまに歌ってくれる子守唄も、カグヤは大好きだった。
「何が一番好きなんだ?」
「シンデレラ」
シンデレラだけ、カグヤが前世から知っている物語だった。
どうして、前世――それも、明らかに異なる世界の物語が広まっているのか分からないが、記憶を取り戻してから、自然とシンデレラが好きになった。
「ああ。ガラスの靴?」
「拾って、王子様が迎えに来てくれるんですよ。わたしは魔女だから、シンデレラにはなれませんけれど。イヴ様は王子様ですねえ」
「残念だが、俺も王子様にはなれないな」
「どうして? とっても綺麗な、本当の王子様なのに」
「戦場しか知らない。自分が生きるために、まともに顔も知らない誰かを、まともに意味も分からず殺してきた。綺麗なんかじゃない。綺麗なのは、王城にいる他の王子だった」
イヴがいつから戦場に立たされたのか知らないが、本当に幼い頃からだったのだろう。
魔女が生んだ王子は、難しい立場にある。ろくに情報のないカグヤが、そう思ってしまうのだから、現実はもっと過酷だ。
物心ついて、生も死も、まともに向き合えるようになったとき、すでにイヴの手は他人の血に濡れていた。その意味も知らず、たくさんの命を奪った後だった。
「他人を殺したくせに、自分は生きている。そんなこと許されるのか? 俺が殺した人々は、俺なんかよりずっと大事なものがあって、たくさん愛されていたはずだ。誰が、許してくれる? こんな空っぽの、何も持たない人間が生きることを」
その問いかけは、許されたい、という望みの裏返しだった。
生きることなんて、本当ならば誰の赦しも請う必要はない。だが、そんな風に追い詰められるほど、イヴの歩んできた道のりは険しいものだった。
カグヤは自分の両手を見下ろした。
傷ひとつない掌、血に濡れることのない手は、大事に守られてきた子どものものだ。
朧げになっている前世でも、生まれて五年しか経っていない現世でも、カグヤは恵まれていた。虐げられることもなく、痛みも知らずに生きた。それを当然のこととして受け止めてきた。
顔をあげると、宝石のような緑の瞳がある。その美しい緑は、何処か空虚で、何もかも諦められたかのような虚しさがあった。
やっぱり、捨てられた仔犬のようだ、と思った。
かつて、日本に生まれた少女だったとき。公園に捨てられた犬を拾おうとしたカグヤを咎めたのは兄だった。手を伸ばそうとしたカグヤを抱きあげて、兄は困ったように首を横に振った。
あのときは拾ってあげられなかった。けれども、今ならば、と思う。
「許してあげますよ」
この可哀そうな男の子に手を伸ばしても、許されるのではないか。
「わたしが、イヴ様が生きることを許してあげます」
「……俺が、どんなに汚れても?」
そんな風に尋ねながらも、イヴは何も期待していなかった。五歳の少女、何も知らない子ども、と侮っている。
「どんなに汚れても、ぜんぶ許してあげます。だから、帰ってきて。死なないで」
このまま戦場に行かせたら、きっとイヴは帰って来ない。自分の命すらも、簡単に投げ出してしまう気がした。
カグヤは本棚の引き出しから、金糸で刺繍のされた箱を取り出す。掌に載るくらいの小さな箱は、五歳のカグヤが大事なものを仕舞ってきた宝箱だった。
父が贈ってくれた栞、母が編んでくれたレース編みのリボン、両親と出かけたときに買ってもらった可愛いボタン、ひとつひとつを取り出す。
そうして、空になった宝箱を、イヴに押しつける。
「わたしの宝箱、イヴ様にあげます。大事なものは、ぜんぶここに仕舞っちゃってくださいね」
「仕舞う?」
「そう。この箱がいっぱいになるまでは、死んじゃダメですよ」
「こんな小さい箱、すぐいっぱいになる」
「ううん、箱の大きさの話じゃないんです。これはイヴ様の心だと思ってください。あなたが本当に大事に思うもの、失くしたら生きていけないものだけしか、仕舞ってはいけません」
イヴは困ったように眉を下げる。
「……お前、本当に五歳か? 何十年も生きていそうだ」
「五歳ですよ! もう」
「冗談だ。本物の魔女は、人間と違って、最初から道理を識っている生き物だからな。……カグヤなら、この箱に何を仕舞うんだ?」
「家族、でしょうか?」
不思議なことに、カグヤはこの星に生まれてからの記憶を、鮮明に思い出すことができる。赤子の頃の記憶でさえ、魔女の身体には残っていた。
生まれるとき、取り上げてくれたのは父だった。
自分にも、そして母親にも似ていない娘を見て、彼は嬉しそうに笑った。僕の娘、と言ってくれた。
魔女の容姿は、あらかじめ型が決まっている。親子であろうとも、同じ型になることはないので、見た目からは血縁が分からないのだ。
だが、それは魔女側の常識であって、人間であるダリウスには通じない理屈だ。
それなのに、彼は何の疑いもなく娘と言って、大事にしてくれた。
母も同じだ。仕事で家を空けることが多いが、帰ってきたときには鬱陶しいくらいに甘やかしてくれる。
カグヤはずっと愛されてきた。家族に大事にされてきた。
だから、カグヤの宝箱には、きっと家族が仕舞われている。
「家族、か。……なあ、もし、この箱にひとつも仕舞うことができなかったら、どうすれば良い? 自分の命だって、どうでも良いのに。失くしたら生きていけないほど大事なものなんて、見つかるとは思えない」
空っぽの王子様は、皮肉げに笑う。まるで自らを嘲るように。この男の子の掌には何もないのだ、とカグヤは思い知る。
イヴの袖を引く。彼は目線を合わせるよう、膝を折ってくれた。
「あのね、この先もずっと空っぽなら、わたしがそれになってあげます。約束しましょう? 大人になったら、お嫁さんにしてください。シンデレラみたいに迎えに来て、王子様。あなたの箱が空っぽでも、わたしが入ったら、空っぽじゃなくなるでしょう?」
「俺の隣にいると、きっと不幸になる」
「そこは、幸せにする、くらい言ってください。わたしが大人になるまで、生きてくださいね」
「何があっても、生きろ、と言うんだな」
「だって、死ぬことより不幸なことはないんですよ」
少なくとも、十五歳で亡くなった前世の自分は、そう信じていた。死因をはっきりと思い出せなくとも、幸福な少女だったことは憶えているから、進んで命を投げ出したとは思えない。
前世のカグヤは、もっと生きたいと願いながら死んだ。
「皆が、俺の死を願っていても?」
「皆って、誰ですか? わたしはイヴ様に生きていてほしいのに」
イヴはうつむく。カグヤは手を伸ばすして、形の良い頭を撫でてあげる。
「あのね、生きていたら、綺麗なものとか、美しいものとか、きっと見つかると思うんです。生きているだけで、幸せだなって思えるときが来るんです」
イヴの腕を引っ張って、カグヤは窓辺に向かう。
開かれた窓から、甘い花の香りが流れてくる。子ども部屋は、薬草園のなかでも特に花の多い場所と面している。カグヤのために、父がそうしてくれた。
「わたしは、お父様の薬草園を見ていると、ああ幸せだなって思うんです。だって、とっても綺麗しょう?」
イヴは何を思ったのか、カグヤを抱きあげる。窓辺に足をかけると、そのまま薬草園へと飛び降りた。
「綺麗だな、たしかに」
「でしょう? なんだか、それだけで幸せだなあって思いませんか? 生きていて良かったって」
花々を眺めながら、イヴは薬草園を歩く。
「今日みたいな日はね、寝っ転がると気持ち良いんですよ。とっても良いお天気なので」
カグヤに言われるがまま、イヴは仰向けに芝生に倒れた。近くに座りこんで、彼の顔を覗き込めば、イヴは小さく笑っていた。
まぶしい太陽に目を細めて、ほんのわずかに唇の端をあげる。たったそれだけの表情に、カグヤは息を呑む。
人形のような男の子に、はじめて命の息吹が吹き込まれた気がした。
あまりにも綺麗だったので、動揺したカグヤの全身から、色とりどりの花が咲いた。
波打つ黒髪からは赤い雛罌粟(ひなげし)が、まなじりから白いカスミ草の花が、指先からは澄んだ青の勿忘草が。
瞬く間に咲き乱れた花々が、カグヤを飾りつけた。
「カグヤ」
寝転んだままのイヴが、甘えるようにカグヤの膝に頭を預けた。
その仕草は、小さな子どもが母親を探しているようで。
あるいは、捨てられた仔犬が健気に鳴いているようで。
「良い子ですねえ、イヴ様は」
気づけば、カグヤは彼の頭を撫でていた。そのまま、小さな掌で、ぺたぺたと顔のあちこちを触っていくと、イヴがそっと頬を寄せてきた。
「死んでしまいたい」
言葉とは裏腹に、その声は明るかった。いまこの瞬間が幸せで、幸せだからこそ、このまま死んでしまい。そんな気持ちが籠められているかのようだった。
「もう。死んだらダメですって」
「なら、ぜんぶ許すなんて言わないでくれ。死んでしまいたいくらい、お前のこと好きになってしまうから。……なあ、カグヤ。俺のことを好きになって」
イヴは祈るように目を伏せて、カグヤの膝に額を押しつける。
十歳も年下の女の子に甘えるのは、カグヤが何も知らない五つの少女だからだ。イヴの抱える事情を知らない、いずれ、こんな風に過ごしたことを忘れる。そうやって、彼はカグヤのことを幼い娘として侮っている。
ほんのいっとき、すがる相手としてちょうど良かったのだろう。
「はいはい、好きですよ。だから、大人になったら、お嫁さんにしてくださいね。約束です。指きり」
「指きり?」
イヴの小指に、自分のそれを絡める。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指きった!」
「針千本も飲んだら、さすがの俺も死ぬ。カグヤは変なこと知っているな。魔女の風習なのか?」
「そんな感じです。約束は絶対ですよ。破ったら呪います」
「針千本はどこに行った?」
「御返事は?」
イヴは、カグヤの手に口づけた。
「いつか、俺の花嫁になってほしい」
イヴにとっては、戯れのような約束だったのかもしれない。明日とも知れぬ王子は、いつか、こんな小さな女の子がいたことを忘れてしまう。
そうあるべきだと思っていた。
二人の約束が叶えられたのは、それから十年が経った日のことだ。
十五歳になったカグヤの前に、美しい王子様は現れた。
「約束どおり迎えに来た」
最愛の母――ミレイユの葬儀が執り行われた夜。
棺の前で跪いたイヴは、泣きじゃくるカグヤに指輪を差し出した。
Copyright (c) 東堂 燦 All rights reserved.
-Powered by HTML DWARF-